2012/05/06

一心不乱


熊蜂が好きで、よく観察している。飛び方が好きで、調べてみるとおもしろくて、まだレイノルズ数を計算に入れていなかった昔には、航空力学的には飛べるはずのない、ずんぐりむっくりの形なのに、なぜか飛べているということから、不可能を可能にする象徴であり、その飛翔が奇跡とされていた。レイノルズ数というのは空気の粘度のことで、たとえば人間が床の上でいくら平泳ぎしても、ちっとも前に進まないが、水中では粘度があるので進むことができる。飛行機のような大きな形のものには、ほとんど無視できる数値なのだけど、熊蜂のような小さな虫にとっては重要な力学で、そもそも彼らにとって空気はサラサラしたものではなく、水のようにネバネバとまとわりつく存在なのだ。このネバネバした空気。通用されている力学に洗脳されている状態では、想像すらできない。

人間の歴史のなかにも、不可能を可能にしている人がいたり、なんだかよくわからないけど、すごい、ということがある。よくわからないこととは、よくわかっていない方に原因があるのだと思う。不可能を可能にしている人や、グッと来る事象のまわりには、レイノルズ数のような、未知の力学が作用しているのではないだろうか。不可能を可能にしている人の作品や、なんだかわからないけどグッとくる事象のまわりには、通常の力学では計り知れない、別の空間が発生しているのかもしれない。そういう計算式を知らない地点からは、その空間(磁場)で起こる出来事は、奇跡にしか見えないのだけど、じつは観測者も、その空間をどこかで体験していて、だからこそ、呼応して、感応して、思い出している。

                            ★


熊蜂の魅力は、人間をまったく意識していないところにある。近づいてもまったく逃げないし、手でつかんだりしないかぎり、絶対に刺さない。そもそもオスには針すらない。ただただ蜜を集めたり縄張りを守ったりしているだけで、そのずんぐりむっくりの体のせいで、壁にあたったり、網戸なんかには平気でぶつかったりする。そういう一心不乱な姿に惹かれてしまう。愛くるしい

別の空間を創り出してしまうそのエネルギーとは、この一心不乱の気流ではないだろうか。その磁場を唯一流通できる粒子こそが、光より速いのだと仮定すると、観測して、数値に置き換えることは、永遠にできない。だからありのままの自然として、ときには芸術として、銀河の断片として、星屑の理念として、受け継がれているのかもしれない。ことごとく無視されて、まったく相手にはしてくれないけど、熊蜂は、このような深遠なる惑星の法則、その方程式の手がかりを教えてくれる。これから人として学ぶべきことは、分厚い専門書にではなく、ささやかな日常にありのまま、あふれている。




2012/05/01

空海の泉

昨日、樋口のじいさんに剣山の御神水を自慢したら「わざわざそこまでいかんでも、近くに美味しい水がある」と言われた。この地の水が枯れたその昔、下(しも)の方までわざわざ水を取りに行っていたおばあさんを不憫に思った通りかがりの弘法大師様が、神通力でわき出したと言い伝えられている秘水があると言う。

さっそく今朝、そこに行ってきた。歩いて20分ほどで、看板もなにもなく、地元の人にしか絶対にわからないような場所だった。その小さな、苔むした、美しい泉に、心を奪われた。デジャブに似た、ひどく懐かしい気持ちになって、その原因はすぐに解けた。

この泉にとても心象の近い絵を、油絵をはじめた当初に描いていたのだ。僕は泉や瀧を描きながら、油絵の技術を身につけた。最初のモチーフは瀧(たき)と決めていた。技術を学ぶのが目的だったので、構図などおかまいなし、大きなサイズの画布には、わざわざ分割してたくさん描いた。それから森にモチーフが移行したのだけど、今になってまた、他のシリーズと平行して、瀧を描きはじめている。モチーフは展開ではなく、回転している。広がっていくのではなく、輪廻している。

さきほどの懐かしみを忘れないうちにと、今、この文章を書いて、記憶を記録している。
こんなふうに、何周も何周も、繰り返し、懐かしみ、また繰り返し、私というひとつの物体は、ある大きな球体のうえを歩いている蟻の行列の一匹として、存在しているのではないだろうか。懐かしく思うのは当然で、それは既に歩いたことのある道だから。もちろん今生ではなくとも、過去や未来を超越した存在の記憶として、たしかに受け継がれていく風景があるのだと思う。





2012/04/29

剣の光

今日は剣山に御神水を汲みに行った。大剱神社を過ぎて、あと30分くらいで頂上というところで、なんとなく今日は頂上に行くのはやめようと思った。負けず嫌いの性格だから、今まではどんなに時間がなくても、夜になっても、意地でもてっぺんまで登っていたのに、今回だけはふと、たっぷりと時間はあるのに、途中下山したくなったのだ。

下山してすぐのところに広まった場所があり、そこで水が沸いていたので、水を汲もうと歩みを止め、なんとなく空を見上げたら、iphoneカメラの画面からあふれてしまうほどの大きな光輪がでていて、腕に鳥肌が立っていた。その光の輪は、10分ほどでゆるやかに、薄雲に覆われて消えた。

もしあのまま登山していたら、気づかなかったと思う。登山中はおもに周辺の木々や遠方の山々を眺めるくらいで、顔を上げて、真上に近い位置の太陽を見上げるようなことは、ないだろう。頂上にいけばさすがに気づいたと思うけど、すぐに消えたので、それもままならなかったはず。振り返ってみれば、山に登ったら、頂上まで登らなければいけないという思いこみや、せっかくここまで来たのだから、という欲があったら、この光輪には出逢えなかった。それともうひとつ「なんとなく」を受け入れる心のゆとり、必死のなかに現れたり消えたりする、緊張と緩和、その例えようのない隙間のような瞬間。それがなかったら、今日のこの日に、つたない乱文を書くようなこともなかった。

常識や思いこみに捕らわれて、自分は大事なことを見逃していないかと、省みるいい機会になった。こういうふうにしなければいけないとか、こんなふうにするべきだとかと、自分で自分を縛り付けて、ささやかで、大切なことを、見過ごしていまいかと、考えさせられた。

頂上を目指すことに、意味がないとは思わない。目指さなければ、そもそもの光の輪に感動することすらできなかったわけで、その動機が人間の力であり、エネルギー。どこから沸いてきたかよくわからないような欲望に抗えない性(さが)は、美徳だと僕は思う。

しかしながら、今日の太陽(大日如来)からは、こんなふうに教えられたような気がした。

「頂上に立つことも大事だけど、抗えない力に応じる、その必死や、引き裂かれの曖昧のなかにこそ、存在がある。虚飾や知識で飾り付けられた世の力学とはまったく無縁に、凛々と、堂々と、ただありのままに、ありのまま、そこに在る本質とは、世の通力からは、わざと見過ごされやすいような場所を選んで、たたずんでいる」
 



 

2012/04/22

思いこめない世界


昨日、図書館で柳沢桂子という生命科学者の「生命科学で読み解く般若心経」というインタビュー形式のCDを借りた。原因不明の難病で36年も苦しみ続け、夫に自殺の了承を得たものの、娘の必死の懇願によって、死ぬのを思いとどまった彼女は、自身の神秘体験を通して、般若心経を原子論(粒子論)のことだと直感している。

「あたしが、いる(居る)っていうのは、錯覚なんですね。あたしは、いないんですよ」
「それは生まれて死ぬということで、命が変わるのではなくて?」
「ではなくて、しょっちゅう、常時です」

心に残ったのは、彼女の声だった。本で読んだだけだったら、内容を頭で整理したり持ち越しができるので、翌日まで引きずらなかったし、こんなふうに発信したいとも思わなかった。しかし聞き終わった後でネットで調べてみたら、頭に浮かんでいた彼女の雰囲気と、実際の写真が極似していた。だから心にひっつき虫のように離れず、その珍しい一致に、心が驚いていて、振り返って考える機会を翌日に促したのだろう。

声、というのものは、その話す内容とはまた別の、立体的というのか、人生の積み重ねまでを伝えるような不思議がある。でも落ち着いて、よくよく考えてみると、噛み合わないことの方が多い。ラジオの人とか声優の人が、え、こんな感じだったの?と思うことのほうが、圧倒的に多い。それは思いこみが、いかに自分勝手なものなのかを証明している。アニメが受けるのは、その思いこみを満たしてくれる世界だからだと思う。

そういう流行とは違う世界に、仏像建築(超自然?)があるのだろうと思う。「思いこめない世界」に居る自分の姿を映すために、その映し鏡として、憑依しやすいように人間に似せて、仏像は作られた。そのような、見えない世界の、自分。通用されている力学では、確認することが、どうしてもできない姿としての、自分。それを見たいときに、人は、祈るのではないだろうか。その祈るときの手合わせが、見えない次元を映すときの、映写機としての人間の、シャッターを切る儀式なのかもしれない。換言すれば、内なる自然と、外にある自然をリンクさせる儀式。だから今もなお、大切に、丁重に受け継がれているのではないのだろうか。それがいつの時代にも、必要だから。

                             

柳沢桂子という生命科学者は、自死一歩手前の、重い病苦による負荷(ストレス)があったからこそ、脳内麻薬物質が、人並み以上に大量発生してくれて、般若心経と原子論(粒子論)を結びつける閃きに繋がったと、自らおっしゃっている。その反転作用に、その鬱(うつ)を打ち破る突破に、宗教すらかるがると乗り越えてしまうような、説得力と未来があるように思う。声のイメージと現実が一致したのは、そのことを伝えようとする、あちらの世界で通用されている「気づかせ力」のせいなのかもしれない。もっと自分から負荷を受け入れて、肥やしにしなさいと。



2012/04/07

共命鳥(ぐみょうちょう)

今日は朝から土をいじりながら鳥の声を聞いていた。西の梅の木からはウグイス、東の電線からは別の鳥の声がして、一方が鳴くと、一方が返し、また一方が鳴くと、一方が返す。そんなことを繰り返していた。それは美しい音色で、仲が良さそうな会話、美しき自然の戯れのようで微笑ましかったのだけど、それは安全圏にいる人間の耳にはそう聞こえるということであり、じつのところは木の実を奪い合う縄張り争いだと思う。しかしなぜそのような音が、わたしたちの耳には美しく、完璧なまでに調和した音楽に聞こえるのだろうか。もしかしたら人間同士の様々な苦難や喜びの声も、人知を超えた世界からは、地球交響曲のように聞こえているのだろうか。

そんなことを考えていると、ふと、共命鳥(ぐみょうちょう)のことを思い出した。共命鳥とはシルクロードに伝わる伝説の鳥で、体が一つなのに、頭が二つある。一方の頭は昼に起き、一方は夜に起きる。互いにいがみ合っていて、やがて一方が他方に毒を飲ませ、共に死んでしまう。 そういうもの哀しい鳥で、逃れられない人間の性というのか、生まれながらに、そもそもの人間の抱えている業(ごう)、その矛盾と葛藤をこの鳥は象徴している。

普段はテレビを見ないのだけど、ネットをするのでそれなりのニュースは入ってくる。そのときの心持ちが、この共命鳥に似ている。なにか声を大にして叫びたい気持ちと同時に、その声が、もう一方の自分に毒を盛る行為に通じているのではないかという、不安が横切る。行き場を失ったエネルギーは、二つの頭を納得させる答えを探してさんざん彷徨ったあげく、力尽きて野に落ちる。

この共命鳥の生みの親は、鳩摩羅什(くまらじゅう、कुमारजीव)という中国六朝時代の訳経僧で、数奇な運命に翻弄されながらも、広く、わかりやすく、大衆に仏典の内容を広めようと、その生を捧げた。

有名な「色即是空空即是色」「極楽」という言葉も、彼が生み出した。西遊記で有名な玄奘三蔵法師の名は広く世に知られていても、鳩摩羅什の手による「法華経」「阿弥陀経」「般若経」 「唯摩経」「大乗論」などの訳経がなければ、今の聖徳太子の「三経義疏」も「十七条憲法」も存在しなかったわけで、天台、禅、日蓮、浄土諸宗の今日的な繁栄もなかった。また「煩悩即菩提」「悪人救済」の思想や、 共命鳥などは、鳩摩羅什、その人の人生経験の中からうまれたものであり、彼は単なる仏教経典の翻訳家にとどまらず、偉大なる思想家、哲学者であったのだ。
(参考)鳩摩羅什三蔵法師の生涯http://www.tibs.jp/lectures/ohora/ohora04.html

                             ★

共命鳥の話には続きがあって、極楽に住む他の鳥たちは、この忌まわしい事件の教訓を生かし、それからは「他を滅ぼす道は己を滅ぼす道、他を生かす道こそ己の生かされる道」と鳴き続けているという。





2012/03/27

呼ばれる

呼ばれる、という表現がある。たとえば森に呼ばれたような気がした、とか、川に呼ばれたような気がした、とか。自然に限らず、なんだかよくわからないけど、導かれるようにここに来てしまった、という感覚。ときどきそういう言い方しかできないときに使ったり、話を抽象的に、また詩的な方向に広げたいときにあえて使ったりするけど、ほんとうのところは、僕はこの呼ばれるという感覚が、よくわからない。言い換えれば、感じないし、聞こえない。そんな耳は、少なくとも、僕にはない。

呼ばれるのではなく、いつもこちらの意思で、そちらに向かっている。何枚かカードが配られていて、その一枚を選んで行動しているのは、ほかならぬ僕自身である。その選んだカードによって、不可思議な力学が働くことはあるけど、誰かに選ばされているということは、よくよく掘り下げて考えてみると、ないような気がする。誰かを、特定の神に設定することもない。今ここにいる自分自身が、強く欲しているからこそ、そのカードを選んでいる。


なにも答えてくれないような、圧倒的な存在、事象に対しては、いつだってお邪魔しているという申し訳ない感覚がある。気になるお店の暖簾(のれん)をひょいと上げて、中をこっそりのぞき見させてもらっているというような。でもいつかお客として呼ばれたいとも思っている。しかしそのように願うことそのことが、呼応力を打ち消すのだと思う。

毎日毎日、毎瞬毎瞬、いろんなカードが目の前に配られているような気がする。そんなことを、今朝、ふらっと立ち寄った森の中で考えていた。






2012/03/18

春と修羅

わたくし、という現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です。あらゆる透明な幽霊の複合体。風景やみんなといっしょに、せわしく、せわしく、明滅しながら、いかにもたしかに、灯り続ける。因果交流電燈の、ひとつの青い照明です。

「光は保ち、その電燈は失われ」



心象の灰色鋼(はいいろはがね)から、アケビの蔓は雲に絡まり、野バラの藪や腐食の湿地。一面の一面の天国模様。正午の管楽よりもしげく、琥珀の欠片が注ぐとき。怒りの苦さ、また青さ。四月の気層の光の底を、唾(つばき)し、歯ぎしり、行き来する。 

おれはひとりの修羅なのだ。風景は涙に薄れ。

砕ける雲の、眼路(めじ)をかぎり、玲瓏(れいろう)の天の海には、聖玻璃の風が行き交い、ZYPRESSEN(糸杉)、春の一列。黒のエーテルを吸い、その暗い足並みからは、天山の雪の稜さえ、光るのに。翳ろう波と、白い偏光。誠(まこと)の言葉は失われ、雲は千切れて空を飛ぶ。ああ、輝きの四月の底を、歯ぎしり、燃えて、行き来する。 

おれはひとりの修羅なのだ。玉髄(ぎょくずい)の雲は流れて、どこで鳴く、その春の鳥。

日輪青く、翳ろえば、修羅は樹林に交響し。陥りくらむ天の椀から、黒い木の群落が延び、その枝は哀しく茂り、すべて二重の風景を、喪心の森の梢から、閃いて飛び立つカラス。気層いよいよ澄み渡り、檜もシンと天に立つころ。

草地の黄金を過ぎてくるもの、ことなく人の形のもの。ケラをまとい、おれを見るその農夫。

(本当におれが見えるのか?)

まばゆい気圏の海の底に、哀しみは青々深く。ZYPRESSEN、静かに揺すれ。鳥はまた、青空を斬る。誠の言葉はここになく、修羅の涙は土に降る。新しく空に息づけば、ほの白く肺は縮まり、この躰、空の微塵に散らばれ。銀杏の梢、また光り、ZYPRESSEN、いよいよ黒く、雲の火花は降り注ぐ。

                            ★

拝啓 宮澤賢治様

「雨ニモマケズ」「春と修羅」の一部を朗読にて筆記、原文と照らし合わせて、僭越ながら再構築させていただきました。言霊は原文に忠実ですが、原文にはない句読点はもちろんのこと、段落、漢字変換に相違があります。現代風にしたかったわけではありません。ただ何度も詩文を耳と目と指で噛みしめる中で、自分の背骨の芯の芯に、すうっとあなたが通り過ぎる感覚を、誰かと共有したいという想いが沸いてきたのです。

tact & inspiration をありがとうございました。イーハトーブでお会いできる日を楽しみにしています。

敬具

2012年 3月18日 夜 榊和也


2012/03/01

水鏡(みずかがみ)

国境の長いトンネルを抜けると・・・ではなく、カーテンを開けたら、そこは雪国だった。目頭がツンとした。白銀に目を細めた。見慣れない雪化粧に心が躍った。ここ神山では珍しいことらしく、十年前に比べると、最近はめっきり雪が積もらなくなったとぽやいていたお隣の樋口じいちゃんも、その日はどこか、顔がほころんでいるようにみえた。

さっそく朝から散歩がてら、雪化粧をカメラにおさめながら歩いていた。しかしすぐに撮るのをやめてしまった。カメラが散歩の邪魔をしているのに気づいたからだ。いったん家に戻り、カメラを置いてから、今度は道を反転させて、道中にある森の中に入った。しかし足元はぐちょぐちょ、上からは雪の塊がどさっと落ちてくる危険地帯で、途中で引き返した。森の出口でなんとなく、ポケットに忍ばせていたIphoneカメラで一枚だけ撮影した。最先端で流行のこのスマートフォンとやらも、ちやほやされるのは今の今だけ。あっという間に忘れられてしまう哀しい性を背負っている。もちろんミーハーである自分も含めて。だからこそ、という悪あがきだった。


家に戻り、しばらくしたら、なんとなくカーブミラーのことが気になってきた。鏡、のことである。さっそく調べてみると、鏡の起源は人類と同じほど古く、最古のそれは水鏡(みずかがみ)に遡ると書いてある。鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)。影身はなんとなくしっくりくるが、蛇の目はしっくりこない。これは自分が東洋人だからかなと思う。話が逸れてしまうので元に戻すと、水面に映る自分自身をはじめて見た最古の人類は、その不確かなおぼろげに、神性と畏れを感じたのだろうと思う。近代になってガラス鏡が発達して、おぼろげだった世界がはっきりと見えるようになった。それでもどこか頭の片隅で、鏡をただたんに光を反射する表面と考えられないのは、最古の人類が見た水鏡のおぼろげに、揺るぎない真実があると心の奥の奧で確信しているからだと思う。

鏡の面は世界の「こちら」と「あちら」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界があるという観念は世界各地で見られている。鏡は映像が映っているのではなく、表面で跳ね返された、もう一つの世界からの「完全なる拒否」を示す残像ではないだろうか。散歩をしながら写真を撮っていると、それがよくわかる。その場で感じた大切なものや、いつまでも、今生を超えて残したいと思うものに限って、映らない。換言すれば誰かに伝えようとすることそのものが人間の閉じられた輪を作ることであり、大いなる秩序から距離を置くこと。覚悟のない撮影は、散歩の邪魔どころか、逆にあちらとこちらの境界を厚くしているように思う。

「写真は見たままの現実を写しとるものだと 信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつく」ユージンスミス

最古の人たちが覗いた水鏡(みずかがみ)には、映し出されたおぼろげなこちらの世界と同時に、その下でゆうゆうと泳ぐ小魚や、苔のついた丸っこい石や藻、微生物の足音や、ゆるやかな波の歪みと反応し合う世界を、二重に見ていただろうと思う。そこになんの矛盾もなく、ふたつの世界を行ったり来たり。

償うように、祈るように、時間をかけて、水鏡を覗くように。融合したいものだなあと思う。

追伸

鏡の語源、影身と蛇の目。前者を東洋、後者を西洋的解釈と短絡的に考えていたけど、掘り下げてみると誤解があったようで、古代の人々には蛇を神と崇めていたらしく、蛇信仰は大和朝廷の成立とともに、文明化されていくなかで表面から姿を消していったらしい。しかし今も鏡餅などに受け継がれていると。いわれてみれば縄文土器は蛇を連想させる。吉野裕子氏は縄文人が蛇を神格化するにいたった理由について「蛇の形態が何よりも男根を連想させること」「毒蛇・蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃の下に倒す強さ」とこの二つをあげている。参考「蛇・日本の蛇信仰」
 
蛇は怖いし、やばい。気持ち悪い。自分は、そうやってこちらから判断して、結界を張っている。太古の人も命を失ってきただろうと思う。しかしすんなり土器などに渦巻きの紋様などを組み込んで、その神性を取り込み、崇めている。境界線がなかったのだろうと思う。
 
やがて仏像など、崇める対象に人を模すようになってくる。それでも人知を超えて、心の奥の奧に迫ってくるものがある。エロスとタナトス、そんな二言で割り切れるようなものでもなく、もっと判断のできない世界に憧れがあって、だとしたら水鏡のおぼろげは、たしかに蛇の目だなあと思う。
 

2012/02/25

償い

昨日、朝から免許証更新と二時間講習に警察署にでかけた。講習は八割が交通ルールに関する映像鑑賞だった。酒気帯び運転と交通事故、事故後の人生の痛切さを警鐘する内容で、冒頭と最期にさだまさしの償いという曲がかかっていた。僕は既知だった実話をもとにしたこの曲を、ほとんど無自覚に、違う耳で聞いていた。
                           ★

償い 作詩作曲 さだまさし

月末になると、ゆうちゃんは薄い給料袋の封も切らずに、必ず横町の角にある郵便局へとびこんでゆくのだった。仲間はそんな彼をみて、みんな貯金が趣味のしみったれた奴だと、飲んだ勢いで嘲笑っても、ゆうちゃんはにこにこ笑うばかり。

僕だけが知っているのだ、彼はここへ来る前にたった一度だけ、たった一度だけ、哀しい誤ちを犯してしまったのだ。配達帰りの雨の夜、横断歩道の人影に、ブレーキが間にあわなかった。

彼はその日とても疲れていた。人殺し。あんたを許さない。と 彼をののしった。被害者の奥さんの涙の足元で、彼はひたすら大声で泣きながら、ただ頭を床にこすりつけるだけだった。

それから彼は人が変わった。何もかも忘れて、働いて、働いて、償いきれるはずもないが、せめてもと、毎月あの人に仕送りをしている。

今日、ゆうちゃんが僕の部屋へ、泣きながら走り込んで来た。しゃくりあげながら、彼は一通の手紙を抱きしめていた。それは事件から数えてようやく七年目に初めて、あの奥さんから初めて彼宛に届いた便り。

「ありがとう。あなたの優しい気持ちは、とてもよくわかりました。 だからどうぞ、送金はやめて下さい。あなたの文字を見る度に、主人を思い出して辛いのです。あなたの気持ちはわかるけど、それよりどうかもう、あなたご自身の人生を、もとに戻してあげて欲しい」
 
手紙の中身はどうでもよかった。それよりも、償いきれるはずもないあの人から、返事が来たのが ありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて ありがたくて。
 
「神様」って、思わず僕は叫んでいた。彼は許されたと思っていいのですか。来月も郵便局へ通うはずの、やさしい人を許してくれて ありがとう。
 
人間って哀しいね。だってみんなやさしい。それが傷つけあって、かばいあって、何だかもらい泣きの涙が、とまらなくて とまらなくて とまらなくて とまらなくて。

                           ★

僕はこの歌詞を、加害者(ゆうちゃん)を「人間」、被害者を「自然」と置き換えて聞いていた。

思い返してみると、311のことが頭をよぎっていたのだと思う。しかし聞いているうちに、もっと深くて広い意味が、波紋のように広がっていた。償い、という言葉が、あきらかにこの歌詞の示すものとは、違う意味で聞こえていた。換言するなら、人間と人間にだけ作用していたコードが、ふと気がつくと、片方が、別の次元に繋がっていた。

自然(大いなる秩序)は呼びかけてもなにも言わないので、このような感動させるような歌詞として成り立つことは、絶対にない。もう送金はやめて、あなたの人生を生きてくださいというやさしい言葉は、けっしてかけてくれない。しかし返事が聞こえたような瞬間、幻聴だとわかっていても、そういう瞬間はあるのではないかと思う。その声を許しの声と捕らえるか、黄泉の国からの呼び声と捕らえるか、彼岸と此岸の裂ける音と捕らえるか、それはもう、受け手であるところの自分によって様変わりしていくもので、固定して判断しない方がいいだろうとは思う。

償いとはなにか。そもそも人間が、生まれながらに業を背負っているという自覚、そのものが大前提だと思う。自覚すらないなら、人間同士を慰めているだけということになるのだから。

結局、いくら思考を巡らせても、答えは出なかった。しかし今までの体験を基にした、手がかりはあった。何千年も受け継がれて、大切にされてきたものには、その背負った業の自覚に基づいた、恥じらいのような、気品がある。そこからくみ取れるものがあるし、くみ取らせるために残っているのだと、僕は思った。償いとはなにか。その答えの手がかりとして、最終的にここに帰結していた。  

償いとは、わかりやすいコードで人間と人間を紡ぎ、慰め合い、感動させるやり方ではなく、人知を超えた大いなる秩序にコミットするために、人間にあらかじめ用意された通路のようなものではないかと思う。償うこととは、通ずる路に対する可能性のことであって、すでに生まれながらに持っている業を、しっかりと自覚することによってのみ、その扉が開く。換言するなら、通ずることを、信じること。するとシュロ縄のように、人間同士もねじれて繋がり、いつのまにか人脈ができることもあるだろうと思う。脈ができれば、やがて血は流れるのではないのか。そんなふうに思考を広げていたら、最後は償いという暗みを押しつけられた言葉に陽が射していた。



2012/02/12

ガドルフの百合

夜毎、宮沢賢治の朗読を聴いている。本で言葉を目で追って読むのとは違って、朗読で耳から聴くと、頭に浮かぶ絵が、ある一定の速度を保つので、紙芝居のように浮かぶ映像の流れに心地よい負荷がかかり、まるで暗がりにひっそりと上映される闇映画を見ているような新鮮な気持ちになれる。それにしてもこの人の文章には、心の奥の奧を照らす、なにか特別なてがかりのようなものがある。危険なのに、暖まる、触ると大火傷を負い、死に至るというのに、虚しさに震える心を照らし、暖めてくれるような救いの火がある。まるで炎のような斬り方だなあと思う。

特に気に入って何度も聴いている「ガドルフの百合(ゆり)」という作品。ガドルフという旅人が旅の途中で嵐に逢い、誰もいない黒い家で一夜を過ごすという短い話なのだけど、そこで出会すビジョンというものに、幻想的とか、非日常とか、宇宙的という、いくら言葉を積み上げても、もの足りない普遍性がある。何度聴いてもピタッと自分に張りついてくるというのか、予言的というのか。すべてが残像のようでいて、リアル。しかしあらためて本で読んでみても、同じ感動は得られなかった。おそらく宮沢賢治さんの作品は、自分にとって、耳で聞く方が吸いやすいのだろうと思う。

ガドルフは最後にこうつぶやく(おれの百合は、勝ったのだ)と。ここで物語を超えて、すべてから解放される。最後の最後に、この世の虚しさから抜け出した上で、大きく自分を広げていく魔法。小栗康平監督の「眠る男」で、主人公がブロッケン現象に映った自分の影にたずねた言葉、「埋もれ木」の少女のラストカット、タルコフスキー監督の「ストーカー」の最後の最後で、足の不自由な娘がテーブルの上にあるコップを触れることなくスライドさせるシーン。それらの人生を揺るがす忘れられない映像が、(おれの百合は、勝ったのだ)。という男の確信に満ち満ちた言葉の上に重なる。宮沢賢治は一本の類まれな映画を撮っているような。言葉を使ったのは、当時映写機がなかったからではなく、それが賢治のままならなさ、世界と自分の距離を埋める最良の手段であり、残像のあいまいさを記録する最良の道具だった。だから賢治はその時代に生まれた。そういうことなのだろうと思う。「ガドルフ」という名前、冒頭から出てくる「曖昧な犬」、そして物語を無限に向かって誘導して、伸びていく「百合」。それらすべてが確かに自分の心の奥にいて、雷鳴を待っていた。本当の暗闇を知っている人はみな旅人であり、ガドルフなのではないだろうか。心の奥に黒い家があり、疑うことなくそこに行けば、曖昧な犬がいて、それぞれにとっての百合に出会える。

一晩でも山で一人で野宿したことがある人はわかると思う。夜山は、一切の光を奪い取る。目を瞑っているのか、開けているのか、そんなこともわからなくなるような心持ちになる。そんなとき、もうすっかり見ることをあきらめて(諦)、暗闇にまるごとの自分を放り投げてみると、木々のさざめきや、遠い川のせせらぎや、虫の声が、いつもとは違う質感で聞こえてくる。かっと目を開いたまま、暗闇を見つめて、そのような音色に集中していると、なにやらひとつの物語が目の前で進行しているような気がしてくる。そういう物語の語り部は、心の奥の奥に抱えている虚しさや刹那に対して、とてもおおらかで、優しい。そして目に見えない物語には、目に見える物語だけを信じている人たちに対応するコードが存在していない。だからちぐはぐで唐突、期待に答えるような展開がない。しかしその声を聞き取れるような形で翻訳する人たちがいて、翻訳してきた先人がいて、これからもい続けるだろう。宮沢賢治はまぎれもなくその一人で、作者ではなく、作品として生ききった(逝ききった)人だろうと思う。

宮沢賢治は、耳で聞くことを強くお勧めします。