朝から浮世絵のような雨。春雨だから、気分はいい。陽光は 心を温めてくれるけど、雨音は心 を静めてくれる。数日前に届いた 、ドガの画集を眺める。晩年の彫刻作品になると、手が止 まる。デュシャン以後の発注アー トではなくて、ドガやアントニオ ロペスガルシアのような、絵画か ら彫刻に移る、手探りのような自 然な流れに惹かれてしまう。
夏の夜にヘッドライトをつけて走 ると、小さな蛾が白く発光して顔 の前を横切る。一瞬だけど、大き な羽根をつけた踊り子のように見 える。ああいう一瞬を追いかけて 形にしたら、ドガの彫刻のように なるのだろうな。
ドガの絵を見ていると、シューベ ルトかリストを聴きたくなる。シ ョパンほど甘くなくていい。セザ ンヌはバッハ、ゴッホはベートー ヴェンを聴きたくなる。光が音を 誘い、音が色や形を暗示している 。
ドガは目に病があって、直射日光 に耐えられず、屋外製作ができな かった。自分も小学生の頃、炎天 下で外にいると、白く視界が狭ま って、頭痛が起きることがあった 。幸いもう症状はなくなったけど 、視界が両端から白く染まってい き、これから頭痛と保健室に行く ことが確定したあのときの、現実 が離れていくような、なんとも言 えない憂鬱を、よく覚えている。 ああいう憂鬱のなかにも、永遠に 続きそうな、安らぎの溜まり場の ようなものが、あったのだと思う 。だから記憶にしおりを挟んだよ うに、よく覚えている。目に見え る世界が、中断する。考えただけ で、恐ろしい。だけどその先に、 中断されていなかった世界が、今 に続いているような、どこか懐か しい連続性がある。
降り続く雨のような、憂鬱だけど 、過ごしやすい。自分の思うよう にはならなくて、つらい。でも、 なんだか気分は悪くはない。なん の根拠もなく、小さな勇気のよう なものも湧いてくる。強くはない 。どちらかというと、臆病だ。道 の先に、なにがあるかわからなく て不安、でもその不安定に、足が 進む。それでも生きろと、柔らか い野風が、背中を押す。
なにかを諦めたはずのに、なにか を手に入れていたような、そうい う自分でもよくわからない、矛盾 した気持ちが、視界を消していく 、あの白い靄の奧に向かって、渦 のようにまっすぐに伸びていく。 その渦の向こう側には、まだ形に はならない幽体が、こちらに向か って発光している。
「ドガは常に自分の孤独を感じ、 また孤独さのあらゆる形態によっ てそれを感じていた人間であった 。彼は性格から言って孤独であり 、彼の性質の気品と特異さとによ って孤独であり、彼の誠実さによ って孤独であり、彼の厳密さと主 義や批判の不屈とによって孤独で あり、彼の芸術によって、すなわ ち彼が自分自身に要求したことに おいて孤独であった」ヴァレリー
「なにも知らないうちは、絵を描 くことはそれほど難しいことでは ない。しかしいろいろ解ってくる と、そうはいかないんだ」ドガ
彼が抱えていた孤独の色は、僕に は見えない。でも彼の描いた踊り 子や馬には、憂鬱や倦怠を凌駕す る、それぞれが放つ、一輪の花の ような色気や、誰にも譲れない矜 持がある。微熱を帯びたように、 なんとなく見ているこちらが、ぽ おっと心が温かくなるのは、魂の 孤独や憂鬱が、まっすぐに伸びた 時間の渦をくぐって、彼岸から発 光しているからだろう。その光が 熱になって、雨に濡れた霊魂を温 めている。
「本質的な芸術家というものは、 彼の芸術に憑かれているのである 」
「作品が作者を修正する」
ヴァレリーの言葉に寄り添うなら 、彼の魂を支えていたのは芸術神 であり、一人の踊り子であり、一 匹の馬であった。
「鉛筆を手にせずにして或る物を 見ることと、それを描こうとして 同じ物を見ることとの間には非常 な相違がある。というよりも、我 々はその場合、二つのまったく異 なったものを見ているのである」
「我々は、その形をいままで知ら ないでいたのであって、それを本 当に見たことはまだ一度もなかっ たのを感じる」
数えきれない雨粒が、川の音に合 流しながら、目で追えないような 速さで、乾いた世界を濡らしてい る。この雨を追いかければ、小さ な蛾が、一瞬だけ踊り子に見えた あのときのように、まだ一度も見 たことがなかった秘密の世界を、 感じることができるだろうか。
参考「ドガ・ダンス・デッサン」 ポール・ヴァレリー
写真 Edgar Degas (1834–1917) Little Dancer Aged Fourteen,
夏の夜にヘッドライトをつけて走
ドガの絵を見ていると、シューベ
ドガは目に病があって、直射日光
降り続く雨のような、憂鬱だけど
なにかを諦めたはずのに、なにか
「ドガは常に自分の孤独を感じ、
「なにも知らないうちは、絵を描
彼が抱えていた孤独の色は、僕に
「本質的な芸術家というものは、
「作品が作者を修正する」
ヴァレリーの言葉に寄り添うなら
「鉛筆を手にせずにして或る物を
「我々は、その形をいままで知ら
数えきれない雨粒が、川の音に合
参考「ドガ・ダンス・デッサン」
写真 Edgar Degas (1834–1917) Little Dancer Aged Fourteen,
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