2013/05/08

ケシの花

アンドリューワイエスのヘルガという画集を近くに置いて、ときどき眺めている。それは奥さんにも誰にも見せ ないで描き溜めていた、ヘルガという近所に住むドイツ人女性だけを描いたシリーズで、モチーフや画材とか構図とは別のところで、ものすごく勉強になる。なるほどなあと、深く思いいり、感心するところがあり、技術は追いつけなくても、大きな励みになる。

自分は油絵は独学だけれど、技術は勝手についてきた。振り返ると、むしろ学ばないで、自分で試行錯誤する方が、発見があったように思う。ルツーセという画溶液も最近になってはじめて知った。その程度でも、ぐんぐん進む力があれば絵は描ける。では技術は、なにについてくるのだろうか。その先に進む力の正体とは。このことは言える。自分には、ある、強くて揺るぎないイメージがある。言い換えると、描く前に先に絵が見えている。だけどそれを、正確に目に見える形に落とそうとしても、いつも必ず、届かない。永遠に届かないような予感もある。それはすべてが技術のせいだけとは言えないところがある。描いている最中は、ほとんど迷いがないし、モチーフもまったく悩まない。次の絵は、すぐに取りかかるし、何枚も同時に描き進める。だけど、完成したと思ったところで、突然ものすごく不安になる。ああ、やっと港だ、長い旅だったなあ、と思った矢先に、暗礁に乗り上げる。完成したと思ったあとに、悩んでしまう。それで捨ててしまうこともあるし、その巨大な不安の波を、反対方向から打ち消すように、次の絵にとりかかったり、前の絵に執拗に手を加え続けていたりする。これはある意味、自分をごまかしていると言えると思う。砂曼荼羅と同じで、完成したら、吹き消してしまうことが、正解なのかもしれない。

ワイエスはこんな言葉を残している。

『私の感じ方は、それを絵に描いた結果より数段優れている。絵筆を取る前に、私は頭のなかにあったイメージを、絵のなかに完全に再現することは決してできない』

この言葉のいわんとすることが、ヘルガを追う、執拗な画家の眼差しによって貫かれている。すでに頭のなかにある絶対的なイメージというもの。そのイメージの強さが、現実をすり合わせるかのように、すべてを突き動かしているのではないだろうか。それはたぶん、見えない力というものの、根元が指し示している未来であり、それが、あらかじめ定められた運命のようなものかどうかは、よくわからない。

たとえば今この瞬間も、地球のどこかで、世界平和に祈りを捧げている、小さなサクランボのような女の子がいたとする。その子の祈りは、今この瞬間に、絶望的な世界の暗みに、可能性の種のような、小さな影響を与えていると思う。ものすごく小さいと思うけど、そのことを信じることができる。関係がないとは、誰にも断言できないはず。別に神秘的な話ではなくて、時空を超えるものはある。

たとえばある日、家の前で小さな一本のケシの花が咲いた。それは自分が種を蒔いたものではなくて、風に乗って、勝手に飛んできて、勝手に咲いたもの。その自由が、世界の果てで行われた、ある小さな小さな祈りと、まったく関係がないとは、誰にも証明はできないはず。証明できないものは、ないのではなくて、在る。その大いなる自由に向かって、人は見えなくても風を感じて、帆をあげる。その速さは問題ではなくて、感じ方なのだろうと思う。ゆっくり歩いた方が、感じやすいこともあるのかもしれない。だからワイエスは謙遜しているけど、その感じ方は、その作品にひじょうに近しい陰影があって、それこそが、画家が、本人以外には誰も感じることができない、地獄のような苦渋と引き替えに手に入れた、才能なのだろうと思う。

この一本のケシの花は、ヘルガなのかもしれないし、小さな祈りなのかもしれない。




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