2014/07/13

関係性

これからの時期は野菜がぐんぐん育つので、畑の水やりがうれしい。打ち水も楽しみだ。陽光に向かって水をまいていると、虹ができる。

最近東京で大きな虹が出たそうだけど、その虹を見せたのは、なにものなのだろうか。もしも人々が野菜なら、虹を見せてくれたのは、時間の流れが違う見えない存在と言える。人間は野菜の動きを目で追えないのだから。時間の流れが違うもの同士は、相対的にどちらかが見えない存在になりえる。

蟻や野菜が人間を把握できないように、人間にも把握できない存在がある。私たちは、世界をありのまま見ているわけではなく、自分たちが見えるもの、見たいものだけを見ている。それで世界を知ることにはならない。だけど見たくないものを見なければならないという考え方も、すこし違うと思う。見たくないという前提に、フィルターがかかっている。

自分という色メガネを外せば(外そうと試みて、内的世界を注視すれば)、やがて意識が透明になって、関係性だけが見えてくる。社会的束縛を受けない関係性の世界には、見たいものとか、見たくないという価値判断すらつかない原野が広がる。その関係性の糸には、強すぎず、弱すぎず、切れない程度の絶妙な緊張感があって、その緊張とは、畏れだと思う。

本質的な姿には綺麗とか汚いとかないのだから、ペルソナが強い人は拒否反応が出ることもあるとは思うけど、そもそも自然の畏れから沸いてくる力は、恐ろしくても、美しい。暗くても、深い静寂があり、呼吸が深くなり、沈黙に飲みこまれて、言葉を失ってしまう。でも時間はかかっても、どこかに安心する要素があるので、言葉を失った余韻のなかで、新しい自分(自然)を取り戻すことができる。

東アフリカの原住民が、日の出に太陽を崇拝することを知ったユングは、「太陽は神様か?」と聞いたところ、ばかなことを聞くなという顔つきで否定されたという。「太陽が昇るとき、それが神様だ」と老酋長は言った。原住民にとって「神」とは、世界との関係性のことであり、状況だった。

「私」との関係性こそ神だとしたら、畑に水をやるときに、喉が渇いた野菜と、水を与える自分との間に、ふいに出現する虹は、自分にとっての神さまの姿。押しつけられた神ではなくて、そのリアリティに基づいてなら、八百万の神々は、確実に存在している。具体的なリアリティと普遍的なリアリティが一致するところに、接点があるのだと思う。

畑に水をまいていると、元気になる。元気になるというのは、気が元に戻るということだから、乱れていた状態から±0に変位したということ。喉が渇いた野菜にとっては「私」が雲になって、雨を降らせてくれている状態、即ち私は一時的であれ、「天」の状態になる。その関係において、生命力がゼロポイントにて流通するのだと思う。

なにも考えずに水をまいていれば、なにも起こらない。(喉が渇いたのだろうな)と思うからこそ、流線を描いて向こうに落ちる水が、こちらの乾いた心にもしみてくる。潤った葉に寄り添う、その一つの水滴は、私と世界の合わせ鏡であり、社会的束縛を受けない関係性だけを映している。思う力というのは、距離や境界を消してまう。自他が消滅した空間にのみ、魂(仏性)の交流がある。自分が世界に対して、透明になっていく。そのかぎりなき透明さの向こうで、八百万の神々は祝福してくれている。 その祝福のことを、美と呼んでもいいのだと思う。

そろそろ水をあげようかなと思っていたら、雨が降ってくれた。そういうこともある。
 

 
 
 

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