形を変えながら、ゆっくりと空を泳ぐ雲たち。なにか意思を持って、こちらに語りかけているような気がする。そういえばはじめてこの山に泊まった日の朝、一筋の細長い雲が霧の中から現れて、まっすぐに天に登っていった。
頂上から下山中に、鶴岩と亀岩で大学生くらいの団体に出くわした。すぐに通り過ぎて遠くから振り向いたら、岩の上に登ってはしゃいでいた。よくまあ磐座に登れるなあと思う。よほど無神経なのだろう。鶴岩も亀岩も、完全に彼らを無視して、ただの剥き出しの岩になっていた。
頂上に辿り着くこと、有名な場所に行って写真撮って自慢すること、人間の力で山を制覇することを目的にしている人たちに、御神体はなにも語らない。自分を主体にして自然を利用している人にとって、磐座はただの剥き出しの岩。神気を閉ざし、彼らを完全に無視する。呼ばれた気がして、ただ山に登らせてもらっているとき、自然は語りかけてくる。それは自分との対話のなかに、啓示のような形で現れる。ほんとうに大切な人をガイドするとき以外、山はいつも一人で登るようにしている。自分との対話ができない人たちに、山の神はなにも伝えてこない。
主体を自分から自然に移して、内なる宇宙に耳をすませていると、タイミングを利用して、現実に徴(しるし)が現れる。それは常識の壁を越えた、精神のエネルギーの働き。その精神の力が、剥き出しの岩に神気を呼びこむ。
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