2016/11/28

永遠の花

そろそろ寒太郎がやって来るというのに、明王寺のしだれ桜を描きはじめてしまった。おそらく大楠が呼んだのだと思う。お互いを素描してよくわかったけど、宇佐八幡神社の大楠と明王寺のしだれ桜は、タンベラマン(気質)がよく似ている。花が咲くと一気に印象が変わるけど、今の時期の桜の古木を見ていると、それはよくわかる。樹々にはそれぞれの性格があり、気質がある。性格が違っていても、気質が似ていると、惹かれあう。

樹々は人間のようには動けないけど、想いは持っている。明王寺のしだれ桜は、春にだけ、大楠に手紙を送る。白い花弁に乗せた想いを、風が受けとり、運んでくれる。人間はその想いの破片を見ている。花は散らないと、その想いは届かない。

人間が目で見ている破片は、それだけでは想いを成さない。散らばった破片を、丹念に拾い集めているうちに、いつのまにか孤立していた断片が、見えない世界の全体に吸収されていく。その変化は音楽によく似ている。喜びに溢れていたり、どこかもの哀しい。

哀しいけれど救いはある。残酷だけど愛に溢れている。言葉のないはずの旋律に、話しかけられているように感じられるのはそのせいで、動物のようには動けない樹々や草木や花は、人間を通して、その想いを託している。虫や動物が無自覚に種を運ぶように、人間は秘密の手紙を託された、風のようなものなのかもしれない。

雨上がりの明王寺、葉が落ち切ったしだれ桜の古木は、禍々しいほどの静寂に包まれている。横に伸びすぎて、棒で支えられた両手は、磔にされたキリストのような雰囲気がある。なんとなくひいたおみくじには「波のおと 嵐のおとも しずまりて 日かげ のどけき 大海の原」と書かれている。帰り道の、宇佐八幡神社の大楠の横で、小さな子猫が歩いてきた。とぼとぼ歩くトラ猫は、後ろから来た軽トラを通せんぼしていて、困ったなあという顔のおじさんと目があって、お互いに笑った。子猫はこちらを見て、ニャッと吠えた。ときどき見かけるあの猫は、きっとなにかの使者だろう。

いろいろな大樹を見てまわったけど、桜の妖気は抜きんでて強い。古の歌人や画家が、のめりこんでしまう気持ちは、よくわかる。何百年と生きてきた大樹のほとんどは、話しかけてもはぐらかされるというのか、人間なんて眼中にないよ、という飄々としたところがあるのだけど、桜は絡みつくというのか、後ろ髪を引かれてしまう。

明王寺はイーゼルを立てるような環境ではないので、あらかじめ取っていた素描を頼りにして、桜の絵を描いている。ときどき現場に印象を確かめに行くと、枯木には満開の花が咲いている(ように見える)。見えているから、わからなくなることがあるように、見えないからこそ、はっきりしてくることがある。

美しいものは、誘惑する。暗くて深くて、底のない河に。表面に見えている、社会とか経済とか、そういう流れとは別に、時間を超えて存在している、大きくて深い河がある。暗すぎて見えないその河に、ひとひらの花びらが流れている。枯木は厳しい冬を迎えて、夢を見ている。その夢には、永遠の花が咲いている。


2016/09/30

彼岸花

彼岸花が満開になった。うちの周りはなぜだか白が多い。白い彼岸花の花言葉は「想うはあなた一人」「また会う日を楽しみに」。

ある日、誰かに根こそぎ持っていかれたらしく、散歩道のすべての白い彼岸花があった場所には、いくつもの穴が開いていた。花は自分で移動することができないから、人間を誘惑して、もっと広い場所に引っ越したのだろう。

すこし寂しいのだけど、国道からは見えない、急な坂道のてっぺんにある小さな野原の、白い彼岸花だけは無事だった。目立たない場所でこっそり咲いていた花々は、止まることのない川の流れを見下ろしている。国道からは見えないこの場所なら、花は安心して咲くことができる。小高い山路の白い花々の佇まいには、土地神さまに選ばれたような特別な雰囲気がある。

誰からも見えないようなキラキラした場所に、内なる花は咲き、精霊は宿る。白い彼岸花が咲く頃だけは、いつもの散歩道を延長して、この坂道を登ることにしようか



2016/09/03

霊性と礼節


「人間の進歩にとって特別重要なのは、畏敬の感情を持つことである」rudolf steiner

暑い日は頭がぼぉっとして制作がはかどらないけれど、ギラギラした山川草木から霊感を預かることができる。ヒグラシの波が夢と現実の境目を消すと、彼岸から思い出が歩いてくる。

どうやらコオロギが家に迷いこんでいるらしく、暗くなると鳴きはじめる。淋しそうなので逃してやりたいのだけど、どこにいるのかよくわからない。何処にあるのかよくわからないような記憶が、真夜中を淋淋と歩いている。

ある日、いつもの瀧の入り口に、東京ナンバーの車があった。道中でなんとなく感じていたイメージが、的中した。瀧の手前の巨石の下で、家族がピクニックをしている。水着の子供がスイカを食べている。たぶん泳いだあとだろう。いつも手を合わせている瀧壺の前には、派手な浮き輪が重ねておいてある。楽しそうにスイカを食べているその岩場は、以前、崖が崩れた場所のすぐそばだった。

場所には雰囲気というものがあり、土地にはそれぞれのカミサマが宿っている。行者が瀧に打たれたり、お不動さんが怖い顔をしているのには理由がある。この瀧壺には、命を預けている人しか入ってはいけないような神聖な気配がある。それがこの家族にはわからないのだろうか。自分のことだけしか見えてない。気持ちよく泳げる場所ならここに来るまでにたくさんあるのに、計画を変更できない。目的に縛られている。

よくもまあこんな美しい場所で、浮き輪で泳いでスイカ食べてなんて発想が出てきたなと思う。一目惚れしてしまって、なんどもなんども数えきれないほど通いつめて、そうやって大切に育ててきた瀧との絆が、遠方からやってきた無神経に汚されたような気がして、夏休みだからまあいいじゃないかとは、思えなかった。

頭に血が昇っているから、腹を立てたわけじゃない。同じ人間だから哀しかった。遠方から美しい場所を求めて余暇を過ごすのは、ほんとうに素晴らしいことだと思う。ただ視点が一方向だと思う。自分が、自然を、見ている。だから霊性から切り離されて、目に見えないことに気づけない。

地盤が脆いこと、谷が深いこと、流れが強いこと、すぐそばでマムシが生活していること、子供が泳ぐには危険が多すぎること。霊性が途切れると、そういう周りの機微を、感じることができなくなる。だけど瀧は自分だけのものじゃないのだから、長居をせずに山を下りた。

山を下りながら、そこはかとなく哀しい気持ちになっていたら、そんな小さなことを気にするなと、水の精霊に話しかけられたような気がした。この声は、おまえにしか聞こえないから。と精霊は言った。かつてこの瀧で心身を清めた行者や、水を飲みに来た獣なら、この沈黙が聞こえたのかもしれない。




2016/07/09

土砂崩れ


陽射しが強かったので瀧に向かったが、登りはじめると雲がかり、急に薄暗くなった。道中で謎の背骨を拾ったり、大きな青大将が横切った。思い返すとそれが前兆だった。水が出ていて身体が濡れてきたので、そろそろ帰ろうと思ったら、発砲音のような、なにか弾けるような音がして、川向こうの崖が、土煙を上げて崩れた。

身の危険を感じて、慌てないで山を下りた。落石や土砂が清流を汚して、泥のような川になっていた。もしも対岸ではなくて、こちらの崖が崩れていたらと思うと、ぞっとした。道中でこう思った。誰かが守ってくれたんだなと。

山を下りるとまた晴れてきた。陽光がもたらしてくれる、理由のない安らぎに身を委ねながら、あれはなんだったろうと振り返っていた。目の前で土砂が崩れる確立は、雪崩に遭遇する確立と同じくらいだろうか。

今こうやって生きているのは、宇宙に生かされているから。自分一人では、朝起きることも、呼吸をすることもままならない。人間が内的霊性を失って、生物界の頂点のような顔をして、外的世界を都合よく解釈していると、いつか痛い目に遭うだろう。

土砂崩れがトラウマになってしまったのか、それとも暑さで朦朧としているだけのか、後日の瀧への道中で、妙に繊細になって、変性意識状態になっている自分に気がついた。さっきから誰かがついてきているような気がするし、大きな赤い蝶が横切り、緑色の物体が空中に浮かんでいる。

そういう気がするというだけなのだけど、見えていないとは言い切れないし、空想を越えたリアリティが迫る。山を下りると普段通りになるので、場のエネルギーや天気が自分の状態を変えている。山の神気に触れていると、次元がひとつ増えたような気がしてくる。言い換えると、自分が自分(自由)を見ている。

瀧壺が急に薄暗くなる。浮遊する飛沫のなかに、雨粒が交じっている。ゾッとするような神気を感じて山を下りた。家に帰ると激しい雨、二匹の犬が雷鳴に怯えて、暗い場所を探して震えている。

神気と霊気(inspiration)はよく似ている。充満している万物の気配に、ある条件が重なって霊気を帯び、放電した霊気が根元に近づくと神気になる。 自然だけではなく、芸術作品にも神気を帯びているものがある。極端に強いものに触れると鳥肌が立つ。無意識に組み込まれているチューナーが、宇宙との出逢いを受信している。

人間(大人)は安全な場所にさえいれば雷鳴を怖がらない。自然の科学的な仕組みを把握して、対処方法を心がけて距離を作っている。身を守るために、なんだかわからないものに距離を置いて武装しているうちに、死を恐れ、同じ人間同士でさえ恐れるようになってしまった。

道路に獣が倒れていた。草むらに運んだ。何回運んでも、慣れることはない。車にはねられたハクビシンの体毛と、瀧壺に落ちる木漏れ陽は、同じ太陽の色だった。

人間も自然の一部なのだから、畏れや愛は心のなかにあるはず。こんなはずじゃなかっただろ?と、誰かに問いかけられているような気がする。

2016/06/01

龍の門

『お前は無限を押し戻すことさえできて、無限はお前の生長によって作られているに過ぎない。地下の墓から梢の鳥の巣に至るまで、お前はすべての「認識」を自分に感じることができる』
ポール・ヴァレリー「蛇の素描」より


瀧壺は飛沫が激しくて、岩場にイーゼルを立てることもできないけど、やや引いた遠景なら、なんとか草むらに立てることができる。人が登って来ない短い時間しか描かないけれど、瀧は強烈なので、肌で感じてさえいれば、印象をそのまま持ち帰ることができる。印象を持ち帰ることができるのは、無意識が空間を距離ではなく、意識体と捉えているからだと思う。

人間は人間のフレームでしか物事が見えないので、なにかを表現しようとすると、たちまちフレームの中に閉じこめられてしまう。それは宇宙に果てを求めてしまう感情に、よく似ている。人間は観測できない(見えない)から、なにもない、とは考えない。空間と意識が繋がっているからだと思う。

瀧への細い山道で、二日連続で蛇に出逢った。一匹目はツチノコのような、二匹目はマムシだった。いずれも道をふさぐように寝ていて、マムシはなかなか通してくれなかった。瀧は龍の門、道は蛇の轍、きっとなにかの徴(しるし)だろうと思う。

平日はほとんど人が来ない山だけど、まれに登山者と出逢うことがある。瀧で出逢ったことはないけど、そろそろ帰ろうかなと思って、山道を降りはじめてすぐに、登山者とすれ違う。あれは不思議なタイミングで、たぶん無意識が、人が登ってくる気配を察するのだと思う。頭ではそんなことができるわけないと思うことを、無意識はやってのける。無意識にとって空間は意識体だから、時間や距離は関係ない。

高い岩場に囲まれている瀧壺には、直接光が入らないと思いこんでいたけど、陽の高い午後のある特別な時間にだけ、奇跡的に木漏れ陽が射しこむことを発見した。瀧壺を泳ぐ光は、産まれたての星のように、乱反射する宇宙の夜のなかで、キラキラと輝いている。たった一度だけ、虹を見たことがある。何度通っても、その一度きり。あれは天の影だろう。

もののあはれを知ると、頭で考えられるようなことって、たいしたことないのだろうなと思ってしまう。感覚の束のような身体が捉える無意識の絆が、まるで流星のように、宇宙の夜を一瞬だけ金色に輝かせる。



2016/05/17

精霊の森③


森に運ぶことができる最大のサイズのこの絵は、描きはじめてから二年くらい経っているような気がする。初めて屋外で描いた作品なので、思い入れがある。なかなか絵が進まない原因は、自分ではよくわかっている。

季節や時間によって、風景は移り変わる。だから気の向くままに制作していると、画面は常に破綻する。その破綻を修正するのに、同じ時間だけかかる。それを繰り返してるから、完成しない。画布の下には凸凹とした無為な時間が埋もれている。写真には映らない、森と光に向きあった思い出の地層が、足踏みしている色の下に沈んでいる。

アントニオ・ロペス・ガルシアは、グラン・ピアの夏の夜明けの光を描くために、毎日早朝の地下鉄に乗り、わずか2~30分の現場制作を7年間続けた。風景を巻きあげてしまうくらいの、魂の渦を宿したゴッホの力なら、一日でこの森を仕上げただろう。時間の使い方は魂の在り方によって違う。

最近、仲よくなった地元の人に、哀しい出来事を聞いた。その人が子どものころ、生活苦に耐えかねて、森の入口の祠の樹で、首をつった人がいたらしい。そういうことは、昔は珍しくなかったという。ただその人は、制作に通っている森のことまでは知らなかった。低い山の頂上にある祠から、この森に繋がる道は、草がボオボオに生えていて、わかりにくい。もういないけど、はじめてこの道を通ったときには、スズメバチがこの森を守っていて、簡単には近づけなかった。

頂上の小さな祠は、到達点ではなく、ほんとうは通過点。だからその奥に向かって、進んでほしかった。この先の森の美しさに包まれれば、苦しみが消えたかもしれない。この森は人生の終点ではなくて、はじまりも終わりもない場所、至る道は案内もなく、草むらに隠れている。

その話を聞いてから、すこし森に行くのを避けていたのかもしれない。祠の前の、それらしい樹に手を合わせた。樹は哀しそうに、でも微笑みを浮かべた。それから赤いハンモックの前にイーゼルを立てると、気の早いセミが鳴いた。おかえりと迎えられたような気がした。終わらない絵の上に、新しい色が帰ってきた。

2016/05/04

剣の夢




不思議な夢を見た。剣山の山頂の神社から、大きな蛇のような生命体が、石段を壊しながら、うねうねと山を降りている。最後まで姿を見せなかったけど、あれは地中に潜む龍だろうか。

最近は導かれるように図書館で手にとった、アボリジニの本のなかに出てくるドリームタイム(夢見)という言霊に、憑かれている。もちろん夢見とは、寝て見る夢のことを指しているのではなく、もっと広大な時間を現している。

遅読者なので、貸し出し期間を延長して、やっと最後のページまで辿り着いたのだけど、夢見というのは密教のような性質があって、言葉だけでは語り切れない。夢見が集合無意識や神話世界とも言い切れないのは、それらもすべて物語に含まれているような気がするから。宇宙以前にドリームタイムがある。ビックバン直前の、なにもないはずの真空に、はじまりも終わりもない世界があって、私たちの先祖はそこにいて繋がっている。

精霊は大地に根付いている。彼らは描くことを通して、精霊と繋がる。ウングワレーの絵を見たときに感じた強烈な違和感の理由が、いまはよくわかる。近代的な空間とアートの文脈のなかで、繋がりを絶たれてしまった精霊の行方を、いままで探していたのだと思う。そしていままでもいまもこれからも、探し続けていくのだと思う。宇宙の可能性と生命の繋がりを求めて。

アボリジニがなにより大切にしている情緒は、思いやりである。アボリジニにとって思いやりの心とは、倫理を越えたものである。それは環境に寄せる共感や感情移入の集大成ともいうべき感情なのだ。(ロバート・ローラー著「アボリジニの世界」より)

なぜなら、怒りが怒りによって癒されることはなく、怪我が怪我によって癒されることはなく、憎しみが憎しみによって癒されることはないというのが、この世の真理だからである。怒り、怪我、憎しみを癒すことができるのは、ただ愛だけなのだ。(仏教経典「ダンマパダ」より)

P.S

徳島城公園にある竜王さんのクスは、地中から天に向かって飛び出そうとする、龍の腕のような形をしている。樹齢600年のこの大樹は、1934年の室戸台風で、一度倒れてしまった。でも人の一生ほどの長い時間をかけて、這いあがるように、逞しく生きている。何十年ぶりにここに来て、ああそうかと、腑に落ちた。

いつか見たあの夢が、現実にある場所に繋がった。大きな樹の下には、大きな時間がある。剣山から降りてきた大蛇は、地中の暗闇を泳いで、この場所に出た。地上の光を浴びて龍に生まれ変わり、きっと天に還るのだろう。そしていつかまた戻ってくる。夢と現実は繋がって輪廻している。精霊はけして姿を見せずに、風景として暗示されている。


2016/04/17

緑の季節

春の嵐が過ぎ去って、夏のような強烈な陽射しが、風景を白色矮星のように発光させている。メダカの水面から反射した光が、磨りガラスに炎のような渦を描いている。昨日(2016.4.16)は海にいた。あの日(2011.3.11)もそうだった。海は呼吸している。自分も呼吸している。海と自分の呼吸が重なると、世界との境界が消える。

アボリジニの画家、エミリー・カーメ・ウングワレーの図録を眺める。

2008年に国立新美術館で、ウングワレーの展覧会が開催された。はっきり覚えていないのだけど、誰かにチケットをもらったか、誘われたかで、彼女の絵を見た。めったに展覧会には行かないし、積極的に自分から見たかったわけではないのに、とても記憶に残っている。なぜだか強烈な違和感があって「この絵はこのような近代的な空間にふさわしくない」と思った。「こんなところに置いてはいけない」と思ったのは、仏像以外でははじめてだった。

作品はプリミティブ過ぎて、正直言うと、なんだかよくわからなかった(準備ができていなかった)。でもなぜだか事件のように、行ったことだけはよく覚えている。彼女の魂が、アボリジニの文化もよく知らなかった自分に届くのには、2008年から2016年という8年間の時間が必要だった。78歳から描きはじめた、彼女の三千点以上の作品を残したその時間も、およそ8年間だった。

そういうことはよくある。そのときはわからなくても、記憶は待っていてくれる。もしかしたら未来の自分(現在)が、そのときの自分に、興味がなくても見に行くように、手配したのかもしれない。

彼女の絵は外に向いていない。内側を歩いている。その内側は外よりも広い。一見大胆だけど、静かに慎重に歩いている。けして物語を離さないように、注意して綱渡りをしている。彼女はモネもポロックもロスコも知らない。美術史の外からやってきた。アボリジニの大地からやってきた。

彼女は自ら望んで画家になったわけではなく、偶然に与えられた機会が、彼女に絵を描かせた。画布も絵の具も絵筆も、すべて与えられたものだった。パレットはなく缶のまま、絵筆のかわりにゴムサンダルを使うことさえあった。しかし彼女は与えられたものに満足し、それを自在に操って作品を描き続けた。描くことは楽しみでもあると同時に、生きることそのものだった。作品を売って得た現金は、そのままアボリジニのコミュニティの生活を支えた。

最晩年のモネのような「大地の創造」は、雨季の後に訪れる、彼女が"緑の季節"と呼んだ時期に描かれた。美術館で見たはずのこの絵のことを、僕は覚えていない。ただ見ただけで、出会っていなかったからだろう。でも慎重に物語を歩いて(ドリーミング)いけば、いつか思い出せるような気がする。嵐が過ぎた雨上がりの、キラキラ光る緑の季節に。

写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創造」1994/キャンバスにアクリル/275×160cm×4
参考 エミリー・ウングワレー展図録


2016/04/01

ドガ・レイン・デッサン


朝から浮世絵のような雨。春雨だから、気分はいい。陽光は心を温めてくれるけど、雨音は心を静めてくれる。数日前に届いた、ドガの画集を眺める。晩年の彫刻作品になると、手が止まる。デュシャン以後の発注アートではなくて、ドガやアントニオロペスガルシアのような、絵画から彫刻に移る、手探りのような自然な流れに惹かれてしまう。

夏の夜にヘッドライトをつけて走ると、小さな蛾が白く発光して顔の前を横切る。一瞬だけど、大きな羽根をつけた踊り子のように見える。ああいう一瞬を追いかけて形にしたら、ドガの彫刻のようになるのだろうな。

ドガの絵を見ていると、シューベルトかリストを聴きたくなる。ショパンほど甘くなくていい。セザンヌはバッハ、ゴッホはベートーヴェンを聴きたくなる。光が音を誘い、音が色や形を暗示している

ドガは目に病があって、直射日光に耐えられず、屋外製作ができなかった。自分も小学生の頃、炎天下で外にいると、白く視界が狭まって、頭痛が起きることがあった。幸いもう症状はなくなったけど、視界が両端から白く染まっていき、これから頭痛と保健室に行くことが確定したあのときの、現実が離れていくような、なんとも言えない憂鬱を、よく覚えている。ああいう憂鬱のなかにも、永遠に続きそうな、安らぎの溜まり場のようなものが、あったのだと思う。だから記憶にしおりを挟んだように、よく覚えている。目に見える世界が、中断する。考えただけで、恐ろしい。だけどその先に、中断されていなかった世界が、今に続いているような、どこか懐かしい連続性がある。

降り続く雨のような、憂鬱だけど、過ごしやすい。自分の思うようにはならなくて、つらい。でも、なんだか気分は悪くはない。なんの根拠もなく、小さな勇気のようなものも湧いてくる。強くはない。どちらかというと、臆病だ。道の先に、なにがあるかわからなくて不安、でもその不安定に、足が進む。それでも生きろと、柔らかい野風が、背中を押す。

なにかを諦めたはずのに、なにかを手に入れていたような、そういう自分でもよくわからない、矛盾した気持ちが、視界を消していく、あの白い靄の奧に向かって、渦のようにまっすぐに伸びていく。その渦の向こう側には、まだ形にはならない幽体が、こちらに向かって発光している。

「ドガは常に自分の孤独を感じ、また孤独さのあらゆる形態によってそれを感じていた人間であった。彼は性格から言って孤独であり、彼の性質の気品と特異さとによって孤独であり、彼の誠実さによって孤独であり、彼の厳密さと主義や批判の不屈とによって孤独であり、彼の芸術によって、すなわち彼が自分自身に要求したことにおいて孤独であった」ヴァレリー

「なにも知らないうちは、絵を描くことはそれほど難しいことではない。しかしいろいろ解ってくると、そうはいかないんだ」ドガ

彼が抱えていた孤独の色は、僕には見えない。でも彼の描いた踊り子や馬には、憂鬱や倦怠を凌駕する、それぞれが放つ、一輪の花のような色気や、誰にも譲れない矜持がある。微熱を帯びたように、なんとなく見ているこちらが、ぽおっと心が温かくなるのは、魂の孤独や憂鬱が、まっすぐに伸びた時間の渦をくぐって、彼岸から発光しているからだろう。その光が熱になって、雨に濡れた霊魂を温めている。

「本質的な芸術家というものは、彼の芸術に憑かれているのである

「作品が作者を修正する」

ヴァレリーの言葉に寄り添うなら、彼の魂を支えていたのは芸術神であり、一人の踊り子であり、一匹の馬であった。

「鉛筆を手にせずにして或る物を見ることと、それを描こうとして同じ物を見ることとの間には非常な相違がある。というよりも、我々はその場合、二つのまったく異なったものを見ているのである」

「我々は、その形をいままで知らないでいたのであって、それを本当に見たことはまだ一度もなかったのを感じる」

数えきれない雨粒が、川の音に合流しながら、目で追えないような速さで、乾いた世界を濡らしている。この雨を追いかければ、小さな蛾が、一瞬だけ踊り子に見えたあのときのように、まだ一度も見たことがなかった秘密の世界を、感じることができるだろうか。

参考「ドガ・ダンス・デッサン」ポール・ヴァレリー
写真 Edgar Degas (1834–1917) Little Dancer Aged Fourteen,

2016/03/27

彼岸に咲く花


梅が散り、枝垂れ桜が咲くころに、涅槃桜が散りはじめる。そのころ山桜は、山に寄り添い、自然にそっと、咲いて散る。家からは、山桜と枝垂れ桜の、両方が見える。迫力があるのは枝垂れ桜だけど、自然のなにげない時間を感じるのは、山桜の方かもしれない。

咲きはじめの桜の樹は、あけぼののように、ぽぉっと赤く染まっている。遠めから見ると、赤い発光体のように見える。やがて年をとるように白く染まっていく。こちらもぽぉっと見ると、桜は名を失い、花を越える。花を越えて見ていると、こちらが発光したような気がして、赤く染まる。

たまたま桜と呼ばれているなにかが、私のなかに入って、発光している。満月が夜道を照らすように、春のあけぼのが、心の暗い場所を照らしている。

世阿弥の能楽、西行桜において「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎(とが)にはありける」(美しさゆえに人を惹きつけるのが桜の罪なところだなあ)と歌を詠む西行に対して、夢枕の老翁は「桜の咎とはなんだ?桜はただ咲くだけのもので、咎などあるわけがない。煩わしいと思うのも、人の心だ」と西行を諭す。老翁とは、桜の精だった。

枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影している人はたくさんいるけど、たまたま川の向こう岸に咲いている山桜に、カメラを向ける人は、一人もいない。同じ花でも、気づかれる花と、気づかれない花がある。でも花は、人がいてもいなくても、ただ咲いて散る。花の精霊は彼岸に咲く。此岸からは届かない場所にいる。




腑に落ちる


カムイが制作中に、足下にふっと来て、渦のようにくるくる回って、ストンと丸くなって、そのまま眠ることがよくある。場所によってはとても作業がしづらいのだけど、一連のその様子が妙に腑に落ちるというのか、はじめからそこにいたような、運命的な安定感があって、ブラックホールのようなその黒い影を、動かすことができない。

腑に落ちるというのは、からだのなかで同時性が起こってるのだと思う。なんとなく、はっきりした理由がなくても、外側と内側がシンクロしていると、腑に落ちる。きっと人間なんて眼中にないような、宇宙の時間に波長が合うと、共時性(同時性)が起こるのだと思う。川の音、春の陽射し、小鳥の声。フレームの外にある自然の営みや事物が、グラデーションを整えている。

風に舞う花びらを数えるように、はじめからそこにあったような、なんとも言えない気持ちを拾い集めると、一枚の絵ができるのだろう。

2016/03/18

鍬を持つ男


雨を含んで土が柔らかいうちに、新調した鍬で畑を耕した。土に触れていると、世界の深みに、コミットしているような気持ちになる。暗黒の地下世界に、ピカピカの鍬の刄を入れて、埋もれていた本質を、雑草もろとも根こそぎ掘り起こす。ひと休みで空を見上げると、どこからか希望が沸いてくる。

土を耕しているときは、いつも野菜が実っている姿を、頭に描いて行動していることに、ふと気がついた。不確実な完成形(未来予想図)が現在の自分を引っ張っているという点は、絵を描くことと共通する。表面上の時間は、過去から未来に流れているけど、頭に想い描いているイメージは、未来から現在に向かって流れている。

その未来予想図は、思ったとおりにはならないかもしれない。むしろ、思ったとおりにならないことの方が、圧倒的に多い。せっかく実った人参や大根は、猿に食べられてしまう確率が、とても高い。でも、それでもいいよと、いつもどこかで思ってる。そういうままならなさに溢れている世界の構造が、心をしなやかにしてくれる。

求めていた未来が、手に入ったとしても、結局はなにか大切なものを、犠牲にしていたり、失っていたりする。そういう力学に振り回されずに、自然から受け取ったものを共感していると、すっと自分が自分から離れて、無限の可能性を孕んでいた想いのなかに、飛翔する。土で汚れた鍬を、荒れ地に立てて、深く息を吐き、ふと見上げる空に、浮かんだ雲と、柔らかい春の陽射し。その彼方から沸いてくる、彼の小さな希望とは、もはやはばむものは何もない、感受性の、自由な羽ばたきのことだろう。


         Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas

2016/03/15

ゴッホの手紙


数日前に届いた、ゴッホの全作品集を見ていたら、去年、精霊の森で描いたものと、よく似た構図の絵を発見して、胸がときめいた。他の人から見たら、ただのこじつけでも、共時性を感じる自由は、この胸にある。1887年夏のパリにいた彼と、火傷するほど近い距離まで、魂が触れたような気がした。

共時性(シンクロニティ)が起こるときは、その流れに大いなる力が働いてるような気がして、勇気が沸いてくる。樹齢800年の大楠のうつほから、小さなつむじ風が耳の下に宿って、それからゴッホが気になった。彼の魂がこの森にいたことを、森羅万象が霊験を通して、気づかせようとしたのだと思う。

インスピレーションとは、対象(モチーフ)へのまなざしを通して、宇宙から人間に向かって、おしなべて平等に流れてくる、霊気のようなものだろうと思う。だからオリジナリティなんて、ほんとうは何処にもない。でもそのなにもない無明の宇宙に、星の火が流れることがある。その炎が、現実を揺らす。

人工衛星の破片が、火の鳥のように、空を流れるのを、見たことがある。ちょうどそんなふうに、身を焼かれながら、その黄金の光に包まれて、時間を超えていく。



2016/02/26

シンビジウム


シンビジウムという花をいただいた。東南アジア原産の蘭で、花言葉は「素朴」「飾らない心」とのこと。自分で花を買って飾ることはないので、もらうと気になってしまう。


野生の花や蕾は描けるんだけど、飾っている花は、まだうまく描けない。シンビジウムは長持ちするらしく、まだ綺麗に美しく咲いてる。一輪を残して、目に届かない場所に移した。花は霊性が強いので、長く見てると、落ち着かなくなってしまう。花に飲まれて、ありのままに見ることが、できなくなってるのだと思う。

目の届く場所に、お気に入りの骨とか石があると、気持ちが落ち着くのだけど、花はちょっとソワソワする。たぶん自分のなかに、花がないからだと思う。花が持っている霊性を、自分は持っていないから、すこし緊張してしまう。恋をしている状態によく似ている。

呼吸のように、していることを忘れてしまうような、でもしていないと、生きてはいられないような関係でなければ、モチーフは呼応してくれないような気がする。綺麗なだけではなくて、ほんとうに美しい花を描いている人は、そういう関係を築いているのだと思う

精霊の森は、たしかに自分の中にある。あの森は、五年前くらいに見つけて、二年前くらいから描きはじめた。誰も知らない秘密の森に、何度も通った。だから描くことができる。下手でもあまり気にならないし、どこか心の底で納得ができるのは、身体を通して、世界と関係(約束)ができているからだと思う。

あの森は、心のなかにある。そういう場所を、いつも探しているような気がする。都会にも、雑踏のなかにも、誰からも見過ごされて、忘れさられたような真空に、その人だけに開示される、やさしい秘密がある。精霊は、そういう場所に宿る。いつかその森に、花が咲くだろうと思う。
束の花は、いかにも豪華だけど、一輪の花の方が、ずっと気が安らぐ。気が安らぐと、話ができる。話ができると、絵は描ける。


一輪を、朝の光の窓辺に、もう一輪を、夕の光の窓辺に置いた。

花も人間も、集団より個の方が、信用できる。一輪から放たれる霊性は、不安を打ち消してくれる。一対一になれると、一体になれる。飾らない心に、花が咲く。

花(自然)が表現していることに、耳をすませていると、知覚できない存在から、なにか語りかけられているような気がする。見るものと見られるものの間に、距離や空間はなく、ただ静かで広大な時間が、そこにある。霊的な形や色を通して、その時間を埋めるようにと、なにかが心に、働きかけている。

なぜこんな形をしているのだろうか。なぜこんな色をしているのだろうか。誰にも答えられない。

2016/02/06

辻風


散歩はたくさん続けてやるように、また大いに自然を愛するようにしたまえ、というのもそれが芸術をもっともっとよく理解するための真の道だからだ。画家たちは自然を理解し、自然を愛し、その見方をわれわれに教えてくれる。(ゴッホの手紙より、ロンドン1874年1月、テオ宛て)


呼ばれたような気がして、近所の宇佐八幡神社に。いつもするように、樹齢八百年の大楠に手を触れた瞬間、ひゅるるるんと、耳を撫でるように、後ろから風が吹いた。気持ちよくて、何度か試したけど、一度きりだった。風はないけど、足下にはうつほがある。ああ、この穴から吹き上がったのだなと、直感した。それから耳の後ろに、小さな辻風(つむじ風)が、いつまでも残っているような感じがした。この鎮守の森は、本人にしかわからないような霊験を通して、なにか大切なことを伝えようとする。

今朝、森のなかで、ふとゴッホを想った。あの小さな辻風が、ひゅるるるんと螺旋を描いて、星月夜のように、耳の後ろで回転していた。渦に巻きこまれてはいけないけれど、そばにいるなら心強い。いつか自然に帰るその日まで、いろんな風に吹かれながら、自分の歩幅で歩けばいいのだと思う




2016/01/24

冬梅


『現象における自由は美と同一である』シラー「美と芸術の理論(カリアス書簡)」より

春になったら描こうと思っていた、梅の樹の前に、三つの穴があった。イノシシだろうか。ちょうどその真ん中の穴の位置から見る梅の姿が、もっとも力強く、美しい。誰にも言わなかった秘密が、獣によって掘り起こされていた。はやく来いと急かされたような気がして、イーゼルを立てた。

梅の前にイーゼルと椅子を置きっぱなしにして、朝の写生にはカムイを連れていった(空はまだ寝ている)。でも寒空の下で、無理やり付き合わせるのも、可哀想だなあと思って、一人で出かけようとしたら、珍しく激しく吠えて、抗議した。家から遠吠えがいつまでも聞こえていて、鳴き止まないのがいたたまれなくて、引き返して一緒に出かけた。寒くても外が楽しいんだよな。

カムイはすぐに三つの穴を掘り起こしはじめた。アイヌの神話によると、神の国は地下にある。犬だけは下方の世界から来た人間(魂)が、ぼんやりと見えるらしい。匂いがするから掘っているのだろうけど、あの世への入り口を、探しているような趣があって、頼もしい。

この梅の樹を植えたおばあさんは、ずいぶん前になくなったらしい。この梅の樹も、隣の空き家の寒椿も、主がいなくても咲き続ける。その人がいなければ、そこに咲くことはなかった。でもその人がいなくても、毎年健気に、花は咲く。自由に、自然に、ただそこに存在している。

タンポポが風に運ばれるように、自然にそこにたどり着いて、自立してる。周りを気にしたり、妬んだりしない。流行に振り回されたり、宇宙について考えたり、あれこれと深読みして、空回りする人間よりも、既に真実を知っている、という落ち着きのある顔をしている。でもなにも教えてくれない。聞いても答えてくれないから、描いているのだと思う。


2016/01/15

奇妙な夢をよく見る。知らない土地なのに、どこか懐かしい感じがする。解せないのは、主体が自分ではないこと。まったく知らない誰かの体を借りて、夢で体験している。知人や友人が出てくるような自分事なら、状況が破綻していても、単なる夢だけど、時代も国も違うし、場所や出来事に、思い当たることがないと、ユングにも解けないような不思議を抱えこむ


寝ているときの自分は、時間や空間に縛られない。とてもリアルで、シリアスなことが多く、脳の編集とか、空想(夢想)という感じはしない。実際にあった現実を、誰かの体を借りて、見ているような気がする。もしそうだとしたら、自分の体を借りて、誰かが夢を見ていることも、あるのかもしれない。

山や森に入ると、独りなのに、豊かな気持ちになれる。ぼぉーっとなにも考えられなくなる、その透明な時間に、いまここにはいない、どこかの誰かが、自分の体を通して、夢を見ているとしたら、それは豊かなことだと思う。

手付かずの山を登るとき、頭より先に、体が反応しているとしか、思えない場面がある。あれは運動神経というよりも、誰かが、森の囁きを通して、安全な場所に、自分を誘導してくれているのだと思う。神経はそれを感受するアンテナ。囁きは耳には聞こえないけど、体が聞いている。その聞こえない音を、精霊の声と呼んでも、さしつかえはない。

間伐をしているので、後ろめたくはないけど、樹を斬り倒すときは、手を合わせる。未来から過去へ、一瞬だけ森の時間が裂けて、その真空から、新しい風が体を吹き抜ける。(ありがとう)という声が、聞こえたことがある。それが自分の声とは思えなくて、夢を見ているような、ふわふわした気持ちになったことがある。

眠りにつくように、世界に体を貸す(預ける)と、樹木は囁く。その言葉にならないような声は、ここにはいない誰かの夢のなかで、響いているのだろうか。自然は意思を持っていて、私たちには理解できないような方法で、なにかを伝えようとする。

夢を見た。戦国時代、敵対していた、ある人を斬った。後ろから斬った。卑怯なやり方だった。でもやらなければ、やられていたから、後悔はなかった。しかし亡骸を見ていると、激しい後悔の念がわきあがり、その人が現世では、大切な人だったことに気づいた。夢だとわかっていたので、過去に戻って、その人と出会わないように、主体の行動を配慮した。すると、その人が生きている現実が現れた。しかし、既に斬ってしまった事実は消えず、二つの風景が重なって、混乱する人たちがいた。すでに起こってしまったことは、変えることができなかった。

しばらくは二つの現実が重なっていて、世界に混乱が続いたが、二人が出逢わずに、生きている現実の方に、世界の存在感(重み)があったので、斬られたはずの歴史は、バランスを取りながら、引きずられるように、大いなる時間の流れから離れて、ゆっくり消えていった。ほっとするように、目をさました。

時計を分解しても時間が見つからないように、時計の針を過去に戻しても、起こってしまったことを、変えることはできない。でも未来は選ぶことができるので、いまこの瞬間に、人生をやり直すことはできる。再生した時間に、蘇生した魂は、定められたはずの運命さえ、塗り変えてしまう。

相対性理論に基づくと、自分の時間をゴムのように伸ばすことによって、未来に行くことは可能だけど、それは光の速度に近づいた身体だけが、大いなる時間の流れから離れて、取り残されてしまうということ。取り残されて寂しいから、未来の夢を見ている。そんなことをしなくても、旅に出ることはできる。パラドックスを抱えた過去でさえ、見に行くことができる。根が過去に向かって伸びていくから、枝葉は未来に向かって伸びていく。戻ってくる現在があるから、旅に出ることができる。

死んだらどこに行くかを考えるよりも、眠っている自分が、どこに行くかを考える方が、夢がある。過去や現在や未来という座標を外すと、輪廻は自然に解消する。前世や来世を担保しなくても、時空を離れた、かろやかな魂の動きが、不思議なやり方で、どんな対象にも入り込み、いまここに輝く永遠を獲得する。言い換えると、自由になれる。