2013/05/27

小鳥のために

鶯の鳴き声に耳を澄ましていた。鶯がいつもと違う鳴き方をしたので、記録しようと思って、メモしていた。こん な鳴き方だった。「トケテ トケテ トケテ トケテ キッチュキッチュキッチュ トケキッチュ トケキッチュ」書き言葉にすると、ちょっと違和感があるのだけど、小鳥になったつもりで声に出して読んでみると、近いものはある。翌日、さらに違う魅力的な鳴き方をしていたので、またメモしようと思って、言葉に変換していたのだけど、実際の鶯の鳴き声との乖離があまりも激しいので、いやになってやめてしまった。小鳥の声も正確に伝えられないほど、言葉とは不自由であり、実際の経験が、いかに複雑な感情を自分のなかから呼びさましていたのかを実感した。

その不自由さは、きっと自分の科学的な態度に原因がある。小鳥の鳴き声を直訳しなくても、自分はその歌声を通して、小鳥との関係を保っているわけで、鶯がどのような鳴き方をしようとも、その響きに応じて現れる心模様こそ、小鳥と自分との約束であり、リアリティなのだ。人間が人間であることから逃れられないように、小鳥は小鳥であることから、逃れられない宿命を背負っている。その小鳥の歌に、なんとも言えない、もののあわれを感じてしまうというのは、小鳥と自分との関係性のなかで、バイオリンのように、宿命同士が見えない場所で響きあっているからだと思う。だから小鳥の声は、美しくも、どこかせつなさを帯びている。カエルだってそうで、フクロウも、猿も鹿もそうだ。その声はどこか遠くて、せつない。

ほんとうに大切な、最も美しいものはおそらく、目に見えてわかりやすい形にしたとたんに、壊れてしまうんだと思う。だけど関係性のなかであってこそ、響きあえる共鳴の鐘の音を、人は心に感じることはできる。小鳥の声は、その関係性の路に吹く風の音であり、命の表現なのだ。美しいものが伝わるときは、必ずその背後に、語るに語れない、哀しくて遠いものがある。

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薔薇のうえを歩いていた小さな蟷螂(カマキリ)がいた。蟷螂は、勇敢に自分の歩いている、その波打った大地が、こんなにも妖しい黄泉の国のような色をしていることを、知ることは一生できないことだろう。ただ薔薇と蟷螂が、なんの虚飾もなく、そこに在るだけで、人の目は遠いものを見ようとして、心に蝋燭の火を灯し、うっすらと浮かび上がったその揺らぎのなかに、かけがえのない関係を確かめようとする。わたしたちが見ていると思っている世界の、見過ごしてしまいそうなささやかな現象のなかに、ある関係性を築きあげていくことは、本質を考える力の源であり、大胆に時代を読む力や行動力に通じていると思う。ありのままの自然に対峙したとき、自分のそもそもの態度のことを、考えざるを得ないから。態度が変われば、知らなければいけないことや、取らなければいけない行動を直観するだろう。自分が見ていると思っている世界が、ほんとうは自分というフィルターを通した世界だと気づいたときに、はじめて見ている世界との乖離に気づかされる。生まれて死ぬのが寿命なのだから、それならばどうにか、その寿命の許された時間で、乖離を埋めたいというその願いが、魂の通路を掘り下げてくれるのだろう。



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