ある朝、公園に咲いている梔子(くちなし)の花の匂いを嗅いだ。グールドの弾くブラームスのように官能的で、忘れられなくなるような、とてもいい香りで、強く印象に残った。それから注意していると、街中のありとあらゆる場所に梔子が植えてあるのに気づいた。
真夜中、誰もいない公園で、街灯の柑子色に淡く照らされている梔子の花弁に、顔を近づけてみた。すると、あのときと同じ香りがした。あれ?と思ったが、その不思議の理由が、そのときにはまだよくわからなかった。翌日も、また翌日も、一週間後も、一ヶ月後も、早朝でも、昼間でも、深夜でも、大雨の日でも、嵐の夜でも、灼熱の陽光の下でも、いつも同じ香りがした。そしてやっと、これがすごいことであることに気づいた。
いついかなるときにでも、同じ香りを提供してくれるということは、「誰からも存在を認められていないときにでも最高の香りを提供し続けている」ということだ。だとしたら梔子の花は、誰がための存在ではなく、「孤高」のエネルギーであり、命を全うしようとしているだけの、ごくシンプルだが、強烈な命の佇まいの現れなのだと、ハッと気づいた。与えられた命も短いからこそ、その大義は特別で、気高く、儚い。エネルギーを全開にする日々があるからこそ、自分のような偶然の訪問客に、一瞬の感動を与えることができる。奇抜な衣装をつけているのは、そのためなのだ。存在そのものが、「非日常」であり、咲いてから散るまでのその命の時間すべてが、かけがえのない、祭り事のような「ハレ」の舞台、神事だからこそ、花なのだ。
それから花を見る目が劇的に変わった。与えられるだけではなく、描くことによって、せめて間接的にでも与える立場に近付き、その生命の尊厳のようなものに触れて、襟を正したいと思った。そう考えたときには、梔子は数枚の強い花弁を残して、そのほとんどが枯れかかっていた。残った花弁に顔を近づけて、やや曖昧になった芳香を、けっして忘れないようにと、何度も何度も深呼吸するように鼻腔に擦りつけたはずなのだけど、今となってはもう、その香りがどんなものだったかを、思い出せずにいる。
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