2019/04/28

日輪と躑躅

ちょっと遠出して犬の散歩してたら、軽トラの知らないおじさんに「ツツジが咲いたから見にきて」と言われた。ちょっと不意打ちだったけれど、わかりましたと返事した。それから数分後に、なぜかふと脇道に逸れたくなって、山道を進むと、いままで知らなかった、とても気持ちのよい古い神社に辿り着いた。すぐにさっきの人が、このあたりの神さまの使いだと気がついた。


こういうことはよくあるし、ああこの人はなにかの使いで、メッセージを伝えにきたのだなあと、感じることがよくある。それは個人的なものだけど、現実に徴(しるし)が出るので、リアリティがあって、確かなものだ。

そういうことが続くと、実在するこの世界は、もうひとつの世界(時空)と重なりあって存在してるということを、特別なことをしなくても、普通に暮らしているだけで、わかるようになる。ただ当たり前だけど、人の背後にあるものは見えても、自分の背後にあるものは見えない。

身体は器(乗り物)なので、直接入っているものを自分で確かめることはできない。だから私は神さまの化身だと自分で言う人は、そもそも矛盾してる。知らず知らずに、身体を貸して、誰かに影響を与えていたり、メッセージを伝えてしまうものだから。

それは恐ろしくて、同時に素晴らしいことでもあるけど、身体は器であることを自覚しているだけで、自分を失わずに、コントロールすることはできる。心に穴が空いて、もしも魔が入っても、小さな違和感や心の奥の動きに敏感でさえいれば、創造力やイメージを使って、エネルギーを変換することができるから。

そもそも神社や寺院以前に、山があり、谷があり、鎮守の森があった。その自然のなかに、人々がなにかただならないものを感じていたから、シンボルができた。神さまは後から、人間によってそう名付けられた。その無名のエリアに意識を合わせるだけで、波長が乱れていても自然と整う。±0の場所だから。

人間の業や怨念が渦巻いている場所に入ると、知らず知らずにそのエネルギーを請け負ってしまうことがある。溜まったエネルギーを変換できないでいると、内側から歪んでしまう。そのことに気づいている人は、神社や寺を大切にする。逆を言えば、神社や寺が集中している場所は、それだけ業が深く、怨念が強い。

役目がある人はともかく、心の奥に違和感を感じているのに、自分を押し殺して暮らしていると、次第にその渦の中にいることすら気づかなくなる(そういう人たちの正義が一番怖い)。宇宙の果てがイメージできないように、歪みは自分も歪んでいるとわからない。ちょっと外に出るだけで、奇跡が満ち溢れているのに。

自分が知っている世界がすべてだと思いこんでいると、日常に兆しが現れても、可能性がないので、気づくことができない。でも±0にして、自分の知らない世界も迎える準備を整えていると、ちょっとした違和感に気づくようになる。理由もなく心に残ったり、なんか気になることって、ちゃんと理由がある。

翌日、おじさんに言われた通り、躑躅(ツツジ)を見に行ったら、見上げた空に日輪が現れた。昨日でも明日でもなく、その日そのタイミングでなければ、日輪と躑躅を同時に見ることはできなかった。偶然なんてこの世にはない。