2017/04/29

なにかがあるから表現が始まる

峯長瀬の大ケヤキに。廃屋の掃除をしているらしく、大ケヤキのそばに女の人がいた。何度も通ったけど、この場所で人間に会ったのははじめて(ほんとうに人間だったのだろうか?)。ちょっと集中できなかったのと、空が曇ってきたので、素描を中断してカメラを向けたら、まるでカーテンのように、雲がぱあっと散って、太陽の光が射しこんできた。

それからはずっと曇り空で、帰宅してすぐに雨が降り始めた。天気の機微になにげない行動がシンクロ(同調)すると、なにかに導かれているような、不思議な気持ちになる。実際出かける予定はなかったし、朝から路面が濡れていて、雨のリスクが高かった。それでも呼ばれたら出かける。意識はいつも無意識を追いかけている。たまたまと言われればそれまでの話に、自分では気づけない存在の影がある。

なにもないところから表現が始まるのではなくて、なにかがあるから表現が始まるのだろうと思う。違う言語で精霊に語りかけられているような、手が届かないもどかしい気持ち、わかってもらえないだろうなと、諦めてしまいそうな、他の人からは見えない暗い場所に、神々は宿る。

数日前、メダカの水槽の水を入れ換えていたとき、小さな一匹を、誤って外に流してしまった。探したけど、見つけることができなかった。悲しくて泣いてしまうような純粋さはもうないけど、気づかなかったことにするような鈍感さもないので、しばらくは棘が刺さったような気持ちになった。

こういう場所に、性霊(霊性)が宿る。その棘も、時間が経てば、自然に抜けてしまう。生きているから。他の人には見えない、でも大きな意味で繋がっている。そういう大宇宙のような構造を、小さな心が持っている。

 

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