2012/03/27

呼ばれる

呼ばれる、という表現がある。たとえば森に呼ばれたような気がした、とか、川に呼ばれたような気がした、とか。自然に限らず、なんだかよくわからないけど、導かれるようにここに来てしまった、という感覚。ときどきそういう言い方しかできないときに使ったり、話を抽象的に、また詩的な方向に広げたいときにあえて使ったりするけど、ほんとうのところは、僕はこの呼ばれるという感覚が、よくわからない。言い換えれば、感じないし、聞こえない。そんな耳は、少なくとも、僕にはない。

呼ばれるのではなく、いつもこちらの意思で、そちらに向かっている。何枚かカードが配られていて、その一枚を選んで行動しているのは、ほかならぬ僕自身である。その選んだカードによって、不可思議な力学が働くことはあるけど、誰かに選ばされているということは、よくよく掘り下げて考えてみると、ないような気がする。誰かを、特定の神に設定することもない。今ここにいる自分自身が、強く欲しているからこそ、そのカードを選んでいる。


なにも答えてくれないような、圧倒的な存在、事象に対しては、いつだってお邪魔しているという申し訳ない感覚がある。気になるお店の暖簾(のれん)をひょいと上げて、中をこっそりのぞき見させてもらっているというような。でもいつかお客として呼ばれたいとも思っている。しかしそのように願うことそのことが、呼応力を打ち消すのだと思う。

毎日毎日、毎瞬毎瞬、いろんなカードが目の前に配られているような気がする。そんなことを、今朝、ふらっと立ち寄った森の中で考えていた。






2012/03/18

春と修羅

わたくし、という現象は、仮定された有機交流電燈の、ひとつの青い照明です。あらゆる透明な幽霊の複合体。風景やみんなといっしょに、せわしく、せわしく、明滅しながら、いかにもたしかに、灯り続ける。因果交流電燈の、ひとつの青い照明です。

「光は保ち、その電燈は失われ」



心象の灰色鋼(はいいろはがね)から、アケビの蔓は雲に絡まり、野バラの藪や腐食の湿地。一面の一面の天国模様。正午の管楽よりもしげく、琥珀の欠片が注ぐとき。怒りの苦さ、また青さ。四月の気層の光の底を、唾(つばき)し、歯ぎしり、行き来する。 

おれはひとりの修羅なのだ。風景は涙に薄れ。

砕ける雲の、眼路(めじ)をかぎり、玲瓏(れいろう)の天の海には、聖玻璃の風が行き交い、ZYPRESSEN(糸杉)、春の一列。黒のエーテルを吸い、その暗い足並みからは、天山の雪の稜さえ、光るのに。翳ろう波と、白い偏光。誠(まこと)の言葉は失われ、雲は千切れて空を飛ぶ。ああ、輝きの四月の底を、歯ぎしり、燃えて、行き来する。 

おれはひとりの修羅なのだ。玉髄(ぎょくずい)の雲は流れて、どこで鳴く、その春の鳥。

日輪青く、翳ろえば、修羅は樹林に交響し。陥りくらむ天の椀から、黒い木の群落が延び、その枝は哀しく茂り、すべて二重の風景を、喪心の森の梢から、閃いて飛び立つカラス。気層いよいよ澄み渡り、檜もシンと天に立つころ。

草地の黄金を過ぎてくるもの、ことなく人の形のもの。ケラをまとい、おれを見るその農夫。

(本当におれが見えるのか?)

まばゆい気圏の海の底に、哀しみは青々深く。ZYPRESSEN、静かに揺すれ。鳥はまた、青空を斬る。誠の言葉はここになく、修羅の涙は土に降る。新しく空に息づけば、ほの白く肺は縮まり、この躰、空の微塵に散らばれ。銀杏の梢、また光り、ZYPRESSEN、いよいよ黒く、雲の火花は降り注ぐ。

                            ★

拝啓 宮澤賢治様

「雨ニモマケズ」「春と修羅」の一部を朗読にて筆記、原文と照らし合わせて、僭越ながら再構築させていただきました。言霊は原文に忠実ですが、原文にはない句読点はもちろんのこと、段落、漢字変換に相違があります。現代風にしたかったわけではありません。ただ何度も詩文を耳と目と指で噛みしめる中で、自分の背骨の芯の芯に、すうっとあなたが通り過ぎる感覚を、誰かと共有したいという想いが沸いてきたのです。

tact & inspiration をありがとうございました。イーハトーブでお会いできる日を楽しみにしています。

敬具

2012年 3月18日 夜 榊和也


2012/03/01

水鏡(みずかがみ)

国境の長いトンネルを抜けると・・・ではなく、カーテンを開けたら、そこは雪国だった。目頭がツンとした。白銀に目を細めた。見慣れない雪化粧に心が躍った。ここ神山では珍しいことらしく、十年前に比べると、最近はめっきり雪が積もらなくなったとぽやいていたお隣の樋口じいちゃんも、その日はどこか、顔がほころんでいるようにみえた。

さっそく朝から散歩がてら、雪化粧をカメラにおさめながら歩いていた。しかしすぐに撮るのをやめてしまった。カメラが散歩の邪魔をしているのに気づいたからだ。いったん家に戻り、カメラを置いてから、今度は道を反転させて、道中にある森の中に入った。しかし足元はぐちょぐちょ、上からは雪の塊がどさっと落ちてくる危険地帯で、途中で引き返した。森の出口でなんとなく、ポケットに忍ばせていたIphoneカメラで一枚だけ撮影した。最先端で流行のこのスマートフォンとやらも、ちやほやされるのは今の今だけ。あっという間に忘れられてしまう哀しい性を背負っている。もちろんミーハーである自分も含めて。だからこそ、という悪あがきだった。


家に戻り、しばらくしたら、なんとなくカーブミラーのことが気になってきた。鏡、のことである。さっそく調べてみると、鏡の起源は人類と同じほど古く、最古のそれは水鏡(みずかがみ)に遡ると書いてある。鏡の語源はカゲミ(影見)、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語。つまり蛇の目)。影身はなんとなくしっくりくるが、蛇の目はしっくりこない。これは自分が東洋人だからかなと思う。話が逸れてしまうので元に戻すと、水面に映る自分自身をはじめて見た最古の人類は、その不確かなおぼろげに、神性と畏れを感じたのだろうと思う。近代になってガラス鏡が発達して、おぼろげだった世界がはっきりと見えるようになった。それでもどこか頭の片隅で、鏡をただたんに光を反射する表面と考えられないのは、最古の人類が見た水鏡のおぼろげに、揺るぎない真実があると心の奥の奧で確信しているからだと思う。

鏡の面は世界の「こちら」と「あちら」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界があるという観念は世界各地で見られている。鏡は映像が映っているのではなく、表面で跳ね返された、もう一つの世界からの「完全なる拒否」を示す残像ではないだろうか。散歩をしながら写真を撮っていると、それがよくわかる。その場で感じた大切なものや、いつまでも、今生を超えて残したいと思うものに限って、映らない。換言すれば誰かに伝えようとすることそのものが人間の閉じられた輪を作ることであり、大いなる秩序から距離を置くこと。覚悟のない撮影は、散歩の邪魔どころか、逆にあちらとこちらの境界を厚くしているように思う。

「写真は見たままの現実を写しとるものだと 信じられているが、そうした私たちの信念につけ込んで写真は平気でウソをつく」ユージンスミス

最古の人たちが覗いた水鏡(みずかがみ)には、映し出されたおぼろげなこちらの世界と同時に、その下でゆうゆうと泳ぐ小魚や、苔のついた丸っこい石や藻、微生物の足音や、ゆるやかな波の歪みと反応し合う世界を、二重に見ていただろうと思う。そこになんの矛盾もなく、ふたつの世界を行ったり来たり。

償うように、祈るように、時間をかけて、水鏡を覗くように。融合したいものだなあと思う。

追伸

鏡の語源、影身と蛇の目。前者を東洋、後者を西洋的解釈と短絡的に考えていたけど、掘り下げてみると誤解があったようで、古代の人々には蛇を神と崇めていたらしく、蛇信仰は大和朝廷の成立とともに、文明化されていくなかで表面から姿を消していったらしい。しかし今も鏡餅などに受け継がれていると。いわれてみれば縄文土器は蛇を連想させる。吉野裕子氏は縄文人が蛇を神格化するにいたった理由について「蛇の形態が何よりも男根を連想させること」「毒蛇・蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃の下に倒す強さ」とこの二つをあげている。参考「蛇・日本の蛇信仰」
 
蛇は怖いし、やばい。気持ち悪い。自分は、そうやってこちらから判断して、結界を張っている。太古の人も命を失ってきただろうと思う。しかしすんなり土器などに渦巻きの紋様などを組み込んで、その神性を取り込み、崇めている。境界線がなかったのだろうと思う。
 
やがて仏像など、崇める対象に人を模すようになってくる。それでも人知を超えて、心の奥の奧に迫ってくるものがある。エロスとタナトス、そんな二言で割り切れるようなものでもなく、もっと判断のできない世界に憧れがあって、だとしたら水鏡のおぼろげは、たしかに蛇の目だなあと思う。