~だから、あそこにあるのかもしれない、~だから、ここにはないのだろう、そんなふうな誰にでも説明可能な、筋の通ったわかりやすい嗅覚では、辿り着けない場所がある。その出逢いの予兆が現実と絡み合う瞬間(タイミング)というものが、日常のままならなさに足掻いていたり、なんとも言えない(なんで自分が…)という理不尽にもがいているようなときなどにかぎって、訪れているような気がする。うまく言えないのだけど、それどころじゃないという悪天候のときにやってくるというのか、とにかく不意をつくのだ。
この「いいこと」というのは、たとえば小学生のころに、ずるのないくじ引きで席替えをしたら、ひそかにずっと好きだった子の隣になれたとか、たとえば学校からの帰り道に、地面よりすこし高いところしか通ってはならないという条件を自分のなかに設定して、家までそれが貫徹したときの達成感とか、そういう心の世界とリアルな現実とが重なるときに起こる、自分の内側の波の模様のようなもので、とりたてて人に話せる内容ではない。だけども大人になった今でも、そういう感性で世界の質感を捕らえることはできる。それはいわゆる「気の持ちよう」で、子どものころにはあるけど、大人になったら消えていくような性質ではなく、たえず自分にあるものだと思う。そのような両立した感性は、今ここにある意識を、合わせ鏡のように、連なるように向こう側へ広げてくれる。ただ此世ばかりの生命ではなく、幾千万年の末までつづく魂の世界が別にあるということを、思い出させてくれる。
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