2011/05/04

剣山

剣山に登った。麓と山頂の神社で、手を合わせた。いつもそうなのだけれど、うまく祈ることができない。

鈴を鳴らし、お賽銭を入れるまでは、自意識があるのだけど、手を合わせて目を瞑った途端に、頭の中が空っぽになり、自意識が吹っ飛んでしまう。なにかを願おうと準備はしていても、手を合わせて目を瞑ると、白紙になってしまう。「なにを祈ったの?」と聞かれても、「なにも」としか答えられない。もちろん無理矢理に思考して、準備していた言葉を、強引に頭に並べることはできる。しかしそれをすると、たちまち強い違和感が生じて、居心地が悪くなってしまう。たかだかちっぽけな自分の願いを神仏の前にさらけだすことに、強い逡巡があるのだと思う。

とにかく手を合わせた後は、すっきりしている。±0になる。という表現が一番近しいのかもしれない。気がつかないうちに狂ってしまった電波時計の針を、ボタンひとつで戻したときのような、リスタート感があり、揺るぎないなにかに指針を合わせてもらって、心身ともに更新される快感がある。

これが自分のできる「祈る」ということなら、それはそれでいいと思っている。誰がためにはできなくとも、ときどき時計の針を合わそうと思う。

 





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