インドラの綱
まるで地獄絵図のような、海の向こうの凄惨な場面をメディアを通して見たときに、この映像(写真)をずっと前にも見たような、そしてこれからも、繰り返し見るような、波のような既視感と未視感の入り交じったような気持ちになり、虚無に溺れそうになることがある。それはたぶん、自分が傍観者だからと思う。十年前の今日のニュースを、僕は覚えていない。ただ覚えているのは、自分事、自分で感じた痛みだけ。しかしふと、遠い国で起きた響きが、打ち寄せる波のように、自分でもよくわからない角度で、リアリティとして繋がることがある。それを昨日、鬼籠野(おろの)の神光寺の、紫色の、のぼり藤の下で感じた。
天気予報の雨が降る前に、朝からでかけた。のぼり藤の下からは、空はほとんど見えなかった。そのときの甘い香りを覚えている。あとになって、あれはいつか読んだ、宮沢賢治のインドラの綱の風景だとわかった。藤の甘い匂いは『冷たいまるめろの匂い』と賢治が表現した、天と地の汀から漂う芳香だった。そのことを、昨晩シリアのアレッポという石鹸で髪を洗っていたときに、ああ、そうか、と反芻した。それは人には説明できないような感覚。そのよくわからない感覚を、人間はがむしゃらに解こうとする本能がある。自分(人間)にそういうところがあるので、断言できる。それは把握しないと、不安だから。だけどよくわからない感覚を解きほぐすときに、インドラの綱まで解けて、バラバラに空が砕けてしまう予感がつきまとう。そうして蜘蛛の巣のように、何度も再生して、繰り返される。繰り返されていることに気づかずに、ただ刺激として慣れてしまうと、自分の頭で考えないようになる。考えられなくなる。それが自分にとって一番恐ろしいことで、人生の盲目。そういうときには、自分だけの感覚(リアリティ)を探す。
そういう気持ちになると、ささいなことで、タイミングの不思議(風)が起こって、示唆をくれる。読んだ人にしかわからない話だけど、宮沢賢治が、インドラの綱で登場させた、壁画の中から飛び出した三人の子供のこと。そういう感覚を、自分事として、見逃さずに捕らておきたいと思う。
『こいつはやっぱりおかしいぞ。天の空間は私の感覚のすぐ隣りに居るらしい』宮沢賢治
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