2019/11/26

不思議な切株

川辺に謎の切株が出現。一週間くらい前まではなかった。人が運べるような大きさではないし、なんでこんな不思議な場所に?歩いてきたのかなぁ。

この場所は橋の下で、外からは見えないんだけど、流れ着くほど雨は降ってないし、上から落ちてきたにしては、ここでこんな形で止まるのはかなり変。かなり大きいので、重機使わないと運ぶのは難しいから、誰かが置いたとしたら、その人は人間ではないだろう。



 
たまたま一週間くらい前から制作していた作品が、こういう形の大樹だった。想いが現象化したのだろうな。
 
 
人が座っているような形の謎の切り株(流木)は、彼岸からメッセージを伝えに来た精霊のようで、見れば見るほど不思議な気持ちになる。
 
ふと降りてきた言葉は『絵で世界を救え』。
 
 
と、ここまで抑えきれない想いのままに書いたところで、竈馬が右手から右肩に向かって登ってきてびっくり。締め切った部屋の、何処から入って来たのだろうか。そしてこのタイミング。竈馬は別名カミノツカイ。
 

 
絵で世界を救え。そんなことができるのだろうか?

でもさすがは自然神。「絵で食えるようになれ」とか「有名になれ」とか「もっと上手く描け」とか、そんな小さなことは言わない。

世界を救うという巨大なビジョンなら、死ぬまでモチベーションは下がらない。達成できたかはどうかは、後世が判断すれば良いのだから。


2019/11/20

流木と狂人

海へ。

流木と追憶の森のシンクロに気づいてはっとした。気の遠くなるような時間の海を越えて、この砂浜に辿り着いた流木は、研ぎ澄まされた森の記憶。追い求めていた森の記憶は、神秘的な力で大海を渡ってきた。

 

 
 
 
 
帰ろうとしたら、出口を塞ぐように一匹の野良猫が。かまっていたらどんどん増えて、五匹の猫に。猫の出現は魔法のように、この世界に介在する神秘的な力を暗示している。
 
 


海に行く予定ではなかった。
 
用事で近くを通ったときに、強い力に引き寄せられてしまった。ほとんど無意識に、目的もなく、自分の意志でもなく海岸に辿り着くのは、流木か狂人だけだろう。
 
なにも期待せずに、なにも求めずに、ただ内なる声に応えて動いていると、やがて無意識は理由を求めて、なにもないところから、なにかを生みはじめる。これが創造の種だと思う。種は自分の中にある。
 
 
 
 

 
 

2019/11/03

ミッシングリンク

秋から冬へのこの時期になると、薪の手配で毎日定期的に山に入る時間がある。短い時間でも手つかずの山(森)に入ると、忘れていたものを取り戻したような気がして、心身が満たされる。もし薪の心配がなくても、違う理由を探して山に入るだろう。森の中には、それぐらい大切なものがある。

なにか大切なものを忘れていると、無意識はそれを取り戻そうと欲する。衣食住は満たされているのに、決定的ななにかが足りないような、実体のない不安に苛まされて、焦ってしまう。内なる声を無視し続けていると、やがてなにを手に入れても満たされなくなり、心は枯れていく。友達はたくさんいるのに、なぜか寂しい。羨まれるような生活をしていても、なにか足りない。その溝を埋めるために、虚勢を張り、過剰を求める。大切なものに満たされているときは、なにもいらない。精霊が側にいるだけで、心は潤い、満たされる。

森は大いなる時間を生きて、叡智を保ち、創造し、思考している。もし個人に問いがあれば、一瞬で答えをくれる。自分を超えた大いなる時間の流れと、その創造性に触れることで、人間の魂の中に眠っている力が目覚める。大切なものとは、失われていたその繋がり。ミッシングリンク。

一本の木のように深く根を下ろせば、大地に住む存在は魂に語りかけてくる。木洩れ陽に意味が宿ると、天からは知らせが届く。失われた環とは、猿と人間ではなく、人と宇宙の間にある。それを繋ぐことで、あらゆるしがらみから解放されて、霊性に満たされた魂は、自由を獲得する。

手つかずの森で、いかにも絵になるような場所ではなくて、破綻していて、無秩序で、でもなぜだか強く惹かれる場所がある。人を寄せつけない風景なのに、まるで森の神さまに、魂をぐっと掴まれたように、そこから離れられない。森を抜けて、時が過ぎても、その印象からは逃れられない。

朽ちていく倒木は、寂しい風景ではない。それは新しい命のために、生き生きと輝いている。その輝きは霊光となって、暗い森を、青い光で満たしている。霊性に満たされた森は、魂の風景となって、蘇る。そういう絵を描きたい。

2019/07/05

蘇る樹海

和紙を使った印刷の実験。顔料インクとの相性はすごくいい。和紙にもたくさん種類があって、それぞれ個性が違うので、絵によってどの紙が合うのか模索中。うまくできたら購入できるようにしようかと思う。どんどんやれって、なにかに背中押されてる感じ。
 
 
画集を購入してくれた方が、おまけに送ったポストカードを祠や自作の額箱に飾ってくれていたのがプリント販売のきっかけだった。友達にもポストカードを送りたいから、もう一冊買おうとしたので、いやいや、それだったらもっとちゃんとした額装できるものを作るからと約束した。
 
そもそも本人も忘れかけていた、十何年も前の画集に問い合わせがあるのも不思議だった。一度死んだあの本が蘇るなら、樹海シリーズも蘇えらせてみたいと思った。アウトドア用カメラしか持ってないけど、幸い樹海は撮影してもらっていたデータがあった。なにもかも、今この瞬間のために揃っていた。

プロが使うような高性能、高画質プリンターではないので失敗が多く、一枚一枚『頑張れ!』と祈るような気持ちで見守ってる。たぶんここで作品に念(想い)が入ってる。外注という選択肢もあったのだけど、自分で失敗したり感動したり、試行錯誤したかった。本人が感動しないと、想いは人に伝わらない。
 
 
上手く刷れた作品の上に、有害なベンゼン、トルエン、キシレンを含まないニスを薄く噴射して乾かし、その作業を何回も重ねていく。この工程を加えることで、高級プリンターのクオリティに引けを取らない作品に仕上げる。写真には映らないような、ニスの強弱を微妙に調整して、森の中に艶を与える。

陽光には雲流という薄い和紙を使った。雲が流れるような楮(こうぞ)の繊維が、陽光の下で精霊のように自由に泳ぎまわっている。組み合わせの妙だと思う。この絵にはこの和紙しかなかった。絵がカミを呼んだ。
 

価格は阿波紙出力サービスを参考にした。A4出力1600円+紙代と送料と諸経費400円の一枚2000円。プリンターの性能の違いは手作業によってカバー。作品料は含まない。なお陽光は失敗が多く、数が少ないのでセットのみの販売とした。
 
 
ギャラリーで額入りで販売すると、額装代、場所代、広告費、人件費などが上乗せされて最低でも0がひとつ増える。知名度が上乗せされると、00か000がつく。このプリント作品の価値は±0に設定している。作品のほんとうの価値は、見ている人が決める。
 
浮世絵などに馴染み深い日本人には、このサイズが気持ちいい感じがする。印刷だけど、扉(gate)の役目は果たせると自負している。本来芸術は万人に開かれた扉、自分の作品だと思って育ててくれる人のみ、届けたかった。
 
プリントがすこしまとまってきたから、そろそろ誰でも購入できるようにしようかと、先週の土日にゆっくり考えて注文してくれればいいなというくらいの気持ちで、金曜の朝にささっとサイト作って午後にアップしたら、注文が一度に集中して、その日のうちに在庫がなくなってびっくりした。
 
嬉しいんだけど、混乱してた。自分の力じゃないなあと思った。作家さんに聞いてみたら、みんな一緒に作ってる気持ちになってるんだよ。と言われてハッとした。そんなに意識してるつもりないけど、制作で感じたことは(自分事じゃない気がして)その都度SNSに書いてしまうので、結果ずっとプロモーションになってたんだなと思った。
 
試行錯誤したプリントを、高価ではなくても、綺麗に丁寧に額装すると、絵も喜んでくれた。森は神気を帯び、陽光には精霊が舞った。大きな油絵は小さな浮世絵として新たなる質感で蘇った。なにより本人が感動してる。この想いが波動になって、集合無意識に伝わったんだなあと思う。
 
絵を描かなくても、人は死なない。農家や漁師さんの仕事とは違うから。でも人間はそれだけでは、心が枯れてしまう。だから心に栄養を与えるために、みな作り続ける。心が枯れてしまわないように、心が元気(±0)になりますように。
 
 
樹海シリーズ
 
(後日再販します)
 
 
 

2019/06/16

生命の誕生

カタカムナウタヒ第5首

ヒフミヨイ 
マワリテメクル 
ムナヤコト 
アウノスヘシ
カタチサキ


預言めいた7首の造化三神を描いたあと、5首6首も描かなければいけないという強い想いだけで、第5首を描き進めていた。ほとんど仕上がったので、窓の外で画面にスプレーの定着液をかけて、乾かして放置していたら、ナメクジが画面の右上から降りてきて、十の真ん中を通り、「ア(感じる・生命)」の文字の上に張り付いてた。しかもちゃんと図形どおりに曲がろうとしている。


数日後、発注していたカタカムナ研究家の吉野信子さんの本が届いたので、さっそく読んでいたら、第5首が表している内容は、地球が誕生してから次元上昇し、最初の命が生まれるまでの「生み(産み)の実態」だとわかった。まだ唄の意味を理解していない段階で、銀河と銀河が衝突して、これから渦が生まれる(産まれる)場面を先に描いていたので、不思議な気持ちになった。時(霊感)は過去から未来ではなく、未来から過去へと流れていると直感した。


『カタカムナ 言霊の超法則』によると、第5、6首は繋がっていて、まだ描いていない第6首は「人間の誕生」を表すらしい。するとあのナメクジが「ア(感じる・生命)」の文字の上に張り付いてた理由もよくわかる。虫から人間へ、生命を繋ぎに来ていたのだ。

吉野さん本人にこのことを伝えたところ、

『ナメクジとは、ナとメに引き寄る示し、という意味で、カタカムナの中心、つまり中に入ろうとするエネルギーを持っています。だからアから十のトのところにいるときに気づいたということは、カタカムナのメッセージです。カタカムナの中心は、ナとメが組み合わさってヤタノ鏡となっています。中にあるのは数字の九、まさにナメクジですね。感じているものが、現象化しているのでしょう』

と教えていただいた。

想いが現象化する、という言葉はよく聞くけど、人間の私利私欲だけが現象化するなら、この世界はとっくに壊れていただろう。想いとは、自我を超えた世界から、テレパシーで伝えられる宇宙の恋文。そのメッセージを真摯に受けとめて、自分の頭で理解し、考え抜き、現そうと試みる心の動きの中に、震源がある。

『その通りだと思います。長い目で見れば、人間の集合意識通りに動いていきます。でも集合意識は私達が作り出しているのですから、変えられます。皆んなの思いを大調和の渦にしたいと思っています』






2019/06/08

造化三神

『造化三神(ぞうかさんしん』とは、 古事記に記された最初に出現した神。アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒの三神は、造化三神と呼ばれ(造化は創造の意)、天地を造り成した神とされている。80首からなるカタカムナの唄のなかで、第7首にはこの造化の三神が出てくる。

マカタマノ
アマノミナカヌシ
タカムスヒ
カムミムスヒ
ミスマルノタマ

金鳥山(カタカムナの森)のヤマモモの木を描いたあと、なにか足りないような気がして、何日も絵を見つめ続けていた。当初は光の玉のようなものを全体に描いていた。いま思うと、あれは木漏れ陽というより、ミスマルノタマ(高次元に繋がるときに現れる不思議な球体)だったのだろうと思う。


このままでもよかったのだけど、ストンと絵の底が抜けて、地下に暗黒が現れた。こうなると絵は描き手を置いて、独り歩きしてしまう。ヤマモモは門番のように此方と彼方の狭間に立ち、暗黒ではふたつの銀河が渦巻いた。



ここではじめてカタカムナの記号が頭に浮かんだ。唄の意味も知らずに、検索して拾った画像を参考にして、三神目の渦を描いている。それが第7首、造化の三神の唄だった。


唄の内容も造化三神も、すべて後から教えてもらったことだ。絵はたしかに本人が描いているのだけど、同時に描かされている。ヤマモモの木は直感の回路を通して、見えない世界の質感を伝えようとしている。

古事記もカタカムナ文明も詳しくはないけど、あの場所で感じた不思議な力のことだけはわかる。それは知識ではなく実感、頭だけではなく全身で感じたこと。そのリアリティが回路を繋ぎ、創造力に働きかけて予感を与える。スパイラルを描いた霊感が、実在するこの世界にシンクロニシティの火花を散らす。





虹雲とカモシカ



 
 

帰宅途中に虹雲を見た。そのあと自宅の前になにやら動物の影が。近づいてよく見たら、ニホンカモシカだった。シカはよくいるけど、この山里でカモシカを見たのは初めて。しかも家の前なんて。きっとなにかを伝えに来たのだろう。写真は数年前、剣山のカモシカ。


神の使いと言われている動物に、稲荷の狐、八幡の鳩、日吉の猿、春日の鹿、熊野の烏、白い蛇、などがいるが、それだけに限らず、他の動物にも、小さな虫たちにも、それ(it)がある。神さまは直接話せないので、動物や虫にメッセージを乗せることがある。そのメッセージを受け取れるようになってくると、前兆や予感にも気づくようになってくる。動物や虫はただ一生懸命に生きているだけなのに、そのタイミングや振る舞いが、無意識に訴えかけてくる。その背後にある、大いなる意志のようなものを感受する能力が、人間のDNAには組み込まれてる。

剣山

剣山に。この山は登るたびに印象を変える。山は変わらないけど、たえず自分が変わっているから、その変化を確かめるためにも、定期的にここに来る。

形を変えながら、ゆっくりと空を泳ぐ雲たち。なにか意思を持って、こちらに語りかけているような気がする。そういえばはじめてこの山に泊まった日の朝、一筋の細長い雲が霧の中から現れて、まっすぐに天に登っていった。
 
頂上から下山中に、鶴岩と亀岩で大学生くらいの団体に出くわした。すぐに通り過ぎて遠くから振り向いたら、岩の上に登ってはしゃいでいた。よくまあ磐座に登れるなあと思う。よほど無神経なのだろう。鶴岩も亀岩も、完全に彼らを無視して、ただの剥き出しの岩になっていた。
 
 
頂上に辿り着くこと、有名な場所に行って写真撮って自慢すること、人間の力で山を制覇することを目的にしている人たちに、御神体はなにも語らない。自分を主体にして自然を利用している人にとって、磐座はただの剥き出しの岩。神気を閉ざし、彼らを完全に無視する。呼ばれた気がして、ただ山に登らせてもらっているとき、自然は語りかけてくる。それは自分との対話のなかに、啓示のような形で現れる。ほんとうに大切な人をガイドするとき以外、山はいつも一人で登るようにしている。自分との対話ができない人たちに、山の神はなにも伝えてこない。
 
主体を自分から自然に移して、内なる宇宙に耳をすませていると、タイミングを利用して、現実に徴(しるし)が現れる。それは常識の壁を越えた、精神のエネルギーの働き。その精神の力が、剥き出しの岩に神気を呼びこむ。
 
 
 
 
 
 
 

魔王殿

京都の室礼展の搬出に合わせて、鞍馬寺に。本殿から山に向かってカメラを合わせていたら、奥にあった小さな雲が、形を変えて膨らみながら、すうっと星曼荼羅の真上に来た。ほんとうに雲なのだろうか。

奥の院へと続く山道に、蛇が現れた。太陽の光を浴びて、金色に輝いて見える。神さまの使徒だろう。地主神が喜んで迎えてくれているときは、こういう徴(しるし)が頻繁に現れる。


そして魔王殿に。ここに金星から護法魔王尊が降りたったと伝えられている。空海の御廟に雰囲気が似ているけど、人(魂)の気配はなく、空(宇宙)との繋がりを強く感じる不思議な場所。呼ばれるように魔王殿に近づいたら、なにか見えないエネルギーのような、奇妙な風が吹いてきた。


その風に身を委ねていたら、魔王殿のなかに、あるものを見つけた。数日前からの奇妙なシンクロが、ぜんぶ繋がった。魔王は、この秘密を見せるために、自分をここに導いた。それがわかって、とても嬉しかった。結界がかかっているらしく、写真も撮れないので、具体的な内容を伝えることはできない。でもあのときの感動は、伝わる人には、伝わっているだろう。秘密はその人それぞれの体験や経験によって、徐々に開示されていく魂のコード。きっかけを与えることはできても、本人にしか暗号は解けない。

それから貴船神社の奥宮へ。道中には神気を帯びた美しく大きな木が何本もあり、鞍馬から貴船にかけてが聖域だとすぐにわかる。ほどほどに人を寄せ付けないところがあって、禍々しさと神々しさが同居している。


翌日は神戸、カタカムナの森に再訪。徴(しるし)がたくさん出ていて、精霊たちが迎えて入れてくれた。ここに来たのは3回目だけど、それまでは辿りつけなかった聖域まで精霊が案内してくれた。ほんとの聖域に入ると、感じているものと映るものの乖離が大きすぎて、写真ってほとんど撮れなくなる。ほんとうに大切なものって、目には見えない。

大樹には膨大な宇宙のデータが蓄積されていて、天と地を繋ぐアンテナのような役割を担っている。時間は未来から過去へ流れて、真の叡智を伝えるために、精霊が人を導く。距離や時間、自分が生きている時間さえ超えて、どこまでも遠くへ、魂は繋がっていく。




常識の壁

常識の壁を作ってしまうと、神通力は使えなくなるし、シンクロニシティも起こらなくなる。誰かを傷つけるのを恐れたり、自分が傷つくのを避けているうちに、壁は高くなり、感じていたはずのトキメキは萎んでいく。そうなると、いままで知らなかったワクワクするような新しい世界への扉は、閉ざされる。

トキメキって、人であれ物であれ樹木であれ、その相手(対象)のことを好きになり、惚れたときに起こるもの。芸術は恋愛と言われるのもそのせいで、トキメキはシーンと静まっていた心の底の泉に、どこからか一滴の水が落ちてくるようなもの。その波紋は自分を超えた、見えない世界にも影響を与えている。

回路が繋がると、相手が感じていることが、距離を超えて伝わってくる。苦しみも喜びも波動だから。ただ相手を思いやることで、その波を鎮めることができる。純粋に、幸せになってほしいと本気で思っていると、その想いは相手の心に影響を与える。壁さえなければ。

2019/04/28

日輪と躑躅

ちょっと遠出して犬の散歩してたら、軽トラの知らないおじさんに「ツツジが咲いたから見にきて」と言われた。ちょっと不意打ちだったけれど、わかりましたと返事した。それから数分後に、なぜかふと脇道に逸れたくなって、山道を進むと、いままで知らなかった、とても気持ちのよい古い神社に辿り着いた。すぐにさっきの人が、このあたりの神さまの使いだと気がついた。


こういうことはよくあるし、ああこの人はなにかの使いで、メッセージを伝えにきたのだなあと、感じることがよくある。それは個人的なものだけど、現実に徴(しるし)が出るので、リアリティがあって、確かなものだ。

そういうことが続くと、実在するこの世界は、もうひとつの世界(時空)と重なりあって存在してるということを、特別なことをしなくても、普通に暮らしているだけで、わかるようになる。ただ当たり前だけど、人の背後にあるものは見えても、自分の背後にあるものは見えない。

身体は器(乗り物)なので、直接入っているものを自分で確かめることはできない。だから私は神さまの化身だと自分で言う人は、そもそも矛盾してる。知らず知らずに、身体を貸して、誰かに影響を与えていたり、メッセージを伝えてしまうものだから。

それは恐ろしくて、同時に素晴らしいことでもあるけど、身体は器であることを自覚しているだけで、自分を失わずに、コントロールすることはできる。心に穴が空いて、もしも魔が入っても、小さな違和感や心の奥の動きに敏感でさえいれば、創造力やイメージを使って、エネルギーを変換することができるから。

そもそも神社や寺院以前に、山があり、谷があり、鎮守の森があった。その自然のなかに、人々がなにかただならないものを感じていたから、シンボルができた。神さまは後から、人間によってそう名付けられた。その無名のエリアに意識を合わせるだけで、波長が乱れていても自然と整う。±0の場所だから。

人間の業や怨念が渦巻いている場所に入ると、知らず知らずにそのエネルギーを請け負ってしまうことがある。溜まったエネルギーを変換できないでいると、内側から歪んでしまう。そのことに気づいている人は、神社や寺を大切にする。逆を言えば、神社や寺が集中している場所は、それだけ業が深く、怨念が強い。

役目がある人はともかく、心の奥に違和感を感じているのに、自分を押し殺して暮らしていると、次第にその渦の中にいることすら気づかなくなる(そういう人たちの正義が一番怖い)。宇宙の果てがイメージできないように、歪みは自分も歪んでいるとわからない。ちょっと外に出るだけで、奇跡が満ち溢れているのに。

自分が知っている世界がすべてだと思いこんでいると、日常に兆しが現れても、可能性がないので、気づくことができない。でも±0にして、自分の知らない世界も迎える準備を整えていると、ちょっとした違和感に気づくようになる。理由もなく心に残ったり、なんか気になることって、ちゃんと理由がある。

翌日、おじさんに言われた通り、躑躅(ツツジ)を見に行ったら、見上げた空に日輪が現れた。昨日でも明日でもなく、その日そのタイミングでなければ、日輪と躑躅を同時に見ることはできなかった。偶然なんてこの世にはない。


 

2019/03/20

re-sonante

2019年4月1日(月)〜2019年5月6日(月)、The Terminal KYOTO にて開催される室礼展OfferingsⅤ〜Original Memoryに参加させていただきます。



写真は設営直後ですが、この後二点のアコウの木の木炭画の間に、漆工芸家、土井宏友さんの流木アンテナが設置されて完成になります。ぜひ実物をご覧ください。

このアコウの木は四国の室戸岬、海岸沿いの森に生えている木で、背後には若かりし弘法大師空海が修行したとされている御厨人窟(みくろど)があります。この洞窟から見える風景は空と海のみで、ここから「空海」の法名を得たとされています。 アコウは別名絞め殺しの木と言われていますが、愛し合うように岩に固くしがみつき、放射状に枝を伸ばす実物の姿には、災いから御厨人窟を守っている鬼神のような強さがあり、一方で空と海のエネルギーを全身に受け止めている大地のアンテナのような神々しい雰囲気もあります。

展示タイトルは「re-sonante」、resonanteとは反響する,鳴り響く、共鳴、共振という意味があります。

本展のテーマは「Original Memory」、Original Memoryとは本能的に秘めた特有の記憶。感情はその記憶を起源に生まれる。その内なる記憶を覚醒させる体験が得られる場作りを目論むというのが今回のテーマです。

では内なる記憶、Original Memoryとはなんでしょうか。

今回はじめて室礼展に参加させていただきましたが、会場の下見や、設営中、複数の作家さんとの作品と、響きあうことで生まれるエネルギー(これから生まれてくる可能性のような)を予感していました。この前兆が、やがて渦を巻き、場(銀河)を形成するのだと思います。個々の作品は違いますが、それらはなにか共通した記憶を起源として、反響し、共鳴し、共振して、成り立っているような気がします。その共通した記憶が、自然の一部である私たち人間の意識の古層に眠っている、未知なる宇宙の記憶(Original Memory)ではないでしょうか。作品とはその記憶のほんの一部の現れであり、手がかりだと思います。

様々な個性が集まり、響きあうこの空間は、普段眠っているその記憶を呼び覚ます装置であり、異界への扉になることでしょう。



👁👁

いくら拾っても空き缶が捨ててある場所がある。ポイ捨てするなという古い看板はあるのだけど、まったく効き目がない。試しに壁の苔を削って眼(👁)を書いたら、空き缶がグッと減った。こんなに効果があるとは思わなかった。誰もいないのに、じっと見られてる感じって、心の奥に伝わるのだろうな。見られて困ることなら、はじめからやらなければいいのに。誰もいなくても、天は見てる。

人の目を気にする大人は多いけど、自然の目を気にしてる大人は少ない。子どもの頃に見えていたものが、名前をつけられて、だんだん見えなくなっていく。不思議で溢れていた世界は、変わらずそこにあるのに。