2018/06/08

六甲の旅

六甲周辺に取材旅行、観音山、ゴロゴロ岳、金鳥山中腹まで登る。近場だけど、探していた岩も見つかり、とても刺激的で有意義な旅だった。予想していたよりもわかりにくくて険しい山道で、観音山山頂付近で道に迷い、焦って左足をグニャってしまった。でもそんなときに山腹で野生のツツジの花に出会い、心の底から気持ちが安らいだ。

不思議なもので、岩にも歓迎してくれているものと、そうでないものがある。探していた岩は導かれるように辿り着いたけど、ある岩は怖かったので近づかなかった。岩そのものに感情があるとは思わないのだけど、なにかが空間を支配していて、見るものに言葉にならないものを感じさせる。
それに比べて花は純粋で優しい。山には山の主がいて、個性がある。花を(心に残るようなタイミングで)見せてくれる山は、見かけは怖くても、根が優しい。

足をグニャってしまったため、金鳥山から六甲山山頂の計画は中止、ただ気になっていた保久良神社(カタカムナ神社)までは行った。金鳥山中腹のこの神社は、地元の人に愛されている、とてもいい神社。周辺の森は、なぜか木がグニャグニャしていて、螺旋階段を降りていくような、宇宙のエネルギーを感じた。幹がこんなに曲がっているクスノキをはじめて見た。ここの森は、来たことを歓迎してくれているように思えて、なんだかわからないけど、嬉しかった。‪金鳥山にはなにか独特の、強いエネルギーがあり、それを地元の人たちもよくわかっていて、愛されているのが伝わってきた。


 

樹木たち

いろんな樹木を描いていると、歓迎してくれる木とそうでない木があるのがわかってくる。そうでない木は、こちらがいくら情熱を注いでも、うまく描けない。描く前にわかることもあるけど、無意識にしか感じ取ることができないメッセージは、基本的には描いて(身体を通して)みないとわからない。

近所の鎮守の森には、楠の大樹が三本生えている。その三本の中で、いつも歓迎してくれるのは、真ん中の大樹(龍樹)。別のを描いていたときは、途中で雨が降りだした。樹木が歓迎してくれるときは、心に残るようなタイミングで光が射し込んできたり、帰宅まで雨を止めてくれたりする。冗談のように聞こえるだろうけど、ほんとの話だ。

自然には触れてはいけない領域というものがあって、そういう場所には守っている存在がいるので、耳をすませていると、近づき過ぎないようにと、ちゃんと囁いてくれる。

何度も描いてしまう樹木たちは、いつでもおいでと歓迎してくれる。描かれると嬉しいらしく、その喜びこそが魂の共鳴、描く喜びそのものなのだ。

 

ままならないこと

大きな絵を描きたくなって、自作でパネルを作って、部屋も少し改装して、何週間もかけて描いていたけれど、途中で失敗していることに気がついて、今日、バラして破棄した。もっと早く気づけばいいのにと思うんだけど、やって(描いて)みないとわからないからしかたない。たぶん他の人が見たら、なにがよくて、なにが失敗なのかわからないだろうと思う。でも本人は一番よくわかってる。努力したからって、報われるような世界じゃないことを。

どんな仕事でもそうだと思うけど、自分に嘘をついたまま作業を進めていると、世界が歪んでくる。チャレンジは必要だけど、歪んだままで山頂を目指していると、魂が遭難してしまう。周りの人は褒めてくれても、本人だけはわかってる。数えきれない失敗や、意味の見えない徒労だけが、魂を救済する。

夕暮れ、気分を入れ変えて、真っ白な気持ちで、久しぶりに明王寺の桜を見に行ったら、おみくじの言葉が景色にシンクロしていて、時間がふっと消えたような、なんとも言えない気持ちになった。自然がいつも優しいのは、変わらないから。ただただそこにある永遠(もののあはれ)を、感じさせてくれるから。

桜花 盛りはすぎて
ふりそそぐ 雨にちりゆく
夕暮れの庭

最近、展覧会の構想がふいに浮かんで、自分でも意外だけど、突き動かされるものがあった。でもまだボンヤリしていたので、いろんな人に意見を聞いてみた。すると自分の内側におもしろい反応があって、相談すればするほど、他の人の意見なんて聞くな、自分のこだわりを貫けと思うようになった。人の意見は、内なる声を反響する。

ほとんど自分でもよくわからないうちに、なにかに突き動かされるとき、背中を押しているのが、自己中心的なものなのか、それとも自分を超えたものなのか、時間をかけて注視する必要がある。クライアントが精霊(it)なら、失敗や徒労や恥や無意味のあとに、とても爽やかな風が吹き抜ける。
成功なんて、たいしたことじゃないと思う。それよりも、大切なことがたくさんある。拍手は聞こえないかもしれないけど、燦々と太陽は輝いている。ままならないことをぎゅっと抱きしめていると、小さな奇跡で日々は満たされる。


 

山犬嶽

山犬嶽に。金毘羅宮の新築を手伝わせていただきました。
 
登山してすぐに新しい社(やしろ)を運ぶ人たちに遭遇、古いのと入れ替えるらしい。「どれくらいぶりですか?」と聞くと「覚えてないから60〜100年ぶりかな」と言う。こんなタイミングはないので、苔の森に行ってから、手伝わせてもらった。
 
山犬嶽には、先週行こうと計画していた。でもなんとなく気分が乗らなくて、理由もなく延期していた。今朝、バチっと目が覚めて、早朝から向かった。山犬が呼んだのだろう。誰も知らない百年に一度の神事を、森の中で見せてくれた。
 
なんとなくの中には、現世では(まだ)採用されていない力学が働いている。ぼんやりしていて、掴みどころがない。でも無意識は知っていて、ここぞというときが来ると、背中を押してくれる。山犬は時空を超えて、無意識の森に潜んでいる。
 



 

ほんとうに大切なもの

気になって録画してもらっていた屋久島のNHKドキュメンタリー番組を見た。未知の森や屋久杉の映像は、たしかに素晴らしいんだけど、なんかちょっと、うーんと思ってしまった。屋久島で自分の目で見て体験したことと、映像にズレがあった。
 
ドローンの映像って、目に新しいから、確かにすごいんだけど、あっというまに古くさくなる感じがするし、下から見上げて感じてる人間の目とは印象が違うし、屋久島の心を感じないというのか、人間と森の関係が、表面的でリアリティを感じなかった。
 
島には二度取材旅行に行ったけど、縄文杉に行ったのは最初の一度きりだった。すこし疲れているような、独りになりたがっているような気だるさを感じたので、避けていた。結局、登山道から逸れた、名もない場所ばかりを描いて、場所も伏せていたけど、鋭い人には、すぐに屋久島と気づかれた。
 
宮之浦を縦走したときは、ほんとうにヤバいものを感じて、写真も撮れなかった。ここに長く居すぎると、もう二度と現世に戻れなくなるような、大きな風に、魂をさらわれてしまいそうなあの気持ち、いまでもよく覚えている。
 
それは木の高さが何メートルあるからとか、樹齢何年だからとか、そんなふうに測れるようなことではなくて、島の核に触れてしまったようなような、山の神気を帯びてしまって、実際にそれからは、不思議なことが起きたり、神秘的な体験をした。ちょっと気がふれたような感じになってしまって、その日は眠れなくて、夜が明けるまで島を歩いた。連泊していた宿の、ヤクザのような風貌の主人に、言われた言葉を思い出していた。
「ここで生まれて育ったから、なにがおもしろくて、みんなわざわざここに来るのか、ぜんぜんわからん」

最先端の登山装備で、コンピュータではじかれた計算を元に、誰も知らなかった大樹と、いま流行りのドローンで撮った、ダイナミックで美しい映像。それは素晴らしいかもしれないけど、密室で作られたCGを見せられているようで、自分のなかにある屋久島とは違った。それは自分の感じ方だから、共感は求めないけれど。

ある山の夏祭りには、こういう人がたくさん集まってくる。その背中を見るだけで、なにかほんとうに大切なものが、ジワっと伝わってくる。




 

デューラーのサイン

デューラーの画集を眺めていると、いつもサイン(モノグラム)が気になってしまう。画家の頭文字(AとD)を組み合わせただけなのだけど、鳥居にしか見えない。デューラーの時代に鳥居は存在すらしていなかったはず。何処からインスピレーションがやってきたのかと、不思議に思う。

そういえば自室のイーゼルに、大きめのキャンバスが後ろに倒れないように補強したら、イーゼルが鳥居のような形になっていたのに、ずいぶん後で気がついた。その前に二匹の犬を立たせると、狛犬のようにも見える。たまたまなんだけど、たまたま(霊霊)には不思議な力がある。