2015/11/18

消滅する時間


最も内面にあるひとつのものに、それがあらゆる時代を通じてお前に隠してきた最後の秘密を尋ねよ。(マーベル・コリンズ「道を照らす光」より)


弘法大師空海が、足のわるいお婆さんが、わざわざ下(しも)まで飲み水を汲みにいくのを不憫に思って、神通力で綺麗な水を湧き出させたと伝えられている泉の隣に、しだれ桜の樹が生えていた。

三年前くらいに、薪の手配に苦労していた自分を不憫に思ってか、なにか理由があって最近その桜を切ったらしいから、好きに使えばいいと、大家さんに言われた。土地の人に話はつけてあるから、いつでも持っていってもいいとのこと。ご好意に甘えて、桜の幹だけを使って、枝はそのままにしておいた。

時が過ぎた今、その枝を木炭にして、大家さんの家の目の前にある、しだれ桜の幹を描きはじめている。解けずに放置していたパズルが、カチリと組み合わさったような気がしていた。

画用木炭を買いに行くのが億劫だったので、木炭ぐらいなら自分で作ってしまおうと、画用に使われている柳によく似た形をしている、しだれ桜の倒木があったのを思い出しただけ、うまく木炭が生成できたから、桜で桜を描こうと思っただけ。深く考えているわけではなくて、自然の成り行きに従ってるだけなのだけど、この枝が木炭になることは、はじめから決まっていたような気がする。

見つけることができなくて諦めていたパズルの最後のワンピースは、ほんとうは自然の時間の流れに微睡んでいた。まだ自分に準備(心得)ができていなくて、だからそのときは気づくことができなかった。こちらの時間の流れを合わせるのには、三年という時間が必要だった。そしてそのふたつの流れが合流した場所で、時間は消滅した。

はじめから決まっていたように感じるということは、出会ったときに眼に見えない約束が内包されていて、その約束を思い出したからだろうと思う。その種は心のなかで相応しい時期を待ち望み、まるで花が咲くように、彩られた未来が開示される。眼に見える桜は毎年咲いてくれるけど、気づいてくれるまで咲かない花もある。

いまこの時期の桜は、人の目を避けて、厳しい冬に備えている。千手観音のように伸びた無数の手が、静かなる生命を蓄えている。寂しげなその腕に、眼に見えない約束が内包されている。花は相応しい時期を待って咲く。その先に新しい世界が展開する。

2015/11/10

白い光


宇佐八幡神社の大楠を描きたくなって、神社に通いはじめてから不思議なことが起こる。人に話してもうまく伝わらないような、微妙なことなんだけど、沈黙の内に働いている自然の力が溢れている。

鎌倉時代から此処にある大楠は、見上げても視界に収まらないほどの枝葉が広がっている。足下の根っこには、いくつものうつほ(空)がある。うつほは神が籠る場所であり、異界へ繋がる通路と言われている。大楠を見つめているだけで、その理由はよくわかる。

最初は根っこを描こうとしたが、うまくいかなかった。遠景(全景)を描こうとしたが、うまくいかなかった。描けないんだなと諦めた。諦めたら、楽になった。呼ばれた気がして、何度も通った。描けなくてもいいから、そのままを写そうと思った。

この大樹が持っている情報は、大きくて暗すぎる。闇が深すぎて恐い。だから描けなかった。諦めると、自分のなかに空洞(うつほ)ができた。その空洞に響いていた大樹の声は、野風に揺れる草葉のように優しくて、柔らかかった。

川からの強い風にあおられて、白い羽毛の種が、いっせいに空に舞いあがった。

ある朝、いつも通っているのだから、今日ぐらいは賽銭はいいかなと、本殿に挨拶せずにそのまま大楠の前に向かった。そろそろ帰ろうと門を出て、振り返って一礼、ちょうどそのとき、薄暗い本殿の奥が、ひときわ白く光っているのに気づかされた。光に意思のようなものを感じて、ハッとした。

近づいてよく見ると、天井から吊るされた、ただの白色灯だった。来たときは灯っていなかったし、普段は消えている。本殿の鏡が白色灯を反射していて、そのせいで近づくまで正体がわからずに、白い光が強い神秘を帯びていた。

鈴を鳴らし、賽銭を入れて、不作法を詫びて、それから再び門をくぐって、もう一度振り向いたら、ちょうどそのとき、今度は門についている別の白色灯が、光った。ふたつの発光体が、チカチカと鎮守の森を照らしていた。

この神社は無人。たぶん白色照明に、外の明るさを感じて自動で光る、センサーがついているのだと思う。時計を分解しても時間は見つからないように、そういう仕組みはわかっていても、このタイミングの不思議はわからない。昨日は小雨。たまたま神社に入ってから、だんだん空が暗くなっていた。大楠は神社の中と門の外、二本ある。あの光は大樹の御霊。

御霊はもちろん賽銭が欲しかったのではないし、不作法を戒めたかったのでもないと思う。ただ挨拶がないから、寂しかった。手を抜いたから、哀しかった。だから空の暗さと自動センサーのタイミングを通して、白い光で存在(真実)を伝えた。寂しさや哀しみが、心を照らした。

あの光は、タイミングの悪戯であると同時に、白い意思。どちらかが正解ではなくて、どちらもリアル。現象には万人に納得してもらえることと、本人にしかわからないようなことがある。知ることと信じることの狭間に、万物の陰影がある。

ときどきそれがどうしたと言われてもしかたがないようなことを、長い雨のように誰かに伝えたくなる。それは本人しかわからないような微妙なことこそ、ほんとうは根っこで繋がっている大きな世界のアナウンスだと信じているからだと思う。今朝は曇り空だけど、今日はほっとするような晴れ間がある。ときどき窓から光が射し、干し柿の影が畳に伸びる。木々は色づきを増して、小鳥が鳴いている。


2015/10/20

永久の未完成


『永久の未完成、これ完成である』 宮沢賢治 農民芸術概論綱要より


制作途中の絵を持って、ひさしぶりに森に入ったら、ずいぶん光の印象が違っていた。季節が変わったので、土や葉の雰囲気も変わっていて、全体のニュアンスが以前と違う。どうしようか迷ったのだけど、既に其処にある印象のままに、大幅に色を修正(補正)した。夏と秋の光が混合してしまって、画面も荒く不安定になったのだけど、不思議と違和感はなく、絵が再生したような気がした。

直接目で見て描いてみると、季節で変わる光の印象が、ただ見て感じているだけよりも、身体を通してよくわかる。冬の光もまた違うのだろう。その度に描き直していたら、いつまでも完成しない。だけど、かつて見た光より、いま目の前に受けている印象が強ければ、自然に従うしかない。絵のなかで季節が変わったのは、自分しか知らないけれど、それはそれでいいじゃないか。

この森は原生林ではないけど、銀河を包む透明な意志によって、結界がかかっている。この森に重なったある条件のおかげで、地元の人や旅人を寄せつけないし、簡単には侵入できない。色と光とを通して、この森が誰かに打ち明けようとしている秘密は、ただ表面をコピーしても、他の誰にも伝わらない。

世界の秘密を暴こうとしたり、事物の本質を表現しようとすると、モチーフはすっと逃げていくのだけど、上手く表現できなくてもいいから、色や光を通して、自然が打ち明けようとしていることに、ただ耳をすまして、身体を預けていると、離れて様子を伺っていた自然が、向こうからやってきてくれる。

綺麗な写真を何枚撮っても、この森が色と光を通して、開示しようとしている情報は、誰にも伝わらない気がする。でも描いていると、少なくとも自分には伝わってくる。眼の感覚を通して、自然が自己を現しているのだと思う。


2015/09/23

無名

ジョギングコースに「無名」が倒れていた。顔見知りだった。いつも樹に登ってこちらを伺っていて、電線も渡ることができる器用なやつだった。もう二度と動かなかった。

はじめて「無名」に出逢ったのは真夜中の杉の樹だった。ヘッドライトに反射する二つの眼が、杉の樹の上から興奮する二匹の犬を見下ろしていた。名前がわからなかったので「無名」と命名して、そのままそう呼んでいた。毎夜のジョギングで月に一度か二度くらいは「無名」に遭遇した。そんなときはなんとなく嬉しくて、太古の狩猟の記憶が残っているのか、幸運(luck)のようなものを感じることができた。お不動さんのそばだったし、ひきずって道の横によけてくれていたから成仏できたような気はするけど、もう「無名」に逢うことができない寂寥は残った。

うちは山里だけど国道沿いなので、特に連休になるとこういう場面に遭遇することは多い。飛び出したかもしれないので誰かを責めるつもりはないし、心優しい人ぶりたいわけでも、ナイーブ(感傷的)になってるわけでもないけど、信号もなくて気持ちいいのかもしらんけど、動物も避けられないようなスピードで山道を走るなよと自戒を込めて思う。

こういう話をすると狩猟や飛行機(鳥の事故)などの例えをだしたり、中国では犬を食べているとか、もっと深刻な社会問題があるだろうなどと鼻で笑う人がいるが、それは筋違い。世の中で騒がれる問題と個人的な問題は根っこの部分で繋がっている。捕食でも、しかたのない駆除でもない、世界に見放されたようなこういう場面は、誰も救われない。だから声を拾いたくなるし、もう「無名」に逢うことができないという小さいけど確かなリアリティは、万人の知識や常識や数字のごまかしで解決しない。自分事だから。

渋滞学者、西成活裕さんの研究によると、渋滞をなくす方法はじつにシンプル。車間距離を開ける。ゆずりあう。詰めない。ようするに、相手を思いやる気持ちであり、心の余裕。ある意味ありきたりでよく聞く言葉だけど、机上の精神論ではなくて、実験現場から導かれた事実だから重みが違う。渋滞は人間の集団心理が創り出している状態であり、事実、蟻の行列は渋滞しない。

では渋滞とは逆の場面ではどうだろうか。混んでいなければ、「まわりに誰もいない」のだろうか。

気持ちがよくて見晴らしがいいなら、のんびりいけばいいと思う。スピードを追求したいならサーキットを走ればいい。僕自身は法定速度は守ってない?(というか、見てない)けど、自分の感覚で人間や動物もよけられないようなスピードは出さないし、速度超過で捕まったこともない。そんなに急いでまで辿り着きたい場所なんて、どこにもない。落ち着きがなくてせわしない人は、相手の気持ちをくみとる能力が高いのだろう。アンテナが高すぎて、気苦労も多いのだろうと思う。そういう人と無名の寂寥(もののあはれ)を共有できればなあと思う。

2015/09/15

精霊の森②


「犀の角のようにただ独り歩け」釈尊


屋外だと陽光が移り変わるので、一枚の画布に眼で見たまま、正確に自然を描くことはできない。朝の光と昼の光で印象が変わっているのに、その差異を埋めようとするから、色が不自然に混在していて、タッチも荒くなる。でも綺麗に描けていなくても、リアリティはあるので自分では納得ができる。個性を消すには、写真のように描かなければと思っていたのだけど、実際には人は機械ではないので、写真のように正確には描けない。それでも自分に嘘はつきたくないので、できるだけ見たままの色を乗せていると、一枚の画布に自分が体験した時間(色)が積み重なって、混在する。

いい絵ってなんだろうと思う。自然はもうそのままで美しい。わざわざ描かなくても、いいじゃないかと思う。人に褒められたいから描いているだけなら、もっと上手い人にまかせて辞めてしまいたい。でも辞められないのは、なぜだろうといつも思う。モチベーションの在処が、よくわからないまま浮遊している。

たとえば森に陽射しが射しこんでくる瞬間は、確かに美しい。みんなにいいね!って言ってもらえるだろう。でも光も射しこんでいない、誰にも相手にされていない圧倒的に暗い時間があるから、その木洩れ陽に美しさが宿る。

自然はなにも言わない。でも心を澄ましていると、沈黙の声が聞こえてくる。上手く描くことも大事だけど、ままならなくても自分にしかできないことを、やるべきだと言う。そのままならなさに向かって進めと言う。


2015/09/12

主は来ませり


グレゴリオ聖歌やミサ曲をよく聴くようになった。バッハもそうだけど、自然霊の歌という気がする。身体にすっと入ってきて、邪気を祓ってくれる。古楽になると宗教の違いをあまり感じさせない。こういう音楽が高野山で流れていても、違和感はないと思う。

クリスチャンではないけれど、保育園がキリスト教だったので、懐かしい感じがする。毎日歌った賛美歌をよく覚えている。キリストのこともシュワキマセリという意味もわからなかったけど、あの保育園にはいい思い出が詰まっている。なにかに見守られているような気配を、いつも感じていたのだと思う。

なんだかよくわからなくても、身守ってくれているような気配が場にあると、安心する。カミサマでも仏様でも親でも友達でも樹でも花でもいいのだと思う。人に言えないようなことや、つらいことがあっても、そういう存在に見守られていれば、やっていける。
 
保育園で宗教を学んだ記憶はない。でもシュワキマセリという念仏や、賛美歌のメロディや、祭壇の十字架や、ノアの箱舟のような遊具はよく覚えている。よく覚えているのはそういうもので、調べれば書いてあるような万人の理屈ではなかった。小中高は我慢ばかりで、あまりいい思い出がない。あったかもしれないけど、どの思い出もなんとなく寂しい。そういうものかもしれないけど、見守られているような気配を感じさせるなにかが場にあったら、少しは違ったのかもしれない。学校なんて古くさいものははやくなくなって、寺子屋とかになればいいのに。

お寺の鐘がポーンと鳴ったり、からすが夕焼けに向かって飛んだり、桜が咲いたり、大きな樹の根っこが怖かったり、蟻の行列を観察したり、カエルが古池に飛びこんだり。そんなことだけで"もののあはれ"を感じられるのは、身体のなかに宇宙をあるからだと思う。その宇宙をお天道様が見守っている。

2015/09/11

心象スケッチ


修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす


宮沢賢治「春と修羅」より

散歩していて、小さな白い蛾が目の前を横切ったんだけど、それが海を渡る白鳥に見えて、後ろ髪を引かれるような想いで振り返ったけど、そのときにはもう、追いついたのはもちろんただの白い蛾で、それでも残像が尾を引いていた。あれは二重の風景で、自然の方から、こちらに向かって、なにかがやってきた証だろうと思った。

たとえば海を渡る白鳥を見たいと思って、海に行って白鳥を見たとしても、それはこちらから自然を見ているだけで、もしもそこに感動があったとしたら、たぶんそれまでの努力と、その白鳥の風景を通して、その人は違う景色を見ているのだろうと思う。見えているものと、見えないもの。此岸と彼岸。風景は相互に重ならないと、奥行が生まれない。

ある日森で背中に矢が刺さった夢を見た。突き刺さっているけど、自分が透明なので痛くない。
前日に森の急斜面で、軽く転落したときのイメージ編集だと思う。背中から落ちた場所が羽毛布団のような葉の茂みで、かすり傷ひとつなかった。森に守られたような気がして感謝したけど、その逆も起こり得たはずだから。

樹に結んでいたロープが、ほどけてしまった。もしロープではなくて、蔦とか、枝や草に掴まって斜面を降りていたら、もっと慎重になっていたので、転落したりしなかったろう。切れても仕方ないと思っている命綱と、切れるはずがないと思いこんでいる命綱は、強さが違う。

あのときロープがほどけた瞬間と、落ちたときの背中で感じた森の愛情は、心象スケッチとして記憶に留まっている。このイメージを肉体を離れた意識が編集しようとするのは、考えてみれば当然のことで、夢で放たれた矢は、まるで喪神の森の梢からひらめいてとびたつからすのように、二重の風景を貫いた。

森から落ちた帰り道、畑に三毛猫が座っていた。最近ウロウロしている野良猫なのだけど、遠くから見ているだけで、すぐに逃げてしまう。姿をちゃんと見たのは、その日が初めてだった。よく見ると目つきが悪くて、数年前に東光寺で戯れていた、あの写楽の猫によく似ている。ああ、生まれ変わりなのだなと直感した。カメラを持ってくるまで待っててくれて、写真を撮ったら離れていった。あれから姿を見ていない。

時空間がバラバラで、極私的な心象スケッチなんだけど、ここ数日の不思議が、数珠のように繋がった気がした。他人にはうまく伝わらないような他愛のないことでも、心に残るのは理由がある。そのときはよくわからなくても、なんとなく見えてくる宇宙の輪郭がある。



2015/08/03

川と遠雷


「実在の在り様をイマージュとして捉えること、イマージュこそが実在の真の在り様だと考えることこそ、哲学にほとんど暴力的ともいえる哲学性と可能性を与えるのです」ベルクソン




暑い日は頻繁に川で泳いで身体を冷やすんだけど、毎回付き合わせてる犬たちは、水を嫌がって退屈そうにしてる。一人で行こうとすると抗議吠えするのだから、泳げばよいのに。

夕方、突然オロオロしはじめたと思ったら、空が暗くなって遠雷が聴こえた。人間よりも感受性が高く、感覚が突き出している。

今日はカメラ(防水)を持っていった。いつも感じている水の流れと岩の関係をフレームにおさめたかったのだけど、既に自分の中に在る印象が強かったので、うまくおさまらなかった。こうなると描く以外に表現する方法はなくなってくる。絵と写真の違いって、こういうことかなと思った。

目の中に像(イマージュ)があって、撮るより先に映ってしまっている風景がある。その像を現実にすり合わせることができるのが写真家の才能だと思う。だからものすごい写真家さんは感覚が突き出ていて、通常の感覚では辿りつかないような場所を察する。まるで遠雷を予知する獣のように。

クールベの絵を見て、セザンヌは彼は目の中に像を持っていると言ったらしい。その像とは直覚された印象のフレームであって、絵筆を取ることは、彼にとっての追憶の旅であり、狩人としての武器だったろう。

目は見えている世界だけを見ているわけではなくて、見えていないものまでも感受している。思い出がありありと蘇るのはそのせいで、刻まれた記憶は次元を超えて、ありふれた風景からも滲みでて、独特のリアリティを発動する。

(なんで映らないのだろうなあ)と、もどかしく思えたのは幸運で、水の内在的な煌めきや岩の不動心が、カメラという道具を透過して心に突き刺さっていたから。このもどかしさが宝物。きっといつか現れる像が、その日を夢見て目の奥で微睡んでいると思いたい。


2015/06/19

精霊の森


画家は「その身体を携えている」とヴァレリーが言っている。実際のところ、<精神>が絵を描くなどということは考えようもないことだ。画家はその身体を世界に貸すことによって世界を絵に変える。この化体を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との縒り糸であるような身体を取りもどさなくてはならない。(メルロ=ポンティ「眼と精神」)


精霊の森に行く道はふたつあって、ひとつは川を渡る道、もうひとつは最近発見したトンネル工事現場の抜け道。進めている画布は30号なので、抜け道から運ぶ。しかしまた新たに別の工事が始まってしまって、抜け道さえも通れなくなってしまった。この画布を持って川を渡ることは難しい。しばらくは無理そうだけど、森は記憶のなかにある。

あれだけたくさんの樹があっても、以前描いた画と、同じ樹で同じ構図を選んでいる。自分の意思なのに、不思議に思う。描くというよりも、描かされている。植物は話せない。だからこの森は、自分に託して、なにかを伝えようとしているのだと考えている。どう思うかは、自由なのだから。この名もなき森は山里の死角になっていて、いまは道もない。地元の人にも、旅の人にも辿りつけない。結界がかかっていて、だから神性が宿る。

自然は言語を持っている。その声を聴き取ろうとする意思が、自然の一部である人間を変性意識状態にさせる。この森で精霊や妖怪や神々を感じるのは、樹々から話しかけられているからであり、狂っているわけではない。理屈ではなく、感じさせる深い理由がある。

土砂降りになると工事が中止になるので精霊の森に入れるのだけど、カビが怖いので油絵を持っていくわけにはいかないし、スケッチや水彩をしていても雨に濡れてしまう。だからなにも持たずに森に行って、雨に濡れながらポカンとしていると、自分はなにをしているのだろうなとふと思う。みんな誰かのために、時間をムダにしないで働いていることだろう。自分も仕事をしているつもりだけど、いい大人が雨に濡れて森でポカンとしている状況を、万人に納得いくようには説明はできないし、あまりしたくもない。ああ、あの人は変わり者なのだなあと思われてるくらいが、心地よいのかもしれない。

雨に濡れながら森にいると、ゾーンに繋がる。ゾーンでは自分が自分に観察されている。ほんとうは狂っているのではなくて、狂ってしまわないようにここにいることが本人にはよくわかる。無意味の意味が、やさしい雨に包まれている。


雨が降るといろんな色が見えてくる。

雨粒が弱い光を撥ねていて、厚い雲に閉ざされている陽の光を、月光のように暗示している。空間に透明な青い膜がかかったように見えたり、森に目に見えないハレーションのような虹色の光の粒を感じるのは、そのせいだと思う。青空から降りてきた虹のエレメントが、雨という天の気配を演じている。雨のひと粒は目で追えないほど早く落ちる。だから小さな虹色の光も目に映らない。もしも雨粒のすべてが、ゆっくりゆっくりと落ちてきたとしたら、雨の日の青き世界は、万華鏡のようにキラキラと輝いて見えるだろう。

2015/05/28

記憶の森②



朝から画材一式を持って精霊の森に。ズレを感じていた作品を自分の目で修正した。荷物が多いので川を渡るのが大変だったけど、辿りつくことはできた。椅子を持っていかなかったのに、まさにこの絵の構図のその位置に、ちょうどよい石段があったのには驚いた。まあ座れと、森に迎えられたような気がした。

じっとしてくれている檜の樹は捕らえることはできても、揺れ動く葉を人間の目で捕らえるのは不可能に近い。それでも諦めずに、素直に色を置いていくと、画布全体にニュアンスが浮かんでくる。このニュアンスが森を構成している。この感覚を取り戻したかった。

モチーフが目の前にあると、入ってくる情報量が圧倒的に大きくなる。じっと見つめ続けていると、動かざる物体の周囲に、あるニュアンスが浮きでてくる。静物は死んだ自然ではなくて、物体として生き続けている。人間と違って、樹々や静物は動かないし、沈黙している。太陽のように動かないのに、情報が大きいのは、物体の持つ力が、天体のように周囲に影響を与えているからだと思う。目に見えない小さな粒子が物体を包んで、雰囲気を作っている。動かない樹は森にとって静物なのだけど、内面に持続する時間を蓄えていて、その力が土台になって、森を構成している。見えないはずの精霊や時空の裂け目を人に感じさせるのは、その蓄えられた力が周囲に与えている、大いなる記憶の働きのせいなのだろうと思う。

この森の奥で拾った鹿の頭蓋骨を描きはじめたとき、背景を青や緑にしていた。実際に目に見えている土壁の色とは違うが、素直に出てきた色だった。この色はモチーフ(鹿の頭蓋骨)から漂っていた。この鹿は、この森の記憶を持っていたのだのだなあと、改めて思う。

 

2015/05/25

記憶の森


いろいろ思うことがあって、風景と平行して静物画を描きはじめた。河原で拾った鹿の頭蓋骨に、さあ描いてみろと言われているような気がした。じっと見つめているとよくわかる。こちらが見ているはずのだけど、あちらからも見られている。ふたつの視線がぶつかる空間に、ちょうど画布がある。

静物画はとても落ち着く。気が安らぐ。だけどもうすこし絵を重ねてからの方がいいかなと思っていた。でも今進めている森の絵にズレのようなものを感じていて、それを解決するために、静物を描く必要があった。見ることと、見られること。距離感のことだと思う。

森(モチーフ)は目の前にないけど、記憶のなかにはある。ありのままの森と記憶の森が、重なり合う空間に画布がある。その距離感を、静物は思い出させてくれる。外と内が重なり合ってくると、自分が消えていくのがわかる。その消失点が、自分と世界との膜だと思う。皮膚が外界と自分とを分けているように、意識にも透明な膜があって、見えているものや見えていないものの間で、まるで風に揺られるカーテンのように、呼吸しているという気がする。その呼吸が、自然や物に生きた印象を与えている。



2015/05/02

追憶の森


『私は木々の声をきいた。木々のとつぜんの動きや、そのさまざまな形や、光に対する不思議な魅力などが、森の言葉をふいに私に啓示した。その木の葉の世界は唖の世界であったが、私はその身振りの意味を理解し、その情熱を見て取った』Teodore Rousseau


剣山のお山開きに。長かった通行止めも解除された。剣山は宇宙の書。ページをめくるように、何度でも新しい自分を映してくれる。山を超えて、ブナの森まで足を伸ばそうと思っていた。

山に登るときは石を握りしめる。ひんやりした石のつめたさが、手のひらにこもった余計な熱を逃がしてくれる。ときどきはぎゅっと握りしめる。強く握りしめたり、弱く握りしめたりしていると、大地と会話しているような気持ちになれる。石があたたかくなってきたら、別の石に変える。そうして身体で心を通わせる。

登りはじめてすぐに、青い服を着た女性が前にいた。日本人ではなかった。外国人観光客の多い高野山とは違って、剣山で異国の人を見たのははじめてかもしれない。彼女との差は、自分の影のようにゆっくりと縮まった。大きなヒノキの樹の根元で、彼女は休憩をとっていた。インドの人だろうか、静かで透んだ瞳をしていた。誰にでもそうするように「こんにちは」と声をかけて追い抜いた。「こんちは」と、小さなラピスラズリのような声が聞こえた。なんでもない一瞬なのだけど、いまでも心に残っている。なんでもないのに心に残ることと、残らないことがあるのは、なぜだろうか。

しばらくすると石積みがあった。なんだかほっとした。河原の丸い石と違って、山の石は角張っているので乗せやすい。そこに石を乗せてから、別の石に変えた。剣山は頂上付近になると、石が白くなる。石灰が入っているらしい。白くなってくると、うれしくて何個も拾ってしまう。ポケットに白い石が詰まったころに、真っ白な霧に包まれた。

道中はテオドール・ルソーのことばかり考えていた。前日の夜に読んだ、ロマンロランの伝記のせいだった。ミレーの伝記なのに、心に残ったのはルソーだった。ルソーは生涯の大半を貧困と孤独のうちに過ごし、中風にかかってひどく苦しんだあげく、狂った妻のかたわらで、ミレーに抱かれて死んだという。バルビゾンにはどんな村や森や雲が広がっていたのだろうか。きっと美しい魂たちを包んで、いまもなお輝いているのだろう。

剣山の頂上は雲の中だった。霧中でブナの森を目指した。二の森を過ぎたあたりで、急に頭が痛くなった。2000m弱なのに、高山病はないだろう。道に迷うことはないけど、視界が真っ白で、それも不安だった。それでも行くのが冒険家なら、自分には冒険の資格はない。また今度にしようと決意して、引き返していたら、二の森の手前で、美しいブナの森を見つけた。自分はセザンヌのような斑紋がついていて、直観したらブナ(木無=木では無い)と呼んでいるだけなので、ほんとうにブナかどうかはよくわからない。でも引き返さなかったなら、再会できなかった小さな森にちがいない。

目的地にはたどり着けなくても、心にとどまる風景というものがある。その小さな出逢いのときめきが、自分にとっての宝物。坂道で追い抜いた青い彼女も、引き返したこの白い森も、イメージで散らばった印象を結びつける世界の断片。落穂を拾うように、通り過ぎていった記憶を追いかけている。



2015/04/24

この世界

犬の知覚には驚かされる。空(くう)は出かけようとすると、いつも狂ったように吠えるのだけど、出かけようかな、と頭で考えただけで、すでにソワソワしはじめる。こっそり出かけようと、別室でジーンズに財布を入れただけでも、扉の向こうから吠えはじめる。準備する前の、いつもとは違う状態を見抜かれているので、財布の革がジーンズに擦れる微かな音にも反応できる。本人も気づいていないような、表面からは知りにくい微妙な心の動きを、獣は感じとっている。言い換えると、見えないものを見ている。

こういう能力は人間にもあるだろうと思う。9日間の断食、断水、不眠、不臥という極限の行に入ると、意識が敏感になりすぎて、線香が燃え落ちる音が聞こえたり、襖の向こうにいる人の匂いがしたりするらしい。そこまで極限ではなくても、黙っていてもなんとなく伝わってくるものはあるし、嘘をつかれていると、なんとなくその人を心からは信じられない。その逆に、口ベタで不器用でも、嘘や虚飾がなければ、伝わってくる真心がある。でもそれがなんでわかるかは、自分でもうまく言えない。きっと心の奥には、人生の羅針盤がある。

ほとんどの人が見えていないものを見ている人は、気苦労が多いだろうと思う。誤解されたり、変わった人ねと疎外されることもあるだろう。でもそれがその人の心を強くする。彼の見ているものが自己中心的でさえなければ、それは彼にとってかけがえのない真実であり、ありのままでも美しいこの世界。





2015/04/10

慈悲


近所のお不動さんを修復した。出逢ったときから右の顔面が壊れていて、気になっていたのだけど、いままでなにもしなかった。去年、左目をケガしたのだけど、あれはお不動さんが注意しろよ、と教えてくれていたのだと思う。鏡で見ると同じ場所だから。聞き取れないような小さな声で、いつも教えてくれていたのに、注意しなかった。確かに聞こえていた沈黙の声を、聞き流していた。幸い大事には至らなかったのは、お不動さんの慈悲なのでしょう。へたな修復ですが、遅れてすいませんでした。(後で知ったのだけど、その日はお釈迦様の誕生日だった)


2015/03/29

色彩論②


夜の散歩。まだ咲ききらない夜桜が、月の視線を受けて桃色めいていた。

夜が暗く、昼が明るく。空が青く見える理由や、夕暮れがなぜ赤いのかは、調べればわかる。でも光の波長という知識だけで、空の青さや、夕焼けの赤みや、藍色の闇の奥深さや、花の紅に感じいる心の機微を、説明することはできない。色は感情を持っている。感覚として捕らえている色については、自分で自分を照らしてみないと、ほんとうのところはよくわからない。

ニュートン光学に反証する形で、ゲーテは約二十年の歳月をかけて色彩論という大著を書き、その意志を継いだシュタイナーがさらに詳しく色彩の本質を書き残した。実験によって数値に置き換えられた自然は、もはや本当の姿を失っていると、警鐘を鳴らした。色彩論では、色彩とは光と光ならざるもの対立(結婚)、光と闇の境界線にこそ存在すると説き、闇そのものの存在を重視し、色彩現象の両極を紡ぐ重要な要素として考えていた。もし世界に色がなければ、どれほど寂しかろうと思う。人が感情を持ったそのときに、世界に色が広がったとも言えるだろうか。


色とは、今まさにこの瞬間の生命の証(照)明という気がする。作品を色のない形で残そうとする表現者の想いも、そこにあるのではないだろうか。過去や未来には色がない。でも永遠の相がある。過去にも未来にも属することができないこの消失点、vanishing pointにだけは、光があたる。宇宙からの恵み、慈しみだと思う。

東洋的には色はしき。物体であり、物質のこと。表面に見える色だけではなくて、物体の内から輝く色(光)のことも含まれている。見えているものだけが色ではなくて、内面から引き出されるような見えない色もある。色即是空 空即是色。色のない世界とは、空(くう)のことだろう。


2015/03/08

沈黙の声


呼ばれたような気がして猩々の森に。

森の前の河原に、元禄時代の古い墓碑が転がって倒れていた。捨てられたのか、濁流に運ばれたのか。可哀相になって、砂場の脇に運んで、立てて、手を合わせた。それから森でスケッチして、帰ってから家の前の河原で犬と遊んでいたら、川べに白い球体が。卵かなと思ったら、石のように固い。でも石でもない。なんだかわからないけど、霊(たま)なんだろうなと思った。

猩々の森はこの山里の死角にある。道路からは見えないし、ちょっと遊びに来た人が見つけられる場所ではなくて、地元の人も知らないと思う。わかりにくい獣道なのに、トンネル工事が始まって、道が完全に閉ざされて結界がかかっていた。迂回してここに行くには川を渡る必要があるが、雨が降ると渡ることはできない。

森に入ってすぐに、頭上で大きく鳥が鳴いた。

聞いたことのない鳴き声だった。しばらくして以前から感じていた視線が、ヒノキの枝痕だったことに気づいた。樹には目がある。それに気づいてから、驚いた。ここはヒノキの植林の森なのだけど、枝痕は恐るべき数だった。無意識はそのことを知っていたのに、気がつくのに今日までの時間が必要だった。枝痕は無意識と見つめ合っていた。

何枚か写真を撮るのだけど、広い場所なのに、いつも必ず同じ立ち位置で撮ってしまう。すこし角度を変えているだけで、ほとんど同じ場所を撮っている。このことは自分でもうまく理解できない。その視線の先には時空が裂けたような真空があって、超自然的ななにかが関与して、此方と彼方の通路を開いているような。そこでなにかと繋がる。根拠はないけど、精霊だと思う。そのときはよくわからないんだけど(いつもそうだ)、しばらくしてその体験が、沈黙の声として、ゆっくりと言語化して意識に浮かんでくる。

memento mori

こういう体験をすると、頭では理解できない宇宙のはたらきが、自分を生かしていることがよくわかる。


2015/02/27

根崩れして倒れていた巨木を切った。45度の急斜面の、誰からも忘れた薄暗い森のなかで、よくもここまで耐えて生き抜いたものだと感心した。なんの木かはそのときはわからなかった。だからこの巨木に名前はなく、木のような顔をしているなにかだった。消えかけた年輪は150以上はあった。百年を越えている樹に刃を入れていると、なにかがこちらに向かって流れてくる様子がはっきりわかる。ありがとうと言っているように思った。それはこちらの台詞なのに。

巨木との出会いという内なる響を、私の中で言葉(樹の声)に変位させているのは、人間の通常の力では洞察できない、深い魂の働きなのだろうと思う。響そのものは実体がなく、人間というフレームの外から流れてくる。フレームの外を確認することはできないのだけど、音源の実在を世界(フレームの中)に感じとることはできる。

人間の視界(意識)から抜け落ちてしまう風景を、おそらく無意識は拾い集めている。そう思わせる経験が、いくつかある。風景が連続した時の積み重なりだとしたら、不自由な人間の目では追いきれないページがある。その抜け落ちたページで物語全体を語ることはできないけれど、拾い集めた風景を自分の時間で再構築すれば、フレームの外へと誘う力にはなりえるのだろうと思う。メルロポンティがセザンヌの絵を、まるで別の惑星の生命体からの視点のようだ表現している。絵画とはそういうことだと思う。意識には上らない風景を、記憶の向こうから取り出してフレームにおさめている。

まるで読み解かれるのを待っている本のように、風景は連続している。一度読んだらおしまいではなく、すぐに手が届くような場所に置いて、何度も何度も読み返す値打ちがある。

彼の名前は欅(けやき)だった。

刃を入れたときに独特の香りがしていた。後で調べてみて、欅と呼ばれていることがわかった。飾り台にしている丸太に顔を近づけると、つんと香りがする。近づけば香る。離れれば香らない。絶妙な間を置いて、物体の周りに香りが浮遊しているという状態は、人間の気配のようにいかにも不思議で、まるで見えない花が、樹(心)に宿っているような神秘性がある。

じつは巨木に寄り添うように生えていた杉を倒したときに、頭上から大きな枝が落ちてきて、顔面に直撃した。一瞬だけホワイトアウトして、鼻根部(目と目の間)が切れて血が流れて、あれから何日が過ぎたろう。今朝、鏡を見て、やっと消えはじめたその傷を見て、あの寄り添っていた杉のことを、ふと思い出した。あの杉は、欅を花のように思って、嫉妬したのだろう。

森のなかに一人でいたり、山に登ったり、川を見つめていたり。そういうときは一人なのだけど、一人じゃないという気がする。それは既に其処にある自然がそう感じさせるのだと思いこんでいたのだけど、ほんとうはそうではなくて、ある層(ゾーン)に意識が入るからなのかもしれない。大勢の人たちに囲まれていても、ふとした瞬間に、ひとりで森の中にいるような気持ちを抱えてしまう人は、いるだろうと思う。ゾーンに入ると、そういう意識体と空間を越えて繋がる。だから一人でも、一人じゃないという霊感を受けて、その感覚が鏡のようにまわりの風景に影響を与えて、世界の見え方が変わってしまう。

山に登っている人は、山を見つめている人たちと繋がっているだろう。海を見つめている人は、海への憧れや、広い心に繋がるのだろう。雲のように繋がったりちぎれたりする層(ゾーン)の存在は、あらゆるものが繋がったひとつのものという実感を、風景に託してその人に伝えている。

『自然は万物に美しい装いをさせ、生命を吹き込み、これをよしとすることができるのであって、例え個々のものは意識も持たず意味もないメカニズムに支配されているとしか見えなくとも、より深く見透かす目をもってすれば、個々の偶然の重なりや連続に、人間の心と見事に共感するものが見えてくるのです』Novalis

『空の中には何ものも存在しない。しかも、あらゆるものがその中から出て来るものである。それは鏡のようなものである。鏡の中には何ものも存在しない。だからこそあらゆるものを映し出すことが可能なのである』中村元「龍樹」




2015/02/14


無性に海が見たくなることがある。

誰もいない砂浜で、ぼんやり海を見ていると、なにも考えられなくなってきて、私が海を見ている、という状態から、私を通して、(なにものかが)、海を見ている。という経験に変位する。海が私を見ているのか、私が海を見ているのか、そんなこともわからなくなる。私を媒体にして、なにかが海と交流している。そんなふうに思わせる力が、海(波)にあるのだと思う。

太陽の破片が煌めき、波打ち際で慌ただしく小鳥が走る。そのかわいげな足跡を、波が静かに打ち消していく。そんな風景が、ますます自分を透明にしてくれる。海は生と死。時の流れそのものという気がしてくる。波の満ち引きと深い呼吸が重なるころ、忘れかけていた小さな生命が、繋がりを求めて戻ってくる。私のなかで考えていた神々が、詩聖(詩性)を通して囁いていたのは、新しい意識の創造についての話だろう。


2015/01/05

剣の徴

2015年、元旦の初詣は焼山寺に。路面が凍結していたので、へんろ道を歩いて登った。熊野古道によく似ていて、道は険しいのだけど、風情があって、吹雪の舞う荒道は、厳しくて美しかった。こういう機会がないと通ることはなかったので、お大師さんにこの道を行けと導かれたのだと思う。整備されて固くなった道路ではなくて、昔の人と同じ目線で山を知ることで、信仰の本質を考えさせられた。深くて豊かで、とてもいい山だと、あらためて思う。ここに寺を建てようよと願う気持ちを、身近に感じられたような気がした。

翌々日(1/3)、屋根の修理をしていて、不注意で足を切ってしまった。傷が深く、筋肉まで切れていたので、しかたなく中央病院の救急医療センター(ER)に。二層縫いで、皮膚の層は九針。たいした傷ではないけれど、しばらくは歩きづらいので、怪我をする前に初詣できたのは幸運だった。それにしても去年に続いて、ERにお世話になるとは思わなかった。いままで病院にはほとんど縁がなく、手術も入院もしたことはなかったし、皮膚を針で縫ったことさえなかった。神山に来てからは風邪もひかないし、病気もない。内(生命)は元気なのだけど、なぜか思いがけない外傷が続く。なんかあるのかなと思っていて、家人に言われて気づいたのだけど、今年は数えで厄年。去年は前厄。気になったので調べてみたら、厄年の起源は中国の陰陽道。吉凶占いを元にして、安倍清明が平安時代に拡めたと言われている。厄とは役。こちらの字感の方が腑に落ちる。なにかの役が見えない世界から、この年に徴(しるし)として与えられているとしたら、それが傷みや災いだとしても、恐くはない。たとえどんなことでも、その人にしかわからない、なんらかのメッセージなのだから。

僕はこう思う。ふたつの傷は、いずれも日本刀がかすめたような傷。剣(山)の透明なエネルギーが、時空を越えて命に触れたのではないかと。そんなふうに考えると、小さなこの傷が、なんだか誇らしく思える。