2013/03/13

去年から読みすすめているダヴィンチの手記。なんとか下巻半分まで辿り着いた。霞のかかった山を登っているような気持ちがある。この本とゲーテの色彩論、ソローの森の生活は、まだ読み切れていない。ネットの文章を読んだり、自分のタイミングで文を書いたりするのは、速いほうなのだけど、実物として手元にある本は、むかしから読むのがひどく遅い。理由は簡単で、すいすい読めて、ああおもしろかった、すばらしい本だったね、で終わって、もう二度と開かないような本(物体)は、そばに置いても実りがないので、買わないから。この三人の著書は特にページが進まない。この困難が、自分を著書の影へと近づけてくれる。

具体的に言うと、たとえばダヴィンチの書記、科学論、地質と化石の章。


「人間は古人によって小宇宙と呼ばれた。たしかにその名称はぴったりあてはまる、というのは、ちょうど人間が地水風火から構成されているとすれば、この大地の肉体も同様だから」

最近個人的に気になっていた五輪塔は、人間を地水火風空と刻む。ダヴィンチの文章に照らしてみると、人間から「空」が抜けてる。それはなぜだろうか。と考えることができる。著者の言う人間は、生物としての人間。一方五輪は、供養塔。生仏としての人間(魂)の塔。肉体はすでにない。だからこそ『空(くう)が一番上に必要になるんだなあ…』と、人には言えないような、孤高の納得が、関係ないはずのダヴィンチの手記から得られる。それは正解のない、溜息のような答え。だけどこのように交わされる呼吸のような想像が、著者とある通路を開いて対話すること、即ち、読書ではないだろうか。

ダヴィンチの手記、科学論の地質と化石の章は、こんな文章ではじまる。

「大地の肉体は魚類、鯨(くじら)または鯱(しゃち)の性質をもっている。なぜなら空気のかわりに、水を呼吸するから」

こんなことを彼方(かなた)から言われて、おいそれと1ページを進めてはいけない。納得できなくても、布に色が染みこむような時間を持っていれば、理解、不理解の間に、蝋燭の焔のようなある揺らぎが自分のなかに生じてくる。その揺らぎを信じて乗れば、毎日が新鮮な航海になる。その航海は、社会のあり方を見つめ、自分を見つめる旅のことでもある。著者(ダヴィンチ)の絵画の深淵は、コードのような謎解きでは絶対解けない。自分事にして、その舟で近づくしかないと思う。

人の欠点はよく見えても、自分から一番見えないのは、自分の欠点。それを気づかせてくれるものが、ほんとうの美(ダヴィンチの絵画が指し示すもの)の仕事なのかもしれない。その美に触れようとする人間のemotionが、祈りであり、救いではあるまいか。そう思う。自戒をこめて。自分の欠点について、著者は鏡を使うことを提案している。

「よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ」

これは絵についてのことを述べているのだけど、同時に精神論でもある。

鏡とは、なにか。これを自分事として引きこまないと、ダヴィンチ(美)には近づけない。彼の絵がいまもなお現代に引き継がれ、その先にも続こうとしている予感が揺るぎないのは、その作品に汚れを祓う結界(謎)がかかっているから。その謎解きは、私、や、あなた、という自立したかけがえのない個と、作品との関わりのなかでしか行われない(ただし手がかりが本人そのものの像、著者の残した文章にはあると思う)。作品を外から、科学というモノサシを当てても、誰かが書いた推論を読んでみても、ミステリーを味付けても、作品はますます屹立して、けして解けず、どんどん本質から離れていくだけ。美しさに基準や参考書は存在しない。許されているのは、自分の鏡を探すこと、人生をその鏡に映してみること。このふたつが結界を解く鍵だと思う。もはや作品とのほんとうの関係は、表面だけで終始することではなく、人生に関わってくる対話。描くこととは、目的ではなく、手段なのだと、あらためて教えてもらった。絵のことだけを言っているのではなく、おそらくすべてに当てはまること。百姓であっても、漁師であっても、浮浪者であっても。希望のなかにも、絶望のなかにも、憂鬱のなかにも。鏡とは、それぞれの歩幅で進んでいく人生のなかに、すでに見出されて、そこに在り、指針となりえるのではないだろうか。


「そんな小さな空間に、全宇宙の姿を抱えることができるなど、誰が信じるだろう」Leonardo da Vinci


 

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