2014/03/31

絵画論

ダヴィンチの絵画論を読む。

ダヴィンチは絵画を技(arte)とは考えておらず、膨大な手記において、絵画はつねに学(scienza)と呼ばれる。絵画学という言葉は頻繁に出てきても、絵画術という言葉は一言も出てこない。絵画は技によって制作されるものではなくて、学び、そのものであると説いている。

『画家は孤独でなければならぬ』

ダヴィンチは人間嫌いだったのかもしれない。自分にもそういうところがあるので、よくわかる。いまより若いころ、人と話していると、自分でももどかしいくらい攻撃的になることがあり、あとで自己嫌悪になり、もう誰も傷つけないようにしたいから、できるだけ人を避けてしまう。人がいないところを探してしまう。

たとえどこまで逃げても、人間は人間であることから逃れられない。獣は自分のなかにいる。草枕ではないけど、どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。ダヴィンチがここでいう孤独とは、なにかから逃げるためではなくて、自分へ降りていくことなのだと思う。

『聞くところによると、レオナルドは清貧洗うがごとき日常のなかで、いつも使用人をおき、馬を可愛がって飼育した外に、いろいろな小動物を集めて、それらに並々ならぬ愛情をそそぎ、根気よく世話をした。たまたま小鳥屋の前を通りかかることがあると、彼は請われる代価を支払って、自ら小鳥を籠より出してやり、空中に放ち、彼らの自由を取り戻してやるのであった』
ヴァザーリ「レオナルド伝」

絵画論ではないけど、ダヴィンチの手記で、お気に入りの一文がある。

『人間に忠実なトカゲは、人間が眠っているのをみるとマムシと戦う。もしかなわないとわかれば人間の顔の上にかけあがって目をさまさせ、そのマムシが眠れる人間に害を加えないようにする』
ダヴィンチの手記、文學、動物譚より

きっと上記のこの文に、ぐっとくる人はいないだろうと思う。名言ではないから。誰が書いたかわからなければ「?」で終わって、ちょっと笑ってくれればいい方で、慰めるように狂人の筆を見ただろう。だけど画家はここまで自分に降りていて、そこから真摯に世界を見つめている。そのことを思うと、このようなおとぎ話めいた文のなかにも、涙を誘うような感動はある。

最期まで手元に残していた三枚のうちの一つ「洗礼者ヨハネ」。あの絵の呪力は、縄文土器や不動明王に内包(結界)されているのものと同じだと思う。原画を見たわけではなくても、伝わってくる情報はある。コードのような謎解きではなくて、その本質を見つめれば、西洋と東洋すら統一させる自由がある。

『手に触れた水は最後に過ぎ去ったもので、これからやってくる最初のものである。現在という時も、同じようなものである』Leonardo da vinch

『行く川の流れは絶へずして、しかも、元の水にあらず』鴨長明

ダヴィンチは謎が多い。あの有名な自画像の肖像画も、本人ではない可能性が高いという。自分も、たんなる自画像ではないと思う。だけど内面的な奥深さが表現されて、知られているレオナルド像と一致しているので、レオナルドと言われれば、あの顔が浮かんでしまう。いったん刷り込まれると、それを解除するのは難しい。洗脳の恐ろしさを、我が身に染みて感じる。

だけどダヴィンチの手記を注意深く読みこんでいると、そういう擦り込み(洗脳)から、解除されるときがある。レオナルドの顔とは、ほんとうはどういうものだったかと、憧れをもって夢想しているときの人の顔(自分の顔)そのものが、即ち彼の魂との同期。彼の顔なのだと直感する。すぐそばにいるということ。

いつも今ここにある(虚空)ように、彼の存在は大いなる存在によって、あらかじめ設定されている。空海もそう。だから謎めいているのだと思う。自分を捨てて、神秘の世界に辿り着いたものは、予言者としての秘密を帯びてしまう。結界と呼んでもいいと思う。その世界と、約束ができてしまう。

このことをどう考えるかだと思う。本人もこんな言葉を残している

『読者よ、もしも、私に感心をもつなら私のノートを読みたまえ』

画家を興味や好奇心で見るのではなく、その絵画を心眼で見る。洗礼者ヨハネの指を見るのではなくて、指が指し示している方向に、なにがあるのかを、自分で確かめようと心する。換言すれば、自分に降りていく。画家が残してくれたものは、そのための灯りであり、ギフト(地図)なのだから。

『画家の心は鏡に似ることを願わねばならぬ』Leonardo da vinch

感謝と自戒をこめて。


2014/03/24

桜色


善通寺に。
 
涅槃桜に心を奪われた。帰宅後、しばらくしてからふと、こんなことを思った。

自分なんてちっぽけで、頭が悪くて、不器用で、平凡で、なんの取り柄もなくて、なんの役にも立たなくて、地球は私なんて関係なく回っていて、私がいてもいなくても、世の中にはなにも関係がないし、生きている価値なんてない。そんなふうに後ろ向きな人ほど、きっと、桜色のエネルギーを持っているのだろうなと、直感した。

他人の目を気にするよりも、自分の目を気にする方が、ほんとうは難しい。
 
後ろ向きに考えられるということは、裏を返せば、内なる目の存在証明。他人よりも、自分の評価を気にする目(芽)を持ち、浅い感傷心や、自己嫌悪、焦燥感を乗り越えて、自分を克服さえすれば、その枝からは、桜色が染まるんだろうな。

涅槃桜は、大師堂の裏で、人目を避けるように早咲きしていた。
 



2014/03/16

月と六ペンス


モームの月と六ペンスを読む。

40才で株式仲買人から画業に専心した、ゴーギャンにインスパイヤされて創作された小説。心が渇いていたのか、水を飲むように読みやすかった。世俗的な成功や常識に捕らわれない鬼火。火宅の人。

芸術における魔性のこと。ただ、泣く女を描いたピカソよりも、妻のカミーユを亡くしてから、人物画を描かなくなった(描けなくなった)モネの方が、僕は美しいと思う。実際、二人の原画を見たことがあるけど、心を動かされたのはモネ。絵は正直だと思う。

大雨に散る梅の花を見つめていると、見ているモノと見られているモノの真空に、なんとも言えない妖しみや直観が落ちている。もののあはれ。そういうものを静かにすくいとって、別の空間に再現してくれるのが、芸術だと思う。だからこそ、真意に届かぬという憂いに、作り手は苛まれる。

『この世界でもっとも貴重な美というものが、まるで浜辺の石ころみたいに、ぼんやりと通りがかった人が、遊び半分に拾えるようにころがっているなどと、きみはどうして考えるのだろうか。美はすばらしいもの、ふしぎなもので、芸術家が、魂の苦悶のうちに世界の混沌から作り出してくるものなのだ。
そして、それが創り出されても、すべての人間にそれがわかるということにはならないのだ。それを認識するには、その芸術家の冒険をくりかえさなければならない。それは、芸術家が歌ってくれるひとつの旋律であって、それをふたたび自分の心の中で聞くには、こちらにも知識と感性と想像力とが必要になってくるのだ』月と六ペンス

『私は見るために、目を閉じる』ポール・ゴーギャン
"I shut my eyes in order to see." Paul Gauguin

ゴーギャンの大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」。図録からでも漂ってくるこの絵の不思議は、なんだろうなと思う。記憶というのか、夢というのか。曼荼羅のような、楽園への誘いがある。

西洋文明に絶望したゴーギャンは旅にでるが、追い求めた楽園はどこにもなく、その憤りこそが絵画へのモチベーションだった。画家はこの絵を一ヶ月で一気呵成に描きあげたあと、砒素による自死に失敗してしまう。大作に描かれたのは、彼の目には見えていた楽園の権現であり、冥界なのだと思う。ゴッホやゴーギャンの絵には熱がある。見ていると、ちょっとけだるい感じになる。いやな感じではなくて、お酒を飲んだような、知恵熱で、頭がぼおっとしているような、それでいて気持ちのよい酩酊があり、その浮遊感が、描かれた風景に、そのままずっと続いていくような永遠と安らぎを与えている。

楽園はどこにあるのだろうか。

そのような哲学的な問いに対して、ゴーギャンは人生を賭して答えた。見るために目を閉じる。それは現実にはないから、目をふさいで白昼夢を見ることではなくて、いまここにある現実を、背後に潜んでいるものをあらわにするまなざしを持って貫き、見通すことだと思う。