そろそろ寒太郎がやって来るというのに、明王寺のしだれ桜を描きはじめてしまった。おそらく大楠が呼んだのだと思う。お互いを素描してよくわかったけど、宇佐八幡神社の大楠と明王寺のしだれ桜は、タンベラマン(気質)がよく似ている。花が咲くと一気に印象が変わるけど、今の時期の桜の古木を見ていると、それはよくわかる。樹々にはそれぞれの性格があり、気質がある。性格が違っていても、気質が似ていると、惹かれあう。
樹々は人間のようには動けないけど、想いは持っている。明王寺のしだれ桜は、春にだけ、大楠に手紙を送る。白い花弁に乗せた想いを、風が受けとり、運んでくれる。人間はその想いの破片を見ている。花は散らないと、その想いは届かない。
人間が目で見ている破片は、それだけでは想いを成さない。散らばった破片を、丹念に拾い集めているうちに、いつのまにか孤立していた断片が、見えない世界の全体に吸収されていく。その変化は音楽によく似ている。喜びに溢れていたり、どこかもの哀しい。
哀しいけれど救いはある。残酷だけど愛に溢れている。言葉のないはずの旋律に、話しかけられているように感じられるのはそのせいで、動物のようには動けない樹々や草木や花は、人間を通して、その想いを託している。虫や動物が無自覚に種を運ぶように、人間は秘密の手紙を託された、風のようなものなのかもしれない。
雨上がりの明王寺、葉が落ち切ったしだれ桜の古木は、禍々しいほどの静寂に包まれている。横に伸びすぎて、棒で支えられた両手は、磔にされたキリストのような雰囲気がある。なんとなくひいたおみくじには「波のおと 嵐のおとも しずまりて 日かげ のどけき 大海の原」と書かれている。帰り道の、宇佐八幡神社の大楠の横で、小さな子猫が歩いてきた。とぼとぼ歩くトラ猫は、後ろから来た軽トラを通せんぼしていて、困ったなあという顔のおじさんと目があって、お互いに笑った。子猫はこちらを見て、ニャッと吠えた。ときどき見かけるあの猫は、きっとなにかの使者だろう。
いろいろな大樹を見てまわったけど、桜の妖気は抜きんでて強い。古の歌人や画家が、のめりこんでしまう気持ちは、よくわかる。何百年と生きてきた大樹のほとんどは、話しかけてもはぐらかされるというのか、人間なんて眼中にないよ、という飄々としたところがあるのだけど、桜は絡みつくというのか、後ろ髪を引かれてしまう。
明王寺はイーゼルを立てるような環境ではないので、あらかじめ取っていた素描を頼りにして、桜の絵を描いている。ときどき現場に印象を確かめに行くと、枯木には満開の花が咲いている(ように見える)。見えているから、わからなくなることがあるように、見えないからこそ、はっきりしてくることがある。
美しいものは、誘惑する。暗くて深くて、底のない河に。表面に見えている、社会とか経済とか、そういう流れとは別に、時間を超えて存在している、大きくて深い河がある。暗すぎて見えないその河に、ひとひらの花びらが流れている。枯木は厳しい冬を迎えて、夢を見ている。その夢には、永遠の花が咲いている。
2016/11/28
2016/09/30
彼岸花
彼岸花が満開になった。うちの周りはなぜだか白 が多い。白い彼岸花の花言葉は「 想うはあなた一人」「また会う日 を楽しみに」。
ある日、誰かに根こそぎ持っていかれたら しく、散歩道のすべての白い彼岸 花があった場所には、いくつもの 穴が開いていた。花は自分で移動 することができないから、人間を 誘惑して、もっと広い場所に引っ 越したのだろう。
ある日、誰かに根こそぎ持っていかれたら
2016/09/03
霊性と礼節
「人間の進歩にとって特別重要な のは、畏敬の感情を持つことであ る」rudolf steiner
暑い日は頭がぼぉっとして制作が はかどらないけれど、ギラギラし た山川草木から霊感を預かること ができる。ヒグラシの波が夢と現 実の境目を消すと、彼岸から思い 出が歩いてくる。
どうやらコオロギが家に迷いこん でいるらしく、暗くなると鳴きは じめる。淋しそうなので逃してや りたいのだけど、どこにいるのか よくわからない。何処にあるのか よくわからないような記憶が、真 夜中を淋淋と歩いている。
ある日、いつもの瀧の入り口に、東 京ナンバーの車があった。道中で なんとなく感じていたイメージが 、的中した。瀧の手前の巨石の下 で、家族がピクニックをしている 。水着の子供がスイカを食べてい る。たぶん泳いだあとだろう。い つも手を合わせている瀧壺の前に は、派手な浮き輪が重ねておいて ある。楽しそうにスイカを食べて いるその岩場は、以前、崖が崩れ た場所のすぐそばだった。
場所には雰囲気というものがあり 、土地にはそれぞれのカミサマが 宿っている。行者が瀧に打たれた り、お不動さんが怖い顔をしてい るのには理由がある。この瀧壺に は、命を預けている人しか入って はいけないような神聖な気配があ る。それがこの家族にはわからな いのだろうか。自分のことだけし か見えてない。気持ちよく泳げる 場所ならここに来るまでにたくさ んあるのに、計画を変更できない 。目的に縛られている。
よくもまあこんな美しい場所で、 浮き輪で泳いでスイカ食べてなん て発想が出てきたなと思う。一目 惚れしてしまって、なんどもなん ども数えきれないほど通いつめて 、そうやって大切に育ててきた瀧 との絆が、遠方からやってきた無 神経に汚されたような気がして、 夏休みだからまあいいじゃないか とは、思えなかった。
頭に血が昇っているから、腹を立 てたわけじゃない。同じ人間だか ら哀しかった。遠方から美しい場 所を求めて余暇を過ごすのは、ほ んとうに素晴らしいことだと思う 。ただ視点が一方向だと思う。自 分が、自然を、見ている。だから 霊性から切り離されて、目に見え ないことに気づけない。
地盤が脆いこと、谷が深いこと、 流れが強いこと、すぐそばでマム シが生活していること、子供が泳 ぐには危険が多すぎること。霊性 が途切れると、そういう周りの機 微を、感じることができなくなる 。だけど瀧は自分だけのものじゃな いのだから、長居をせずに山を下 りた。
山を下りながら、そこはかとなく 哀しい気持ちになっていたら、そ んな小さなことを気にするなと、 水の精霊に話しかけられたような 気がした。この声は、おまえにし か聞こえないから。と精霊は言っ た。かつてこの瀧で心身を清めた 行者や、水を飲みに来た獣なら、 この沈黙が聞こえたのかもしれな い。
暑い日は頭がぼぉっとして制作が
どうやらコオロギが家に迷いこん
ある日、いつもの瀧の入り口に、東
場所には雰囲気というものがあり
よくもまあこんな美しい場所で、
頭に血が昇っているから、腹を立
地盤が脆いこと、谷が深いこと、
山を下りながら、そこはかとなく
2016/07/09
土砂崩れ
陽射しが強かったので瀧に向かっ たが、登りはじめると雲がかり、 急に薄暗くなった。道中で謎の背 骨を拾ったり、大きな青大将が横 切った。思い返すとそれが前兆だ った。水が出ていて身体が濡れて きたので、そろそろ帰ろうと思っ たら、発砲音のような、なにか弾 けるような音がして、川向こうの 崖が、土煙を上げて崩れた。
身の危険を感じて、慌てないで山 を下りた。落石や土砂が清流を汚 して、泥のような川になっていた 。もしも対岸ではなくて、こちら の崖が崩れていたらと思うと、ぞ っとした。道中でこう思った。誰 かが守ってくれたんだなと。
山を下りるとまた晴れてきた。陽 光がもたらしてくれる、理由のな い安らぎに身を委ねながら、あれ はなんだったろうと振り返ってい た。目の前で土砂が崩れる確立は 、雪崩に遭遇する確立と同じくら いだろうか。
今こうやって生きているのは、宇 宙に生かされているから。自分一 人では、朝起きることも、呼吸を することもままならない。人間が 内的霊性を失って、生物界の頂点 のような顔をして、外的世界を都 合よく解釈していると、いつか痛 い目に遭うだろう。
身の危険を感じて、慌てないで山
山を下りるとまた晴れてきた。陽
今こうやって生きているのは、宇
土砂崩れがトラウマになってしまったの か、それとも暑さで朦朧として いるだけのか、後日の瀧への道中で、妙 に繊細になって、変性意識状態に なっている自分に気がついた。さっ きから誰かがついてきているよう な気がするし、大きな赤い蝶が横 切り、緑色の物体が空中に浮かん でいる。
そういう気がするというだけなの だけど、見えていないとは言い切 れないし、空想を越えたリアリテ ィが迫る。山を下りると普段通り になるので、場のエネルギーや天 気が自分の状態を変えている。山 の神気に触れていると、次元がひ とつ増えたような気がしてくる。 言い換えると、自分が自分(自由 )を見ている。
瀧壺が急に薄暗くなる。浮遊する 飛沫のなかに、雨粒が交じってい る。ゾッとするような神気を感じ て山を下りた。家に帰ると激しい 雨、二匹の犬が雷鳴に怯えて、暗 い場所を探して震えている。
神気と霊気(inspirati on)はよく似ている。充満して いる万物の気配に、ある条件が重 なって霊気を帯び、放電した霊気 が根元に近づくと神気になる。 自然だけではなく、芸術作品にも 神気を帯びているものがある。極 端に強いものに触れると鳥肌が立 つ。無意識に組み込まれているチ ューナーが、宇宙との出逢いを受 信している。
人間(大人)は安全な場所にさえ いれば雷鳴を怖がらない。自然の 科学的な仕組みを把握して、対処 方法を心がけて距離を作っている 。身を守るために、なんだかわか らないものに距離を置いて武装し ているうちに、死を恐れ、同じ人 間同士でさえ恐れるようになって しまった。
道路に獣が倒れていた。草むらに 運んだ。何回運んでも、慣れるこ とはない。車にはねられたハクビ シンの体毛と、瀧壺に落ちる木漏 れ陽は、同じ太陽の色だった。
人間も自然の一部なのだから、畏 れや愛は心のなかにあるはず。こ んなはずじゃなかっただろ?と、誰か に問いかけられているような 気がする。
そういう気がするというだけなの
瀧壺が急に薄暗くなる。浮遊する
神気と霊気(inspirati
人間(大人)は安全な場所にさえ
道路に獣が倒れていた。草むらに
人間も自然の一部なのだから、畏
2016/06/30
2016/06/01
龍の門
『お前は無限を押し戻すことさえ できて、無限はお前の生長によっ て作られているに過ぎない。地下 の墓から梢の鳥の巣に至るまで、 お前はすべての「認識」を自分に 感じることができる』
ポール・ヴ ァレリー「蛇の素描」より
瀧壺 は飛沫が激しくて、岩場にイーゼ ルを立てることもできないけど、 やや引いた遠景なら、なんとか草 むらに立てることができる。人が 登って来ない短い時間しか描かな いけれど、瀧は強烈なので、肌で 感じてさえいれば、印象をそのま ま持ち帰ることができる。印象を 持ち帰ることができるのは、無意 識が空間を距離ではなく、意識体 と捉えているからだと思う。
人間は人間のフレームでしか物事 が見えないので、なにかを表現し ようとすると、たちまちフレーム の中に閉じこめられてしまう。そ れは宇宙に果てを求めてしまう感 情に、よく似ている。人間は観測 できない(見えない)から、なに もない、とは考えない。空間と意 識が繋がっているからだと思う。
瀧への細い山道で、二日連続で蛇 に出逢った。一匹目はツチノコの ような、二匹目はマムシだった。 いずれも道をふさぐように寝てい て、マムシはなかなか通してくれ なかった。瀧は龍の門、道は蛇の 轍、きっとなにかの徴(しるし) だろうと思う。
平日はほとんど人が来ない山だけ ど、まれに登山者と出逢うことが ある。瀧で出逢ったことはないけ ど、そろそろ帰ろうかなと思って 、山道を降りはじめてすぐに、登 山者とすれ違う。あれは不思議な タイミングで、たぶん無意識が、 人が登ってくる気配を察するのだ と思う。頭ではそんなことができ るわけないと思うことを、無意識 はやってのける。無意識にとって 空間は意識体だから、時間や距離 は関係ない。
高い岩場に囲まれている瀧壺には 、直接光が入らないと思いこんで いたけど、陽の高い午後のある特 別な時間にだけ、奇跡的に木漏れ 陽が射しこむことを発見した。瀧 壺を泳ぐ光は、産まれたての星の ように、乱反射する宇宙の夜のな かで、キラキラと輝いている。た った一度だけ、虹を見たことがあ る。何度通っても、その一度きり。あれは天の影だろう。
もののあはれを知ると、頭で考え られるようなことって、たいした ことないのだろうなと思ってしま う。感覚の束のような身体が捉え る無意識の絆が、まるで流星のよ うに、宇宙の夜を一瞬だけ金色に 輝かせる。
2016/05/17
精霊の森③
森に運ぶことができる最大のサイ ズのこの絵は、描きはじめてから 二年くらい経っているような気が する。初めて屋外で描いた作品な ので、思い入れがある。なかなか絵が 進まない原因は、自分ではよ くわかっている。
季節や時間によって、風景は移り 変わる。だから気の向くままに制 作していると、画面は常に破綻す る。その破綻を修正するのに、同 じ時間だけかかる。それを繰り返 してるから、完成しない。画布の 下には凸凹とした無為な時間が埋 もれている。写真には映らない、 森と光に向きあった思い 出の地層が、足踏みしている色の下に沈んでいる。
アントニオ・ロペス・ガルシアは 、グラン・ピアの夏の夜明けの光 を描くために、毎日早朝の地下鉄 に乗り、わずか2~30分の現場 制作を7年間続けた。風景を巻き あげてしまうくらいの、魂の渦を 宿したゴッホの力なら、一日でこ の森を仕上げただろう。時間の使い方 は魂の在り方によって違う。
最近、仲よくなった地元の人に、 哀しい出来事を聞いた。その人が 子どものころ、生活苦に耐えかね て、森の入口の祠の樹で、首をつ った人がいたらしい。そういうこ とは、昔は珍しくなかったという 。ただその人は、制作に通って いる森のことまでは知らなかった。低い 山の頂上にある祠から、この森に繋がる道は、草 がボオボオに生えていて、わかり にくい。もういないけど、はじめ てこの道を通ったときには、スズ メバチがこの森を守っていて、 簡単には近づけなかった。
頂上の小さな祠は、到達点ではなく、ほん とうは通過点。だからその奥に向 かって、進んでほしかった。この先の 森の美しさに包ま れれば、苦しみが消えたかもしれ ない。この森は人生の終点ではな くて、はじまりも終わりもない場 所、至る道は案内もなく、草むら に隠れている。
その話を聞いてから、すこし森に 行くのを避けていたのかもしれな い。祠の前の、それらしい樹に手 を合わせた。樹は哀しそうに、で も微笑みを浮かべた。それから 赤いハンモック の前にイーゼルを立てると、気の 早いセミが鳴いた。おかえりと迎 えられたような気がした。終わら ない絵の上に、新しい色が帰って きた。
季節や時間によって、風景は移り
アントニオ・ロペス・ガルシアは
最近、仲よくなった地元の人に、
頂上の小さな祠は、到達点ではなく、ほん
その話を聞いてから、すこし森に
2016/05/04
剣の夢
不思議な夢を見た。剣山の山頂の 神社から、大きな蛇のような生命 体が、石段を壊しながら、うねう ねと山を降りている。最後まで姿 を見せなかったけど、あれは地中 に潜む龍だろうか。
最近は導かれるように図書館で手 にとった、アボリジニの本のなか に出てくるドリームタイム(夢見 )という言霊に、憑かれている。 もちろん夢見とは、寝て見る夢の ことを指しているのではなく、も っと広大な時間を現している。
遅読者なので、貸し出し期間を延 長して、やっと最後のページまで 辿り着いたのだけど、夢見という のは密教のような性質があって、 言葉だけでは語り切れない。夢見 が集合無意識や神話世界とも言い 切れないのは、それらもすべて物 語に含まれているような気がする から。宇宙以前にドリームタイム がある。ビックバン直前の、なに もないはずの真空に、はじまりも 終わりもない世界があって、私た ちの先祖はそこにいて繋がってい る。
精霊は大地に根付いている。彼ら は描くことを通して、精霊と繋が る。ウングワレーの絵を見たとき に感じた強烈な違和感の理由が、 いまはよくわかる。近代的な空間 とアートの文脈のなかで、繋がり を絶たれてしまった精霊の行方を 、いままで探していたのだと思う 。そしていままでもいまもこれか らも、探し続けていくのだと思う 。宇宙の可能性と生命の繋がりを 求めて。
アボリジニがなにより大切にして いる情緒は、思いやりである。ア ボリジニにとって思いやりの心と は、倫理を越えたものである。そ れは環境に寄せる共感や感情移入 の集大成ともいうべき感情なのだ 。(ロバート・ローラー著「アボリジ ニの世界」より)
なぜなら、怒りが怒りによって癒 されることはなく、怪我が怪我に よって癒されることはなく、憎し みが憎しみによって癒されること はないというのが、この世の真理 だからである。怒り、怪我、憎し みを癒すことができるのは、ただ 愛だけなのだ。(仏教経典「ダンマパダ」より)
最近は導かれるように図書館で手
遅読者なので、貸し出し期間を延
精霊は大地に根付いている。彼ら
アボリジニがなにより大切にして
なぜなら、怒りが怒りによって癒
P.S
徳島城公園にある竜王さんのクス は、地中から天に向かって飛び出 そうとする、龍の腕のような形を している。樹齢600年のこの大 樹は、1934年の室戸台風で、 一度倒れてしまった。でも人の一 生ほどの長い時間をかけて、這い あがるように、逞しく生きている 。何十年ぶりにここに来て、ああそうかと、腑に落ちた。
いつか見たあの夢が、現実にある 場所に繋がった。大きな樹の下に は、大きな時間がある。剣山から 降りてきた大蛇は、地中の暗闇を 泳いで、この場所に出た。地上の 光を浴びて龍に生まれ変わり、き っと天に還るのだろう。そしてい つかまた戻ってくる。夢と現実は 繋がって輪廻している。精霊はけして姿を見せずに、風景として暗示されている。
徳島城公園にある竜王さんのクス
いつか見たあの夢が、現実にある
2016/04/17
緑の季節
春の嵐が過ぎ去って、夏のような 強烈な陽射しが、風景を白色矮星 のように発光させている。メダカ の水面から反射した光が、磨りガ ラスに炎のような渦を描いている 。昨日(2016.4.16)は海にいた。あの日(2011.3.1 1)もそうだった。海は呼吸して いる。自分も呼吸している。海と 自分の呼吸が重なると、世界との 境界が消える。
アボリジニの画家、エミリー・カ ーメ・ウングワレーの図録を眺め る。
2008年に国立新美術館で、ウ ングワレーの展覧会が開催された 。はっきり覚えていないのだけど 、誰かにチケットをもらったか、 誘われたかで、彼女の絵を見た。 めったに展覧会には行かないし、 積極的に自分から見たかったわけ ではないのに、とても記憶に残っ ている。なぜだか強烈な違和感が あって「この絵はこのような近代 的な空間にふさわしくない」と思 った。「こんなところに置いては いけない」と思ったのは、仏像以 外でははじめてだった。
作品はプリミティブ過ぎて、正直 言うと、なんだかよくわからなか った(準備ができていなかった)。でもなぜだか事件のように 、行ったことだけはよく覚えてい る。彼女の魂が、アボリジニの文 化もよく知らなかった自分に届く のには、2008年から2016 年という8年間の時間が必要だっ た。78歳から描きはじめた、彼 女の三千点以上の作品を残したそ の時間も、およそ8年間だった。
そういうことはよくある。そのと きはわからなくても、記憶は待っ ていてくれる。もしかしたら未来 の自分(現在)が、 そのときの自分に、 興味がなくても見に行くように、 手配したのかもしれない。
彼女の絵は外に向いていない。内 側を歩いている。その内側は外よ りも広い。一見大胆だけど、静か に慎重に歩いている。けして物語 を離さないように、注意して綱渡 りをしている。彼女はモネもポロ ックもロスコも知らない。美術史の外から やってきた。アボリジニの大地か らやってきた。
彼女は自ら望んで画家になったわ けではなく、偶然に与えられた機 会が、彼女に絵を描かせた。画布 も絵の具も絵筆も、すべて与えら れたものだった。パレットはなく 缶のまま、絵筆のかわりにゴムサ ンダルを使うことさえあった。し かし彼女は与えられたものに満足 し、それを自在に操って作品を描 き続けた。描くことは楽しみでも あると同時に、生きることそのも のだった。作品を売って得た現金 は、そのままアボリジニのコミュ ニティの生活を支えた。
最晩年のモネのような「大地の創 造」は、雨季の後に訪れる、彼女 が"緑の季節"と呼んだ時期に描 かれた。美術館で見たはずのこの 絵のことを、僕は覚えていない。 ただ見ただけで、出会っていなか ったからだろう。でも慎重に物語 を歩いて(ドリーミング)いけば 、いつか思い出せるような気がす る。嵐が過ぎた雨上がりの、キラ キラ光る緑の季節に。
写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創 造」1994/ キャンバスにアクリル/ 275×160cm×4
参考 エミリー・ウングワレー展図録
アボリジニの画家、エミリー・カ
2008年に国立新美術館で、ウ
作品はプリミティブ過ぎて、正直
そういうことはよくある。そのと
彼女の絵は外に向いていない。内
彼女は自ら望んで画家になったわ
最晩年のモネのような「大地の創
写真 Emily Kame Kngwarreye「大地の創
参考 エミリー・ウングワレー展図録
2016/04/01
ドガ・レイン・デッサン
朝から浮世絵のような雨。春雨だから、気分はいい。陽光は 心を温めてくれるけど、雨音は心 を静めてくれる。数日前に届いた 、ドガの画集を眺める。晩年の彫刻作品になると、手が止 まる。デュシャン以後の発注アー トではなくて、ドガやアントニオ ロペスガルシアのような、絵画か ら彫刻に移る、手探りのような自 然な流れに惹かれてしまう。
夏の夜にヘッドライトをつけて走 ると、小さな蛾が白く発光して顔 の前を横切る。一瞬だけど、大き な羽根をつけた踊り子のように見 える。ああいう一瞬を追いかけて 形にしたら、ドガの彫刻のように なるのだろうな。
ドガの絵を見ていると、シューベ ルトかリストを聴きたくなる。シ ョパンほど甘くなくていい。セザ ンヌはバッハ、ゴッホはベートー ヴェンを聴きたくなる。光が音を 誘い、音が色や形を暗示している 。
ドガは目に病があって、直射日光 に耐えられず、屋外製作ができな かった。自分も小学生の頃、炎天 下で外にいると、白く視界が狭ま って、頭痛が起きることがあった 。幸いもう症状はなくなったけど 、視界が両端から白く染まってい き、これから頭痛と保健室に行く ことが確定したあのときの、現実 が離れていくような、なんとも言 えない憂鬱を、よく覚えている。 ああいう憂鬱のなかにも、永遠に 続きそうな、安らぎの溜まり場の ようなものが、あったのだと思う 。だから記憶にしおりを挟んだよ うに、よく覚えている。目に見え る世界が、中断する。考えただけ で、恐ろしい。だけどその先に、 中断されていなかった世界が、今 に続いているような、どこか懐か しい連続性がある。
降り続く雨のような、憂鬱だけど 、過ごしやすい。自分の思うよう にはならなくて、つらい。でも、 なんだか気分は悪くはない。なん の根拠もなく、小さな勇気のよう なものも湧いてくる。強くはない 。どちらかというと、臆病だ。道 の先に、なにがあるかわからなく て不安、でもその不安定に、足が 進む。それでも生きろと、柔らか い野風が、背中を押す。
なにかを諦めたはずのに、なにか を手に入れていたような、そうい う自分でもよくわからない、矛盾 した気持ちが、視界を消していく 、あの白い靄の奧に向かって、渦 のようにまっすぐに伸びていく。 その渦の向こう側には、まだ形に はならない幽体が、こちらに向か って発光している。
「ドガは常に自分の孤独を感じ、 また孤独さのあらゆる形態によっ てそれを感じていた人間であった 。彼は性格から言って孤独であり 、彼の性質の気品と特異さとによ って孤独であり、彼の誠実さによ って孤独であり、彼の厳密さと主 義や批判の不屈とによって孤独で あり、彼の芸術によって、すなわ ち彼が自分自身に要求したことに おいて孤独であった」ヴァレリー
「なにも知らないうちは、絵を描 くことはそれほど難しいことでは ない。しかしいろいろ解ってくる と、そうはいかないんだ」ドガ
彼が抱えていた孤独の色は、僕に は見えない。でも彼の描いた踊り 子や馬には、憂鬱や倦怠を凌駕す る、それぞれが放つ、一輪の花の ような色気や、誰にも譲れない矜 持がある。微熱を帯びたように、 なんとなく見ているこちらが、ぽ おっと心が温かくなるのは、魂の 孤独や憂鬱が、まっすぐに伸びた 時間の渦をくぐって、彼岸から発 光しているからだろう。その光が 熱になって、雨に濡れた霊魂を温 めている。
「本質的な芸術家というものは、 彼の芸術に憑かれているのである 」
「作品が作者を修正する」
ヴァレリーの言葉に寄り添うなら 、彼の魂を支えていたのは芸術神 であり、一人の踊り子であり、一 匹の馬であった。
「鉛筆を手にせずにして或る物を 見ることと、それを描こうとして 同じ物を見ることとの間には非常 な相違がある。というよりも、我 々はその場合、二つのまったく異 なったものを見ているのである」
「我々は、その形をいままで知ら ないでいたのであって、それを本 当に見たことはまだ一度もなかっ たのを感じる」
数えきれない雨粒が、川の音に合 流しながら、目で追えないような 速さで、乾いた世界を濡らしてい る。この雨を追いかければ、小さ な蛾が、一瞬だけ踊り子に見えた あのときのように、まだ一度も見 たことがなかった秘密の世界を、 感じることができるだろうか。
参考「ドガ・ダンス・デッサン」 ポール・ヴァレリー
写真 Edgar Degas (1834–1917) Little Dancer Aged Fourteen,
夏の夜にヘッドライトをつけて走
ドガの絵を見ていると、シューベ
ドガは目に病があって、直射日光
降り続く雨のような、憂鬱だけど
なにかを諦めたはずのに、なにか
「ドガは常に自分の孤独を感じ、
「なにも知らないうちは、絵を描
彼が抱えていた孤独の色は、僕に
「本質的な芸術家というものは、
「作品が作者を修正する」
ヴァレリーの言葉に寄り添うなら
「鉛筆を手にせずにして或る物を
「我々は、その形をいままで知ら
数えきれない雨粒が、川の音に合
参考「ドガ・ダンス・デッサン」
写真 Edgar Degas (1834–1917) Little Dancer Aged Fourteen,
2016/03/27
彼岸に咲く花
梅が散り、枝垂れ桜が咲くころに 、涅槃桜が散りはじめる。そのこ ろ山桜は、山に寄り添い、自然に そっと、咲いて散る。家からは、 山桜と枝垂れ桜の、両方が見える 。迫力があるのは枝垂れ桜だけど 、自然のなにげない時間を感じる のは、山桜の方かもしれない。
咲きはじめの桜の樹は、あけぼの のように、ぽぉっと赤く染まって いる。遠めから見ると、赤い発光 体のように見える。やがて年をと るように白く染まっていく。こち らもぽぉっと見ると、桜は名を失 い、花を越える。花を越えて見て いると、こちらが発光したような 気がして、赤く染まる。
たまたま桜と呼ばれているなにか が、私のなかに入って、発光して いる。満月が夜道を照らすように 、春のあけぼのが、心の暗い場所 を照らしている。
世阿弥の能楽、西行桜において「 花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の咎(とが)にはありけ る」(美しさゆえに人を惹きつけ るのが桜の罪なところだなあ)と 歌を詠む西行に対して、夢枕の老 翁は「桜の咎とはなんだ?桜はた だ咲くだけのもので、咎などある わけがない。煩わしいと思うのも 、人の心だ」と西行を諭す。老翁 とは、桜の精だった。
枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影 している人はたくさんいるけど、 たまたま川の向こう岸に咲いてい る山桜に、カメラを向ける人は、 一人もいない。同じ花でも、気づ かれる花と、気づかれない花があ る。でも花は、人がいてもいなく ても、ただ咲いて散る。花の精霊 は彼岸に咲く。此岸からは届かな い場所にいる。
咲きはじめの桜の樹は、あけぼの
たまたま桜と呼ばれているなにか
世阿弥の能楽、西行桜において「
枝垂れ桜の老木の前で、記念撮影
腑に落ちる
カムイが制作中に、足下にふっと 来て、渦のようにくるくる回って 、ストンと丸くなって、そのまま 眠ることがよくある。場所によっ てはとても作業がしづらいのだけ ど、一連のその様子が妙に腑に落 ちるというのか、はじめからそこ にいたような、運命的な安定感が あって、ブラックホールのような その黒い影を、動かすことができ ない。
腑に落ちるというのは、からだの なかで同時性が起こってるのだと 思う。なんとなく、はっきりした 理由がなくても、外側と内側がシ ンクロしていると、腑に落ちる。 きっと人間なんて眼中にないよう な、宇宙の時間に波長が合うと、 共時性(同時性)が起こるのだと 思う。川の音、春の陽射し、小鳥 の声。フレームの外にある自然の 営みや事物が、グラデーションを 整えている。
風に舞う花びらを数えるように、 はじめからそこにあったような、 なんとも言えない気持ちを拾い集 めると、一枚の絵ができるのだろ う。
腑に落ちるというのは、からだの
風に舞う花びらを数えるように、
2016/03/18
鍬を持つ男
雨を含んで土が柔らかいうちに、 新調した鍬で畑を耕した。土に触 れていると、世界の深みに、コミ ットしているような気持ちになる 。暗黒の地下世界に、ピカピカの 鍬の刄を入れて、埋もれていた本 質を、雑草もろとも根こそぎ掘り 起こす。ひと休みで空を見上げる と、どこからか希望が沸いてくる。
土を耕しているときは、いつも野 菜が実っている姿を、頭に描いて 行動していることに、ふと気がつ いた。不確実な完成形(未来予想 図)が現在の自分を引っ張ってい るという点は、絵を描くことと共 通する。表面上の時間は、過去か ら未来に流れているけど、頭に想 い描いているイメージは、未来か ら現在に向かって流れている。
その未来予想図は、思ったとおり にはならないかもしれない。むし ろ、思ったとおりにならないこと の方が、圧倒的に多い。せっかく 実った人参や大根は、猿に食べら れてしまう確率が、とても高い。 でも、それでもいいよと、いつも どこかで思ってる。そういうまま ならなさに溢れている世界の構造 が、心をしなやかにしてくれる。
求めていた未来が、手に入ったと しても、結局はなにか大切なもの を、犠牲にしていたり、失ってい たりする。そういう力学に振り回 されずに、自然から受け取ったも のを共感していると、すっと自分 が自分から離れて、無限の可能性 を孕んでいた想いのなかに、飛翔 する。土で汚れた鍬を、荒れ地に立てて 、深く息を吐き、ふと見上げる空 に、浮かんだ雲と、柔らかい春の 陽射し。その彼方から沸いてくる 、彼の小さな希望とは、もはやは ばむものは何もない、感受性の、 自由な羽ばたきのことだろう。
Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas
土を耕しているときは、いつも野
その未来予想図は、思ったとおり
求めていた未来が、手に入ったと
Jean-François Millet 「鍬を持つ男」 1860 - 1862 Oil on canvas
2016/03/15
ゴッホの手紙
数日前に届いた、ゴッホの全作品
共時性(シンクロニティ)が起こ るときは、その流れに大いなる力 が働いてるような気がして、勇気 が沸いてくる。樹齢800年の大 楠のうつほから、小さなつむじ風 が耳の下に宿って、それからゴッ ホが気になった。彼の魂がこの森 にいたことを、森羅万象が霊験を 通して、気づかせようとしたのだ と思う。
インスピレーションとは、対象( モチーフ)へのまなざしを通して 、宇宙から人間に向かって、おし なべて平等に流れてくる、霊気の ようなものだろうと思う。だから オリジナリティなんて、ほんとう は何処にもない。でもそのなにも ない無明の宇宙に、星の火が流れ ることがある。その炎が、現実を 揺らす。
人工衛星の破片が、火の鳥のよう に、空を流れるのを、見たことが ある。ちょうどそんなふうに、身 を焼かれながら、その黄金の光に 包まれて、時間を超えていく。
インスピレーションとは、対象(
人工衛星の破片が、火の鳥のよう
2016/02/26
シンビジウム
シンビジウムという花をいただい た。東南アジア原産の蘭で、花言 葉は「素朴」「飾らない心」とのこと。自分で花を買って飾ることはないので、もらうと気になってしまう。
野生の花や蕾は描けるんだけど、 飾っている花は、まだうまく描けな い。シンビジウムは長持ちするら しく、まだ綺麗に美しく咲いてる 。一輪を残して、目に届かない場 所に移した。花は霊性が強いので 、長く見てると、落ち着かなくな ってしまう。花に飲まれて、あり のままに見ることが、できなくな ってるのだと思う。
目の届く場所に、お気に入りの骨 とか石があると、気持ちが落ち着 くのだけど、花はちょっとソワソ ワする。たぶん自分のなかに、花 がないからだと思う。花が持って いる霊性を、自分は持っていない から、すこし緊張してしまう。恋 をしている状態によく似ている。
呼吸のように、していることを忘 れてしまうような、でもしていな いと、生きてはいられないような 関係でなければ、モチーフは呼応 してくれないような気がする。綺 麗なだけではなくて、ほんとうに 美しい花を描いている人は、そう いう関係を築いているのだと思う 。
精霊の森は、たしかに自分の中に ある。あの森は、五年前くらいに 見つけて、二年前くらいから描き はじめた。誰も知らない秘密の森 に、何度も通った。だから描くこ とができる。下手でもあまり気に ならないし、どこか心の底で納得 ができるのは、身体を通して、世 界と関係(約束)ができているか らだと思う。
あの森は、心のなかにある。そう いう場所を、いつも探しているよ うな気がする。都会にも、雑踏の なかにも、誰からも見過ごされて 、忘れさられたような真空に、そ の人だけに開示される、やさしい 秘密がある。精霊は、そういう場 所に宿る。いつかその森に、花が 咲くだろうと思う。
目の届く場所に、お気に入りの骨
呼吸のように、していることを忘
精霊の森は、たしかに自分の中に
あの森は、心のなかにある。そう
束の花は、いかにも豪華だけど、 一輪の花の方が、ずっと気が安ら ぐ。気が安らぐと、話ができる。話ができると、絵は描ける。
一輪を、朝の光の窓辺に、もう一 輪を、夕の光の窓辺に置いた。
花も人間も、集団より個の方が、 信用できる。一輪から放たれる霊 性は、不安を打ち消してくれる。 一対一になれると、一体になれる 。飾らない心に、花が咲く。
花(自然)が表現していることに 、耳をすませていると、知覚でき ない存在から、なにか語りかけら れているような気がする。見るものと見られるものの間に、 距離や空間はなく、ただ静かで広 大な時間が、そこにある。霊的な形や色を通して、その時間 を埋めるようにと、なにかが心に 、働きかけている。
なぜこんな形をしているのだろう か。なぜこんな色をしているのだ ろうか。誰にも答えられない。
一輪を、朝の光の窓辺に、もう一
花も人間も、集団より個の方が、
花(自然)が表現していることに
なぜこんな形をしているのだろう
2016/02/06
辻風
呼ばれたような気がして、 近所の宇佐八幡神社に。いつもするように、樹齢八百 年の大楠に手を触れた瞬間、ひゅるる るんと、耳を撫でるように、後ろ から風が吹いた。気持ちよくて、 何度か試したけど、一度きりだった。風 はないけど、足下にはうつほがあ る。ああ、この穴から吹き上がったのだなと 、直感した。それから耳の後ろに 、小さな辻風(つむじ風)が、いつまでも 残っているような感じがした。こ の鎮守の森は、本人にしかわから ないような霊験を通して、なにか 大切なことを伝えようとする。
今朝、森のなかで、ふとゴッホを 想った。あの小さな辻風が、 ひゅるるるんと螺旋を描いて、星 月夜のように、耳の後ろで回転し ていた。渦に巻きこまれてはいけ ないけれど、そばにいるなら心強 い。いつか自然に帰るその日まで 、いろんな風に吹かれながら、自 分の歩幅で歩けばいいのだと思う 。
2016/01/24
冬梅
春になったら描こうと思っていた
梅の前にイーゼルと椅子を置
カムイはすぐに三つの穴を掘り起
この梅の樹を植えたおばあさんは
タンポポが風に運ばれるように、
2016/01/15
夢
奇妙な夢をよく見る。知らない土地なのに、どこか懐かしい感じが する。解せないのは、主体が自分 ではないこと。まったく知らない 誰かの体を借りて、夢で体験して いる。知人や友人が出てくるよう な自分事なら、状況が破綻してい ても、単なる夢だけど、時代も国 も違うし、場所や出来事に、思い 当たることがないと、ユングにも 解けないような不思議を抱えこむ 。
寝ているときの自分は、時間や空
山や森に入ると、独りなのに、豊
手付かずの山を登るとき、頭より
間伐をしているので、後ろめたく
眠りにつくように、世界に体を貸
夢を見た。戦国時代、敵対してい た、ある人を斬った。後ろから斬 った。卑怯なやり方だった。でも やらなければ、やられていたから 、後悔はなかった。しかし亡骸を 見ていると、激しい後悔の念がわ きあがり、その人が現世では、大 切な人だったことに気づいた。夢 だとわかっていたので、過去に戻 って、その人と出会わないように 、主体の行動を配慮した。すると 、その人が生きている現実が現れ た。しかし、既に斬ってしまった 事実は消えず、二つの風景が重な って、混乱する人たちがいた。す でに起こってしまったことは、変 えることができなかった。
しばらくは二つの現実が重なって いて、世界に混乱が続いたが、二 人が出逢わずに、生きている現実 の方に、世界の存在感(重み)が あったので、斬られたはずの歴史 は、バランスを取りながら、引き ずられるように、大いなる時間の 流れから離れて、ゆっくり消えて いった。ほっとするように、目を さました。
時計を分解しても時間が見つから ないように、時計の針を過去に戻 しても、起こってしまったことを 、変えることはできない。でも未 来は選ぶことができるので、いま この瞬間に、人生をやり直すこと はできる。再生した時間に、蘇生 した魂は、定められたはずの運命 さえ、塗り変えてしまう。
相対性理論に基づくと、自分の時 間をゴムのように伸ばすことによ って、未来に行くことは可能だけ ど、それは光の速度に近づいた身 体だけが、大いなる時間の流れか ら離れて、取り残されてしまうと いうこと。取り残されて寂しいか ら、未来の夢を見ている。そんな ことをしなくても、旅に出ること はできる。パラドックスを抱えた 過去でさえ、見に行くことができ る。根が過去に向かって伸びてい くから、枝葉は未来に向かって伸 びていく。戻ってくる現在がある から、旅に出ることができる。
死んだらどこに行くかを考えるよ りも、眠っている自分が、どこに 行くかを考える方が、夢がある。 過去や現在や未来という座標を外 すと、輪廻は自然に解消する。前 世や来世を担保しなくても、時空 を離れた、かろやかな魂の動きが 、不思議なやり方で、どんな対象 にも入り込み、いまここに輝く永 遠を獲得する。言い換えると、自 由になれる。
しばらくは二つの現実が重なって
時計を分解しても時間が見つから
相対性理論に基づくと、自分の時
死んだらどこに行くかを考えるよ
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