2012/11/24

ペテルギウスの夜

ペテルギウスの夜が鳴く

ひょうひょうひょうひょう

ぶんぶんぶぶぶん

ひょうひょうひょうひょう

ぶんぶんぶぶぶん

はらがへっては山おりて

まばゆい光にころされる

月のせいじゃない 星のせいじゃない 君のせいじゃない

ああ はらへった 

えさがないから 酒もってこい

まっぴるまからぐでんぐでん

よっぱらってはぽんぽこりん

ぐるぐる回る銀杏の銀河





2012/11/17

夫婦狸

昨日は雨乞いの瀧に行った。これから2013年をまたいで、雨乞いの夫婦瀧を描かせてもらうので、ご挨拶にという気持ちだった。何度も網膜に、この瀧を映したことはある。だけど、ほんとうに見たのかと自分に問うてみると、ほんとうに見たとは言えないと思うところがある。何年かしたら忘れてしまうような記憶なら、見たとは言えない。 挨拶をしたからと言って、相手は自然なのだから、録音機に記録されるような返事はない。だけど縁を作れるかどうか、縁を作る準備が、こちらにあるかどうか、それを自分に問い、試したいのだと思う。網膜に映ることと、事象と出会うことは、まったく違うことなのだと思う。瀧は、それぞれの人にとっての、それぞれの瀧であり、言い換えれば、人は自分の瀧しか見ることができない。それは悲しいことでもあると同時に、かけがえのない富だとも思う。目をつぶっても浮かんでくるような、年を重ねても、離れていても、この世に存在しなくとも、すぐそばにいるような記憶として、事象と出会いたい。そういう気持ちが、自分を突き動かす。網膜に映っていても、見ていないことがたくさんあるし、網膜に映っていなくても、見えることがある。そのよじれのような接点を、探しているのだと思う。

                            ★

今日も朝から雨乞いの瀧に行った。(ほんとに雨がふってしまった)。じつは昨日、瀧の手前に頭が取れたタヌキの地蔵さんがあって、連れと二人で「なおそうか」という話をしていた。ここに来るたびに気になっていたのだけど、すぐ忘れてしまう。その日も家に帰ったら、タヌキのことはすっかり忘れていた。だけど昨日の夜、ジョギングしているときに、二匹のタヌキに遭遇した。めったにない珍しいことなので、じっと観察していた。タヌキはおそらく、夫婦(めおと)。こちらをじっと見て、意外にもなかなか逃げない。こりゃあ縁起がいいなあという気持ちでジョギングを再開して、家に帰って、寝る直前に、ハッと頭のないタヌキのことを思い出した。


『はやくなおしてくれよ』と、夫婦で催促に来たのだと思った。『忘れないでおくれよ』と。昨日から描きはじめた雨乞いの瀧をモデルした作品も、夫婦の瀧。直す道具は持っているで、これはさっそく明日にでもいかなきゃと思った。そして今朝、雨乞いの瀧に向かった。大雨だった。

こじつけと言われれば、それまでである。それがどうしたと言われれば、どうもしない話である。だけどもこういう通路を、大切にしたい。

編みたいのだと思う。

ここにタヌキを置こうと一番はじめに思った人、ここに石段を積んだ人、このタヌキの置物を作った人、頭のないタヌキが気になっていた人、この置物の原料、石段に積もった苔、土、タヌキ、そして夫婦瀧。森羅万象に散らばった、それぞれの縁の糸をたぐり寄せて、一枚の織物を作りたいのだと思う。自分だけの織物、そのような物語を、はじめたいのだと思う。


そういえば昨日のタヌキもこんな顔をしていたなあ。

追伸

翌日もタヌキの再修復をしに雨乞いの瀧に行った。その夜のジョギングで、三匹のタヌキに遭遇した。緩いカーブの手前で、まるで待ちかまえるように、道路の真ん中で二匹、帰り道の森のなかで一匹を見た。『ありがとう』と言いに来てくれたのだと思った。去年もこの時期から走りはじめたが、春までにタヌキを見たのはたったの一度だけである。たまたま今年になってタヌキが増えただけである。たまたまタヌキのお地蔵をなおした日と重なっただけである。それだけなのだけど、底なしに深く考えられることがある。深く深く、考えられることがある。








2012/11/11

観見二眼

発注していた画材が届いた。新しい絵具がそばにあるだけで、失った躰の一部を取り戻したみたいに、ほっとする。2012年は年始から鉛筆と油彩を組み合わせて、白黒絵画に挑戦した。画布と鉛筆は相性が悪いので、自分で木製パネルを作って、木の上に描いた。鉛筆は固いので木目の肌との相性がいい。色のない絵は、光と影だけ。つまり、陰影そのものを描いているので、存在に向かい合っているような真摯な気持ちになれる。白地であれば、一番強い光の場所は、描きたくても、なにも描けない。ぐぐっとこらえて、その部分を見つめるだけしかできない。このこらえ(空白)に弓を引くような力があって、思想を呼びこめるような気がする。それにしても、影を描くことで、同時に光が引き出されているのだから、モノクロームは奥が深い。アウトサイダーアートとは、すこし違うベクトルで、書画、墨絵のような陰影には、目に見えることだけに振り回されたりしない、熟した大人の遊びがあると思う。墨絵などは、自分で筆を入れたところが、即、影になるのだから、作者そのものの予感が、もろに紙のうえに現れてしまう。だからこれほどの真剣勝負はないのかもしれない。予感が強くないと、砕けてしまう。予知が強くないと、ふやけてしまう。武士道というのか、そのような血脈が走るのだと思う。鉛筆画にも、そういう緊張感はたしかにある。 そのような境地に、憧れだけが降りつのる。

宮本武蔵の五輪書、水之巻に「観見二眼」という言葉が出てくる。観は心で見て、見は眼で見ること。観の目をつよく、見の目をよわく、遠き所を近くに、近き所を遠くに見て、敵の太刀を知り、少しも敵の太刀を見ないという兵法の大事(真髄)、これを工夫してみなさいと、武蔵は説いている。今はもう、刀で斬り合う時代ではないけれど、武蔵の言葉は、響く。
 


 

2012/11/06

森の色

色彩論のなかで、著者ゲーテはアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher)の言葉を引用している。

「光は陰影なくしては、陰影は光なくしては、決して存在しえぬ」

「全世界の見えるものはすべて、ただ〈かげる光〉或いは〈光る影〉によってのみ見えるからである」

このセンテンスをきっかけに、ふっと天使(悪魔?)が降りてきて、耳元でなにか囁いたかのように、ゲーテの言わんとする、陽炎のような全体像が見えてきたような気がした。ある別のきっかけで視界が開けてくるというのはよくあることだけど、今回は著者ゲーテではなく、キルヒャーの引用によって俯瞰の目が開いた。ゲーテは科学でも、文学でも、詩的でもない方法を使って、見えている世界についての、できうるかぎり近しい、輪郭のようなものを引きだそうとしていると思う。その誠実さと狂気で。

森はなぜ、こんな色をしているのか。この問いに答えられるひとが、この世にいるのだろうか。

闇を単なる光の欠如と排除して、研究の対象にすることすらなかったニュートン光学の言葉ではなく、もはや成り立ちの違う世界の答えを聞いてみたい。