2016/03/27

彼岸に咲く花


梅が散り、枝垂れ桜が咲くころに、涅槃桜が散りはじめる。そのころ山桜は、山に寄り添い、自然にそっと、咲いて散る。家からは、山桜と枝垂れ桜の、両方が見える。迫力があるのは枝垂れ桜だけど、自然のなにげない時間を感じるのは、山桜の方かもしれない。

咲きはじめの桜の樹は、あけぼののように、ぽぉっと赤く染まっている。遠めから見ると、赤い発光体のように見える。やがて年をとるように白く染まっていく。こちらもぽぉっと見ると、桜は名を失い、花を越える。花を越えて見ていると、こちらが発光したような気がして、赤く染まる。

たまたま桜と呼ばれているなにかが、私のなかに入って、発光している。満月が夜道を照らすように、春のあけぼのが、心の暗い場所を照らしている。

世阿弥の能楽、西行桜において「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」(美しさゆえに人を惹きつけるのが桜の罪なところだなあ)と歌を詠む西行に対して、夢枕の老翁は「桜の咎とはなんだ?桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。煩わしいと思うのも、人の心だ」と西行を諭す。老翁とは、桜の精だった。

枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影している人はたくさんいるけど、たまたま川の向こう岸に咲いている山桜に、カメラを向ける人は、一人もいない。同じ花でも、気づかれる花と、気づかれない花がある。でも花は、人がいてもいなくても、ただ咲いて散る。花の精霊は彼岸に咲く。此岸からは届かない場所にいる。




腑に落ちる


カムイが制作中に、足下にふっと来て、渦のようにくるくる回って、ストンと丸くなって、そのまま眠ることがよくある。場所によってはとても作業がしづらいのだけど、一連のその様子が妙に腑に落ちるというのか、はじめからそこにいたような、運命的な安定感があって、ブラックホールのようなその黒い影を、動かすことができない。

腑に落ちるというのは、からだのなかで同時性が起こってるのだと思う。なんとなく、はっきりした理由がなくても、外側と内側がシンクロしていると、腑に落ちる。きっと人間なんて眼中にないような、宇宙の時間に波長が合うと、共時性(同時性)が起こるのだと思う。川の音、春の陽射し、小鳥の声。フレームの外にある自然の営みや事物が、グラデーションを整えている。

風に舞う花びらを数えるように、はじめからそこにあったような、なんとも言えない気持ちを拾い集めると、一枚の絵ができるのだろう。

2016/03/18

鍬を持つ男


雨を含んで土が柔らかいうちに、新調した鍬で畑を耕した。土に触れていると、世界の深みに、コミットしているような気持ちになる。暗黒の地下世界に、ピカピカの鍬の刄を入れて、埋もれていた本質を、雑草もろとも根こそぎ掘り起こす。ひと休みで空を見上げると、どこからか希望が沸いてくる。

土を耕しているときは、いつも野菜が実っている姿を、頭に描いて行動していることに、ふと気がついた。不確実な完成形(未来予想図)が現在の自分を引っ張っているという点は、絵を描くことと共通する。表面上の時間は、過去から未来に流れているけど、頭に想い描いているイメージは、未来から現在に向かって流れている。

その未来予想図は、思ったとおりにはならないかもしれない。むしろ、思ったとおりにならないことの方が、圧倒的に多い。せっかく実った人参や大根は、猿に食べられてしまう確率が、とても高い。でも、それでもいいよと、いつもどこかで思ってる。そういうままならなさに溢れている世界の構造が、心をしなやかにしてくれる。

求めていた未来が、手に入ったとしても、結局はなにか大切なものを、犠牲にしていたり、失っていたりする。そういう力学に振り回されずに、自然から受け取ったものを共感していると、すっと自分が自分から離れて、無限の可能性を孕んでいた想いのなかに、飛翔する。土で汚れた鍬を、荒れ地に立てて、深く息を吐き、ふと見上げる空に、浮かんだ雲と、柔らかい春の陽射し。その彼方から沸いてくる、彼の小さな希望とは、もはやはばむものは何もない、感受性の、自由な羽ばたきのことだろう。


         Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas

2016/03/15

ゴッホの手紙


数日前に届いた、ゴッホの全作品集を見ていたら、去年、精霊の森で描いたものと、よく似た構図の絵を発見して、胸がときめいた。他の人から見たら、ただのこじつけでも、共時性を感じる自由は、この胸にある。1887年夏のパリにいた彼と、火傷するほど近い距離まで、魂が触れたような気がした。

共時性(シンクロニティ)が起こるときは、その流れに大いなる力が働いてるような気がして、勇気が沸いてくる。樹齢800年の大楠のうつほから、小さなつむじ風が耳の下に宿って、それからゴッホが気になった。彼の魂がこの森にいたことを、森羅万象が霊験を通して、気づかせようとしたのだと思う。

インスピレーションとは、対象(モチーフ)へのまなざしを通して、宇宙から人間に向かって、おしなべて平等に流れてくる、霊気のようなものだろうと思う。だからオリジナリティなんて、ほんとうは何処にもない。でもそのなにもない無明の宇宙に、星の火が流れることがある。その炎が、現実を揺らす。

人工衛星の破片が、火の鳥のように、空を流れるのを、見たことがある。ちょうどそんなふうに、身を焼かれながら、その黄金の光に包まれて、時間を超えていく。