ここ数日、気になってしかたがなかった熊野のことをネット検索で調べていたら、いつのまにやら西行法師 に辿り着いてしまった。なんだか心がストンと落ち着いてしま って、もはやどこにも動こうとしない。もうこれ以上、なにも調べる気がしない。いろんな駅に途 中下車したけど、どうやらここ(西行)が終着駅のような気がする 。ネットサーフィンって、思考の旅だと思う。なにかを調 べようとしていたのだから、問いかけがあったはず、でも今回 、その問いかけそのものが揺らいでいたので、出口がなかった 。それでも情報の波のなかから、なんとなく興味があるものを選 んで泳いでいたら、すっぽりと、まるで等身大の穴んぼこのように落ちこむ場所があった。それが僕 にとって「西行」だったのだ。ああ、ここに辿り着きたかったん だなあと、思った。どうやら旅というものは、終わってからはじまるのかも しれない。地図を捨てたあとに、ほんとうに探していたものに、 巡り会えるのかもしれない。
西行のことはいわずもがな。ただひとつ、極私的に迫ってくる詩があった。このことなら、話せる。
世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言え ない。出家しない人こそ自分を捨てているのだ )
僕もかつて、世捨て人であろうと強く望んだことがあった。い まもたぶん、望んでいると思う。二十代後半のころ、路上 で絵を売ってその金だけで暮らし、底辺の人たちだけと触れ合い、 社会から手を切ろうと思い、そのように行動した。でもそこに居続けるこ とができなかった。今思うと当たり前だけど、世を捨てようと いう行為そのものの中に、強烈に世の中にしがみつこうとする自我 を発見してしまったから。そのころの強烈な記憶が、こ の詩に結びついた。
西行の魅力は、答えのでない、その切実なさまよいのなかに落ちる 、雨音のようなものだと思う。自分の気持ちを代弁してくれて いるとさえ思えるのは、そういうことなのだと思う。
西行のことはいわずもがな。ただひとつ、極私的に迫ってくる詩があった。このことなら、話せる。
世を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人をぞ捨つるとはいふ
(出家した人は悟りや救いを求めており本当に世を捨てたとは言え
僕もかつて、世捨て人であろうと強く望んだことがあった。い
西行の魅力は、答えのでない、その切実なさまよいのなかに落ちる
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