2013/05/12

色彩論


ゲーテは観測する者と観測されるものが、一体となったときに初めて、自然が本当の姿を現すと考え、自然と人間を切り離した近代科学、ニュートンのスペクトル分析を批判した。実験によって数値に置き換えられた自然は、もはや本当の姿を失っていると警鐘を鳴らしたが、当時の科学者たちの嘲笑の的になった。色彩論では、色彩とは、光と光ならざるもの対立(結婚)、光と闇の境界線にこそ、存在すると説いている。ニュートンの光学では闇とは単なる光の欠如として排除され、研究の対象になることもなかったが、ゲーテは闇を「光のない状態」と短絡的に考えるのではなくて、闇そのものの存在を重視し、色彩現象の両極を紡ぐ重要な要素として考えていた。もしもこの世界に光だけしかなかったら、または闇だけでしたら、色彩は成立しない。この両極が作用し合う「くもり」のなかでこそ、色彩は成立するとゲーテは謳った。

『色彩は単なる主観でも単なる客観でもなく、人間の眼の感覚と、自然たる光の共同作業によって生成するものである』ゲーテ

そもそもゲーテは光とはなんであるかを論じておらず、光それ自体は、一切の翳りも境界ももたない、透明な明るみであり、自ら現象することなく、すべての存在を現象せしめるものとしている。エーテルとか、暗力(ダークエネルギー)のような器として捕らえていたのだと思う。だからその器を推し量ること、科学的なとらえ方のみに傾倒して、数値に現すことができない人間の精神を置き去りにしていく光学に異論を唱え、自然との調和が崩壊していくバベルの塔を予見した。光や色彩は、自然という総体のなかでこそ存在しうるものであって、そもそも人間(精神)も自然のなかで揺れ動いているものなのだから、その箱のなかで分析したり、実験して把握したつもりでいても、それは舟のなかから窓の外も見ずに大海を知ろうとするようなもので、俯瞰の眼を通さずに数値だけですべてを把握しようとする態度は、むしろ真理からは遠ざかっていく姿だと言える。


いろんな色の絵の具を扱っていると、そのときどきに、小さく自分の心の状態に違いがあることに気づくことがある。この違いは、色による作用だと思っている。たとえば森の色を使っていると、精神が安定する。想するような、内に向かっていくような静寂と平安がある。たとえば蓮の花の色、白地に薄い紫色の陰影をつけているときに、甘い気持ちになる。色のない素描のときは、そういう具体的な気持ちにはならない。そのかわりに、なにか別の空間に触れているという認識に包まれているような気がする。別の時空へのアクセス権を得ているというのか。こうした実体験は、すべて心の内で起こっているものなので、詳細なデータに表すことはできないのだけど、ゲーテの色彩論に一致している。色彩のない陰影は、すべてを許容する透明な明るみ。色彩とはそこに浮かぶ、精神との調和であり、光と闇の境界線。光も色彩も、それを把握しようとしている人間も、すべては自然という総体(大いなる母)のなかに含まれている生命であるということを、かたときも忘れてはいけないと思う。もうこれ以上間違った方向へ文明を進化させて、二度と戻れないような滅亡を招かないように。

 『今日、われわれが原子の構造を見たとしよう。そこに、われわれは、何を見るであろうか。そこに見るのは、われわれの意識の構造そのものなのである』ハイゼンベルク
 



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