狂犬病の予防接種の日だったので、指定の鬼籠野(おろの)の公民館へ行った。突然やってきた捨て犬、空(くう)は、じつは拾ってから一度だけ、外で人を噛んでいる。タバコを持った手で触ろうとしたので、反射的に足を噛んでしまった。幸い顔見知りの人だったので、謝り倒して、許してもらった。もし拾う前なら、保健所行き。人間社会にとって脅威なので、静かに殺される。邪魔なので、抹殺。まるでなかったもののように、存在を消されるということ。そんなふうに人間が、なにものかによって、なにもなかったように存在を消されたらどうだろう。自分も不注意で何度も空に噛まれている。でもそれは喉元を狙うようなものではなく、遊びが過ぎたようなもので、そんなもんは数日忘れてたら、勝手にふさがる傷。それがどうしただ。外で違う犬にそうなったとしても、同じこと。自浄を鍛えるいい機会だとは、なぜ思えないのか。
偶然出逢ってしまった動物に、自分を重ねてしまうことがある。それは投影ではなくて、通じ合えないからこそ、膨らんでいく見えない世界があり、そこに自分を落とし込むということ。先に犬が死ぬだろうと思う。そのときに、幸せだったのか?と聞いてみたい。野良犬のときより、すこしはましだったか?と聞いてみたい。もし自分が先なら、しぶとく荒っぽく生きろよ、と願う。空はたしかに、自分の奥に潜むなにかを象徴している。それは声なき声のようなもので、その響きに、じっと耳を澄まして、自分なりに咀嚼して翻訳してみると、結局、自分のなかにある甘えや依存心と戦うこと、国家の嘘や社会の歪みを直視して、戦うことに繋がっている。
空を見ていると、去年、ひかれたイタチを車道に避けたときの、まるで納得したかのように、むくっと立ち上がり、トボトボとこちらに歩いてきて、こちらを一瞥した、あのやせ細った犬のことを思い出す。そういえばあのあと、撮った覚えのない不思議な写真が二枚、iphoneに残っていた。今も保管している。それは紫色の太陽のような写真で、そういえば指定された鬼籠野(おろの)の公民館の、すぐ近くにある神光寺ののぼり藤の花は、あんな色をしていた。藤の下から見上げた空は、ガジュマルのようなインドラの綱にからまって、紫上を忍んでいた。
偶然出逢ってしまった動物に、自分を重ねてしまうことがある。それは投影ではなくて、通じ合えないからこそ、膨らんでいく見えない世界があり、そこに自分を落とし込むということ。先に犬が死ぬだろうと思う。そのときに、幸せだったのか?と聞いてみたい。野良犬のときより、すこしはましだったか?と聞いてみたい。もし自分が先なら、しぶとく荒っぽく生きろよ、と願う。空はたしかに、自分の奥に潜むなにかを象徴している。それは声なき声のようなもので、その響きに、じっと耳を澄まして、自分なりに咀嚼して翻訳してみると、結局、自分のなかにある甘えや依存心と戦うこと、国家の嘘や社会の歪みを直視して、戦うことに繋がっている。
空を見ていると、去年、ひかれたイタチを車道に避けたときの、まるで納得したかのように、むくっと立ち上がり、トボトボとこちらに歩いてきて、こちらを一瞥した、あのやせ細った犬のことを思い出す。そういえばあのあと、撮った覚えのない不思議な写真が二枚、iphoneに残っていた。今も保管している。それは紫色の太陽のような写真で、そういえば指定された鬼籠野(おろの)の公民館の、すぐ近くにある神光寺ののぼり藤の花は、あんな色をしていた。藤の下から見上げた空は、ガジュマルのようなインドラの綱にからまって、紫上を忍んでいた。
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