剣山に。神輿を舟にみたてて、標高1955mの山頂まで担ぐ神輿渡御が行われる特別な一日だった。
今年はかつげなかったのだけど、神輿が山を登ったり降りたりするのを見ていて、ヘルツォークのフィツカラルドという映画を思い出していた。巨大な船で山を越えるという映画。CGではなく、本物の船で山を越えている。監督がなにを描きたかったのかは、そのシーンだけで伝わってくる。人間は夢を現実にしようとする。
神輿渡御は人間が主体ではなく、山が主体になっている。夢を現実にする映画ではなくて、現実を夢に変換してくれているリアリティがある。祭りはその象徴であり、交流の美学なのだと思う。自然を越えようとすると、語り得ないバランスによって、越えようとする粒子そのものが、内部破壊されてしまう。大昔の人間はそのことを直観していた。
世界は人間が思うようにはできていないことを、山という存在は大いなる沈黙で教えてくれている。山とは沈黙という構造のピラミッドなのだと思う。
山はただ山と呼ばれているだけであり、山らしく動かずに、ただ言語の限界を輪郭として、そこにある。自然はなにも答えてはくれない。だからこそ、すべてを受け入れてくれる。
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