雨を含んで土が柔らかいうちに、新調した鍬で畑を耕した。土に触れていると、世界の深みに、コミットしているような気持ちになる。暗黒の地下世界に、ピカピカの鍬の刄を入れて、埋もれていた本質を、雑草もろとも根こそぎ掘り起こす。ひと休みで空を見上げると、どこからか希望が沸いてくる。
土を耕しているときは、いつも野菜が実っている姿を、頭に描いて行動していることに、ふと気がついた。不確実な完成形(未来予想図)が現在の自分を引っ張っているという点は、絵を描くことと共通する。表面上の時間は、過去から未来に流れているけど、頭に想い描いているイメージは、未来から現在に向かって流れている。
その未来予想図は、思ったとおりにはならないかもしれない。むしろ、思ったとおりにならないことの方が、圧倒的に多い。せっかく実った人参や大根は、猿に食べられてしまう確率が、とても高い。でも、それでもいいよと、いつもどこかで思ってる。そういうままならなさに溢れている世界の構造が、心をしなやかにしてくれる。
求めていた未来が、手に入ったとしても、結局はなにか大切なものを、犠牲にしていたり、失っていたりする。そういう力学に振り回されずに、自然から受け取ったものを共感していると、すっと自分が自分から離れて、無限の可能性を孕んでいた想いのなかに、飛翔する。土で汚れた鍬を、荒れ地に立てて、深く息を吐き、ふと見上げる空に、浮かんだ雲と、柔らかい春の陽射し。その彼方から沸いてくる、彼の小さな希望とは、もはやはばむものは何もない、感受性の、自由な羽ばたきのことだろう。
Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas
土を耕しているときは、いつも野
その未来予想図は、思ったとおり
求めていた未来が、手に入ったと
Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas
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