梅が散り、枝垂れ桜が咲くころに 、涅槃桜が散りはじめる。そのこ ろ山桜は、山に寄り添い、自然に そっと、咲いて散る。家からは、 山桜と枝垂れ桜の、両方が見える 。迫力があるのは枝垂れ桜だけど 、自然のなにげない時間を感じる のは、山桜の方かもしれない。
咲きはじめの桜の樹は、あけぼの のように、ぽぉっと赤く染まって いる。遠めから見ると、赤い発光 体のように見える。やがて年をと るように白く染まっていく。こち らもぽぉっと見ると、桜は名を失 い、花を越える。花を越えて見て いると、こちらが発光したような 気がして、赤く染まる。
たまたま桜と呼ばれているなにか が、私のなかに入って、発光して いる。満月が夜道を照らすように 、春のあけぼのが、心の暗い場所 を照らしている。
世阿弥の能楽、西行桜において「 花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありけ る」(美しさゆえに人を惹きつけ るのが桜の罪なところだなあ)と 歌を詠む西行に対して、夢枕の老 翁は「桜の咎とはなんだ?桜はた だ咲くだけのもので、咎などある わけがない。煩わしいと思うのも 、人の心だ」と西行を諭す。老翁 とは、桜の精だった。
枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影 している人はたくさんいるけど、 たまたま川の向こう岸に咲いてい る山桜に、カメラを向ける人は、 一人もいない。同じ花でも、気づ かれる花と、気づかれない花があ る。でも花は、人がいてもいなく ても、ただ咲いて散る。花の精霊 は彼岸に咲く。此岸からは届かな い場所にいる。
咲きはじめの桜の樹は、あけぼの
たまたま桜と呼ばれているなにか
世阿弥の能楽、西行桜において「
枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影
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