春の嵐が過ぎ去って、夏のような 強烈な陽射しが、風景を白色矮星 のように発光させている。メダカ の水面から反射した光が、磨りガ ラスに炎のような渦を描いている 。昨日(2016.4.16)は海にいた。あの日(2011.3.1 1)もそうだった。海は呼吸して いる。自分も呼吸している。海と 自分の呼吸が重なると、世界との 境界が消える。
アボリジニの画家、エミリー・カ ーメ・ウングワレーの図録を眺め る。
2008年に国立新美術館で、ウ ングワレーの展覧会が開催された 。はっきり覚えていないのだけど 、誰かにチケットをもらったか、 誘われたかで、彼女の絵を見た。 めったに展覧会には行かないし、 積極的に自分から見たかったわけ ではないのに、とても記憶に残っ ている。なぜだか強烈な違和感が あって「この絵はこのような近代 的な空間にふさわしくない」と思 った。「こんなところに置いては いけない」と思ったのは、仏像以 外でははじめてだった。
作品はプリミティブ過ぎて、正直 言うと、なんだかよくわからなか った(準備ができていなかった)。でもなぜだか事件のように 、行ったことだけはよく覚えてい る。彼女の魂が、アボリジニの文 化もよく知らなかった自分に届く のには、2008年から2016 年という8年間の時間が必要だっ た。78歳から描きはじめた、彼 女の三千点以上の作品を残したそ の時間も、およそ8年間だった。
そういうことはよくある。そのと きはわからなくても、記憶は待っ ていてくれる。もしかしたら未来 の自分(現在)が、 そのときの自分に、 興味がなくても見に行くように、 手配したのかもしれない。
彼女の絵は外に向いていない。内 側を歩いている。その内側は外よ りも広い。一見大胆だけど、静か に慎重に歩いている。けして物語 を離さないように、注意して綱渡 りをしている。彼女はモネもポロ ックもロスコも知らない。美術史の外から やってきた。アボリジニの大地か らやってきた。
彼女は自ら望んで画家になったわ けではなく、偶然に与えられた機 会が、彼女に絵を描かせた。画布 も絵の具も絵筆も、すべて与えら れたものだった。パレットはなく 缶のまま、絵筆のかわりにゴムサ ンダルを使うことさえあった。し かし彼女は与えられたものに満足 し、それを自在に操って作品を描 き続けた。描くことは楽しみでも あると同時に、生きることそのも のだった。作品を売って得た現金 は、そのままアボリジニのコミュ ニティの生活を支えた。
最晩年のモネのような「大地の創 造」は、雨季の後に訪れる、彼女 が"緑の季節"と呼んだ時期に描 かれた。美術館で見たはずのこの 絵のことを、僕は覚えていない。 ただ見ただけで、出会っていなか ったからだろう。でも慎重に物語 を歩いて(ドリーミング)いけば 、いつか思い出せるような気がす る。嵐が過ぎた雨上がりの、キラ キラ光る緑の季節に。
写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創 造」1994/ キャンバスにアクリル/ 275×160cm×4
参考 エミリー・ウングワレー展図録
アボリジニの画家、エミリー・カ
2008年に国立新美術館で、ウ
作品はプリミティブ過ぎて、正直
そういうことはよくある。そのと
彼女の絵は外に向いていない。内
彼女は自ら望んで画家になったわ
最晩年のモネのような「大地の創
写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創
参考 エミリー・ウングワレー展図録
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