2014/05/17

禍時


陽が伸びてきた。

朝の斜光は黄金、夕刻は銀色を感じる。朝陽はとてもやわらかくて、繊細。夕刻は崇高な気がする。どちらもやさしい。力が漲ってくるのは朝だけど、夜を迎えるための藍色の世界には、足音を立てないように、そっと階段を下りていくような静けさと平安がある。沈黙の色というのか、たかが人間がなにも考えてはいけないような、厳かな空気がある。

ある風が強い日、日中は樹々が揺れているのを眺めていた。窓ごしに見ていると、風は直接体に当たらない。でも窓の音や動きで、風景は暗示されて感じられている。やがてぼんやりしてくると、樹々が自ら揺れているのか、風によって動かされているのか、どちらなのかよくわからなくなってくる。そしてなにかが現れてくる。

昨晩も風が強かった。深夜、犬を連れて走ったけど、息もできないような向かい風に、恐ろしくなって、途中で引き返してきた。枝かなんかが、飛んできて、突き刺さりそうな気がしたから。森は暗く、恐ろしい声でうなっていた。(いますぐ引き返せ)と言っているのだと思った。でも月がいつもより綺麗だった。ある地点で、大杉の隙間から、月が見える。この月がとても神々しく、美しい。杉の大木が揺れていて、ミィーミィーと猫のように鳴いている。無名(謎の獣)が枝を渡る。その背後に、黄金が射す。銀色の夜が月に裂ける。自分にしかわからない、ある地点に限られている。そのお気に入りの風景は、いつでも思い出せる。

その夜景を描きたいとは思う。でも未完成の絵がたまりはじめているので、我慢している。絵肌を気にするようになってから、かなり制作が遅くなっている。制作に集中できても、絵肌や細部に凝り出すと、絵は果てしなく遠い。でもそれでいいと思う。それがいいと思う。いつか死ぬのだから、じっくりいきたい。絵は生きて呼吸している。

古家や古道具がそうだと思うけど、手をかけ続け、まなでて、眺め続けたり、使い続けたりしていると、やがてその物体に、なにかが宿る。それらしい顔をしてきて、見るものを見つめてくる。そこまでくると、物体は見せ物ではなくなり。量産できなくなる。河原で拾った石を、部屋に飾って眺め続けていれば、石は物質的価値を超えて、ただの石ではなくなってくる。

お気に入りの石や流木を拾って、なんとなく飾る。名も無き草花を、生ける。そうして眺めていると、自然はなにかしら、答えてくれる。透明な風が体を突き抜け、(気に入ってくれて、ありがとう)と言っているのがわかる。本人にしかわからないような美しさを感受する機微のまなざしは、きっと社会の偽善も見破る。


青い時間がやって来ると、音楽をとめる。すると川の音に合わせて、カエルの声が聞こえてくる。オタマジャクシは川の五線譜に描かれた創造主の音符だと思っているので、カエルの合唱は生命の成長の徴(しるし)。沈黙の色は、オタマジャクシのころには聞こえなかった音を、崇高な時間に乗せて届けてくれる。

青い時間の崇高さって、(これからあたたかくなるというのに)行ったこともない極北の時間に繋がる。静かで、やわらかくて、やさしくて、厳しくて。沈黙って、きっといまここに在る場所から、空間も時間も持たない場所へのうつりかわり。無限って不死だから、どこか暗黒の地のイメージがある。底なしで恐ろしいのだけど、同時に究極的幸福で、杉の奥からかすかに漏れてくる、月の光のような安らぎもある。

『生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間も持たない心である。こうした心は無限の拡がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である』Krishnamurti

青い時間に、金色の蜘蛛が顔の前にすっと下りてきた。米粒くらいの、高貴で小さな蜘蛛。なんとなくうれしかった。金色の糸を編んでくれたらもっとうれしいのだけど。あの極小の蜘蛛は、金色の糸でインドラの網を編んでくれるんじゃないだろうか。結び目は美しい水晶の宝珠が縫いこまれている。ひとつの宝珠に他のすべての宝珠が映りこみ、すべての小さな小さなひとつぶの水晶のなかに、宇宙そのものを表現している全体が含まれている。


闇が近くなる青い時間を禍時(まがとき)と呼ぶらしい。黄昏時(たそがれどき)とも言うけど、それはたぶん、まだ夕焼けの名残りの赤さに注目した表現だと思う。深い藍色が広がるその時間は、古来より魔物に出会いやすいと考えられていた(逢魔時)。だけど深い藍色が広がる時間に出逢えるのは、魔物というよりも、霊性だと思う。すっと天上から下りてきてくれた金色の蜘蛛に魔性があるとしたら、それは災いを起こすものではなくて、見えているものに、目に見えないものを結びつける力であり、河原で拾った石に唯一無二の魂を宿す霊性。深い静けさや安らぎは、目に見えない幸福だと思う。

『あなたのすべての幸福は、たとえそれがどんなものであれ、その原因はあなた自身であり、外部の物事ではない』Ramana Maharshi