2010年に入ったあたりから、自分がこの世からいなくなった後や、生まれてくる以前の世界のことを意識するようになった。いわゆる輪廻のようなイメージではなく、自分という器のようなものを度外しして、人間とは無関係に続いていく、大きな川のような流れのことを考えるようになった。それまでも意識していたとは思うけど、基本的には、今、この一瞬一瞬や、生きている時間がすべてだという想いが、大きな壁のように前提としてあったので、自分が此処にいることとは関係がなく、動いている大きなうねりのような流れのイメージを、頭ではわかっていても、リアリティがあるものとして、うまく俯瞰して、捕らえることができなかった。
こんなことを考えはじめたきっかけは、自分の作品にあった。僕は(作品をまとめて発表する際にシリーズとして同じテーマのものをもう一枚くらい描いておこうかな、という軽い計算がある以外は)一枚の絵を描く前に、はっきりとしたコンセプトを持っていなかった。なんとなくモチーフを選び、なんとなく描き始めていた。コンセプトは、描き終わったあとに、パズルを当てはめるようにして、こじつけていた。そもそも油絵に転向してからは自然の風景ばかり描いているけど、世捨て人のような生活をして似顔絵描きで食っていた頃は、まさか自分が自然を描くとは思っていなかったし、そんなものとは縁のない、俗な人間だと考えていた。また、そもそも絵描きなんだから、ブログなんて一生やるわけがないとも思っていた。しかし僕は、自分の描いた絵を俯瞰して、いったい自分がなぜこのような作品を作って、何処に行こうとしているのか、「激烈に」知りたくなった。だから言葉という絵具を用意して、twitterやブログという画布を準備して、絵を描くことと平行して、極私的な別の作品に取りかかった。
その制作(思考)過程で、ちっぽけな自分とは関係なく、たとえ死んで肉体がなくなったとしても、なにも変わらず続いていく大きな流れの源流のような存在を意識せざるを得なくなり、そうして意識していくうちに、意識することが習慣になり、習慣になってしまうと、目の前に起こるすべてのことが、今までとは違う、リアリティのある実感として感じ入るようになってきた。そんな思考過程の中で排除されていったのが、今、この瞬間にだけ目立とうとしている(ヒステリックな性質の)ものだった。それはテレビや、政治や、ファッションや、現代アートや、文学や、あらゆる藪の中に潜んでいた。逆に新たに入ってきたものもあった。それは(ごく一部の)写真だった。今この瞬間を捕らえたはずのものに、生まれる前の記憶や、まだ訪れていない未来や、ありとあらゆる全体としての様子が佇んでいるような気がした。それらはけっして目立とうとせず、穏やかで、理由もなく心を揺さぶった。
そして2011年、その思考(制作)過程に、さらに拍車をかける出来事が起こった。偶然吹いた一陣の風によって、たまたま隣にあった蝋燭の火が消えた。僕はその風にあおられて、さらに炎を増す場所に在った。僕は隣の立ちのぼる煙を見て、ますます自分を殺すために、もっともっと生きたいと願うという矛盾した状態になった。僕はそれが描くことに繋がっているけど、人によってそれぞれの大義がその人の生命力の指針に直結しているんだと思う。
自分が無くなって消えてしまえば、なにがどうあろうが、関係がない、とは、ある意味、正論だと思う。我思うゆえに、我あるのだとしたら。しかしそれでは、おもしろくない。自分が無くなって消えてしまうからこそ、関係が発生するものにコミットすることにこそ、生きる醍醐味があるのではないだろうか。大義はそこに近付き、関係を持つためにもっとも適した、それぞれの地図のようなものなのかもしれない。
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