2012/11/17

夫婦狸

昨日は雨乞いの瀧に行った。これから2013年をまたいで、雨乞いの夫婦瀧を描かせてもらうので、ご挨拶にという気持ちだった。何度も網膜に、この瀧を映したことはある。だけど、ほんとうに見たのかと自分に問うてみると、ほんとうに見たとは言えないと思うところがある。何年かしたら忘れてしまうような記憶なら、見たとは言えない。 挨拶をしたからと言って、相手は自然なのだから、録音機に記録されるような返事はない。だけど縁を作れるかどうか、縁を作る準備が、こちらにあるかどうか、それを自分に問い、試したいのだと思う。網膜に映ることと、事象と出会うことは、まったく違うことなのだと思う。瀧は、それぞれの人にとっての、それぞれの瀧であり、言い換えれば、人は自分の瀧しか見ることができない。それは悲しいことでもあると同時に、かけがえのない富だとも思う。目をつぶっても浮かんでくるような、年を重ねても、離れていても、この世に存在しなくとも、すぐそばにいるような記憶として、事象と出会いたい。そういう気持ちが、自分を突き動かす。網膜に映っていても、見ていないことがたくさんあるし、網膜に映っていなくても、見えることがある。そのよじれのような接点を、探しているのだと思う。

                            ★

今日も朝から雨乞いの瀧に行った。(ほんとに雨がふってしまった)。じつは昨日、瀧の手前に頭が取れたタヌキの地蔵さんがあって、連れと二人で「なおそうか」という話をしていた。ここに来るたびに気になっていたのだけど、すぐ忘れてしまう。その日も家に帰ったら、タヌキのことはすっかり忘れていた。だけど昨日の夜、ジョギングしているときに、二匹のタヌキに遭遇した。めったにない珍しいことなので、じっと観察していた。タヌキはおそらく、夫婦(めおと)。こちらをじっと見て、意外にもなかなか逃げない。こりゃあ縁起がいいなあという気持ちでジョギングを再開して、家に帰って、寝る直前に、ハッと頭のないタヌキのことを思い出した。


『はやくなおしてくれよ』と、夫婦で催促に来たのだと思った。『忘れないでおくれよ』と。昨日から描きはじめた雨乞いの瀧をモデルした作品も、夫婦の瀧。直す道具は持っているで、これはさっそく明日にでもいかなきゃと思った。そして今朝、雨乞いの瀧に向かった。大雨だった。

こじつけと言われれば、それまでである。それがどうしたと言われれば、どうもしない話である。だけどもこういう通路を、大切にしたい。

編みたいのだと思う。

ここにタヌキを置こうと一番はじめに思った人、ここに石段を積んだ人、このタヌキの置物を作った人、頭のないタヌキが気になっていた人、この置物の原料、石段に積もった苔、土、タヌキ、そして夫婦瀧。森羅万象に散らばった、それぞれの縁の糸をたぐり寄せて、一枚の織物を作りたいのだと思う。自分だけの織物、そのような物語を、はじめたいのだと思う。


そういえば昨日のタヌキもこんな顔をしていたなあ。

追伸

翌日もタヌキの再修復をしに雨乞いの瀧に行った。その夜のジョギングで、三匹のタヌキに遭遇した。緩いカーブの手前で、まるで待ちかまえるように、道路の真ん中で二匹、帰り道の森のなかで一匹を見た。『ありがとう』と言いに来てくれたのだと思った。去年もこの時期から走りはじめたが、春までにタヌキを見たのはたったの一度だけである。たまたま今年になってタヌキが増えただけである。たまたまタヌキのお地蔵をなおした日と重なっただけである。それだけなのだけど、底なしに深く考えられることがある。深く深く、考えられることがある。








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