2017/04/29

不思議に満ちあふれているこの世界

神光寺にて。まるで演奏会に来たような、甘い香りと熊蜂のワルツ。ここののぼり藤はほんとうに綺麗なんだけど、霊性が高いモノノケのようにも思えてしまう。
 
自分の意志ではなくて、急に誘われてここに来たんだけど、たまたま青と赤の絵を描いていて、藤の色はちょうどその間にあるから、ふたつの色が重なったような気持ちになった。
 
ふと思い出したことがある。数年前、ある不思議な体験をした。撮った覚えのない写真が、カメラに映っていた。そのことは、すっかり更新するのを忘れていたブログに書いてあった。

「気になる出来事」http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2012/09/blog-post_19.html

実際この体験をした現場は、神光寺の近くだった。たぶん藤の花が教えてくれたんだろう。時間や空間を超える存在があることを、この世が不思議に満ちあふれていることを。

 

花と鴬

ずいぶん前に、東京でお世話になっていた人に、自宅のパーティーに誘っていただいた。そのころは気の利いたプレゼントを買うお金もなくて、空き瓶に入れた花の絵を描いて、持っていった。名の知れた人がたくさんいて、緊張してしまい、絵を渡すタイミングを失って、こっそり部屋の隅に置いた。

パーティーが終わりかけたころ、その人は花の絵に気がついた。固まってじっと見ていたので、声をかけるのを躊躇していたけど、思いきって「僕が持ってきました」と背中に声をかけると、ちょっと吃驚したような顔をして、振り向くと「この絵、ちょっとヤバイよね」と言って、逃げるように離れてしまった。なにがヤバイのかは、そのときはよくわからなかったけど、いまはわかる。なにかいけないことをしてしまったような気がして、すごく恥ずかしくなって、誰にも見つからないように、その絵を鞄にしまった。

本人しか覚えていないような話だし、そのことが原因ではないけれど、東京にいるのがつらくなってきたのは、たぶんそのころからだったように思う。

それから何年たっただろうか。

また同じような花の絵を描いている。誰にも送ることのできない、ヤバイ絵を。気の利いた花瓶にも入れてもらえない、気の毒な花は、描いている間に、しおれて落ちてしまう。なにか自分のせいのようにも、思えてくる。でもそれで描けなくなるほどの繊細さは、自分にはない。

目には見えないけど、花は動いている。でも動くなとは、言えるはずがない。本体から切り離されて、エネルギーの流れが変わってしまった花は、しおれるのも早い。花から奪った時間は、自分の中に流れてくる。その時間が、魂のなかに微睡んでいて、自分を生かしてくれている。

綺麗な花の絵は、うまく描けない。花を汚しているような、気持ちにさえなることがある。自虐ではなくて、たぶん自分のなかに、花のようなタンベラマン(気質)が、欠けているからだと思う。後ろめたいからこそ、見えてくるのは、そこにある花ではなくて、そこにあった時間(思い出)だろうか。

鳥が歌うように絵を描きたいと言ってたのは、モネだったろうか。ちょっとかっこよすぎる台詞だけど、本心だと思う。もしも小鳥が、自分が歌っている理由を、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだと、ヴァレリーは言った。本人も気づいていないような巣箱に、大切ななにかが隠れている。

うちのまわりに来る小鳥のなかに、鳴くのが下手なウグイスがいた。ケッチョ、ケッチョと、ぎこちないけど、なんだか可愛いくて、心に残ってる。小鳥はみんなに喜んでほしくて、歌っているわけではないだろうと思う。歌うことそのものが、小鳥にとって生きることだった。

あのウグイスは、何処にいったのだろうか。もし歌がうまくなって、ほんとうはすぐそばにいるのに、他のウグイスと区別がつかなくて、わからなくなってしまったとしたら、それはそれでよかったなあとは思うけど、すこしだけ寂しい。


 

日本の春

雨が続いているせいか、不思議な夢を見る。昨夜は夢で結縁勘定を受けた。お坊さんに案内された、地下の暗いお堂で、目隠しをして、後ろに花を投げると、空中で花が散った。曼荼羅の上には、昨日の桜のように、白い花弁が散らばっていた。

この時期に山を越えると、道中で桜が降ってくる。初雪のときめきが、溢れるように蘇る。記憶と現実に、切り離されていたはずの風景が、もののあはれを知って、ひとつになる。雲のうえに隠れていた冬の花、日本の春には雪が降る。



メビウスの帯

樹齢千年の大楠へ。場所は頭に入っていたけど、ずいぶん迷ってしまった。

想像以上の霊性だった。誰もいない孤高の風景を、脳裏に描いていたけど、子どもたちが遊んでいた。老女が根を周りながら、なにやら念仏を唱えていた。こんにちはと声をかけてから、すこし離れてスケッチをしていたら、足音もなく、老女が近づいてきた。

すれ違っただけなのに、白蛇のような、絡みつく視線を感じた。この大樹の、守人だろうと思う。老女が去ると、変身したように、赤子を抱いた女性が現れた。生と死を抱いたような、安らかで不思議な時間だった。

羅針盤が惑うのか、大切な場所に辿り着くときは、いつも迷っているような気がする。わかりにくくて、簡単には辿りつけないように、結界がかかっている。でもその結界をくぐると、一気に世界が変わる。

テオドール・ルソーや、クールベのフラジェの樫の木の絵を、思い出していた。広い野原に、ポツンと突き出した千年樹は、絵でしか伝えられないような、独特の質感を持っている。

向こうからやってきた、風景と呼ばれているものと、こちらに微睡んでいる、魂と呼ばれているものは、メビウスの帯のように、ひとひねりに繋がって、完結している。

 

なにかがあるから表現が始まる

峯長瀬の大ケヤキに。廃屋の掃除をしているらしく、大ケヤキのそばに女の人がいた。何度も通ったけど、この場所で人間に会ったのははじめて(ほんとうに人間だったのだろうか?)。ちょっと集中できなかったのと、空が曇ってきたので、素描を中断してカメラを向けたら、まるでカーテンのように、雲がぱあっと散って、太陽の光が射しこんできた。

それからはずっと曇り空で、帰宅してすぐに雨が降り始めた。天気の機微になにげない行動がシンクロ(同調)すると、なにかに導かれているような、不思議な気持ちになる。実際出かける予定はなかったし、朝から路面が濡れていて、雨のリスクが高かった。それでも呼ばれたら出かける。意識はいつも無意識を追いかけている。たまたまと言われればそれまでの話に、自分では気づけない存在の影がある。

なにもないところから表現が始まるのではなくて、なにかがあるから表現が始まるのだろうと思う。違う言語で精霊に語りかけられているような、手が届かないもどかしい気持ち、わかってもらえないだろうなと、諦めてしまいそうな、他の人からは見えない暗い場所に、神々は宿る。

数日前、メダカの水槽の水を入れ換えていたとき、小さな一匹を、誤って外に流してしまった。探したけど、見つけることができなかった。悲しくて泣いてしまうような純粋さはもうないけど、気づかなかったことにするような鈍感さもないので、しばらくは棘が刺さったような気持ちになった。

こういう場所に、性霊(霊性)が宿る。その棘も、時間が経てば、自然に抜けてしまう。生きているから。他の人には見えない、でも大きな意味で繋がっている。そういう大宇宙のような構造を、小さな心が持っている。

 

宇宙の書

「すべての見えるものは見えないものに、聴こえるものは聴こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく考えられるものは考えられないものに付着していよう」ノヴァーリス

薪割りをしていると、ツルっと表皮がむけることがある。その皮に虫食いの模様があると、手紙を受けとったような嬉しい気持ちになる。その模様に、意味なんてないのかもしれない。でもなにか本質が隠れているような、宇宙の暗号を見つけたようなときめきがある。

なんの意味もないような自然の模様に、隠された深淵がある。芸術にコミットした人なら、わかると思う。突き詰めると芸術家は、ここを目指していて、自然と人間の間で、揺らめいている。草木が見ていた夢の欠けらを、ほんとうはひとつなのに、離れてしまったものを、拾い集めるように。


粉雪の森

樹々や草花には申し訳ないけど、年に数日しかないので、雪が積もると嬉しくてしかたない。雪は景色を劇的に変えてしまう。凍りつく樹々に絡みつく雪の純白が、内側に宿る霊性を引き立てている。自然は厳しいほど美しい。

家の前は谷になっているので、吹雪いてくると、一度は落ちた雪が、ふたたび風に乗って舞い上がる。ふわふわと落ちる雪と、重力に逆らう雪を同時に見ていると、見ているこちらが無重力になって、宇宙空間に微睡んでいるような夢心地になる。

雪の森を歩いていると、ときどきゴソッと砕けた粉雪が落ちてくる。淡い光に照らされて舞う粉雪は、ダイアモンドのように煌めいていて、それはただの自然現象なのだけど、全てが計算された、天上の悪戯のような、精霊の存在をすぐそばに感じて、ときめいてしまう。

なにげないことに美を感じたり、自然現象にしみじみとするのは、たぶん地球で、人間だけだと思う。なんでそういう機能が、人間に与えられたかを、自分の頭で、深く深く考えていると、やがて雪が溶けるように、自然と道が開けてくる。

 
 
 

魂の影

ひどく体調を崩していたカムイが、やっと回復してくれて、ホッとした。空とカムイは元気があり過ぎて、手に負えないところがあるのだけど、元気がないよりはずっといい。

特にカムイは自分にべったりなので、身代わりに近づいてきた病(邪気)を、引き受けてくれた自分の影のように思えてしかたない。彼らはたまたま犬と呼ばれているだけの、なにかだと思ってる。宮沢賢治のガドルフの百合や、タルコフスキーの映画に出てくるような、物語を横切る、安らかな黒い影。ペットの話ならしたくないけれど、魂のことなら話したい。

実感として、動物に人間の言葉は通じない。でも想いは伝わっている。人間よりも感度が高いので、どれだけ激しく暴れても、無造作に置いてる絵を傷つけたことは、いままで一度もない。草や木や花も同じだろうと思う。人間の言葉は持っていない。でもそれぞれの言葉を持っている。

ある夜、赤い橋の手前で、車にひかれた子犬を見つけた。藍染めの着物で包んで、弔った。それから突然迷いこんできた、二匹の捨て犬。きっとそのへんに咲いている小さな花にも、理由があるのだろうと思う。人間の都合で物事を見ていると、違う回路の言葉は汲み取れない。

いつだったか、長くゆるいカーブで、ニコニコと手を振ってくれる、お婆さんがいた。森のなかで、風もないのに、揺れている草を見ていると、名前も知らないその人のことを、思い出すことがある。風の音が聞こえる、吹きさらしの、あのゆるいカーブには、いまもなお、汲み取れないままの言葉が、流れている。

生命の轍

薪を割っていたら、ナスカの地上絵のような模様が出現した。太陽のような、クモのような。珍しくはないけれど、直前まで剣山の聖なる岩を素描していたこともあって、古代の地層に触れたような不思議な気がした。

ナスカの地上絵って、鳥の目で描かれたものだと思う。人間って、ふたつの目がある。外側の目と、内側の目。内なる目は、鳥のように全体を見通したり、夢のように心を泳ぐことができる。木の中にいた虫は、その暗闇を内なる目で照らし、古代の夢を泳いでいたのだろう。だから地上絵とリンクした。

こんぴらさんで見た、若冲の花丸図には、個々の花や葉に、虫食いの穴やシミが描かれていた。内なる目で美を追及した若冲にとっては、夢を通すその穴が不可欠だった。画家が通したその細い糸は、太古の時間と今ここにある未来を織りなして、ただ綺麗なだけの花に、ありのままの生命を宿した。

虫に感情や意思はないのかもしれないけど、生命がある。シンプルに生きている虫の轍や、自然の織りなす芸術は、ときに人間の眠っていた感情を呼び起こす。内なる目は時間の宇宙を泳ぎ、生命の輝きに呼応している。外側の目と内側の目が重なる場所に、理由のない美しさや驚きがある。

 

太古の記憶

ずいぶん前に自分で作った家具を、薪にしようと庭で輪切りに切っていたら、強烈な香りが漂って、驚いた。しばらくして、それがクスノキだとわかったのは、たまたま描いていた、大楠の木炭画の前に置いたときだった。よく似ているなあと思って、模様を調べたら、やっぱりクスノキだった。

楠のこの独特の香りは、古くから天然の 防腐剤として利用されたり、強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的にカンフル剤と例えて呼ぶことがあるらしい。「臭し(くすし)」、「薬(樟脳)の木」が、「クス」の語源だと言われている。

「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」

たしかになにかが、復活するような香りだ。眠っていたなにかが、むくっと立ち上がる

切った覚えはないので、たぶん拾ったか、もらった木だと思う。この小さなクスノキと大きなクスノキの出会いは、本人も気づいていないような、無意識の世界で進行した。もう香りはほとんどしなくなってしまったけど、木のなかには記憶が眠っている。

木や石は、深く眠っている。瞑想をしていて、なにかを考えている。そのなにかが、無意識に働きかけている。

嗅覚は五感のなかで、唯一大脳新皮質を経由せずに、記憶や感情を処理する部位にダイレクトに接続しているらしい。たしかに匂いを感じるときと、なにかをフワっと思い出すときの感じは、よく似ている。

でも嗅覚が思い出す記憶は、限定された自伝的要素だけだろうか。個人的な時間を超えて、終わりのない旅を、逆走しているような気持ちになることがある。

人間は見たいように物事を見る。そんな不自由な人間に対して、ただ其処に在るはずの自然が、手を使わずに自分を動かしているような気がする。覚えていない思い出が眠っている、無意識の海へ。

楠の香りは夢のように、太古の記憶を呼び起こす。

 

木を植えた人

2016年最後の夜、ジャン・ジオノの木を植えた人を読んだ。
 
「この人と一緒にいると、心が落ちつく」
 
呼吸をするように燃える薪の炎が、木を植えた男のイメージと重なった。
 
「人間は破壊するばかりの存在というわけでもなく、神に似た働きもできるのだ」
 
ジャン・ジオノの木を植えた人は、戦争の影響をまったく受けなかった。彼が実在するかしないかは、問題ではないだろう。ジャン・ジオノの木を植えた人は、自分の心の中にいる。
 
明けて2017年、初詣は宇佐八幡神社に、そのまま明王寺に行って、大楠と桜の縁を結んだ。まるで花道のように、道中でいくつものケセランパサランを拾った。明王寺で引いたおみくじには
 
「わがおもう 港も近く なりにけり ふくや追手の かぜのまにまに」
 
とある。風に守られているようで、ホッとする。

神社の鳥居の下に落ちていた、白く輝く小さな綿毛。季節が変わる頃に、この美しい羽根は、桜の花に生まれ変わるだろう。

世間の流れとは別に、自分の中に流れがある。その風に乗れば、何処までも飛んでいける。その風は何処から吹いているのだろうか。

世間の流れに合わせなくても、内なる大海に帆を立てれば、ワグナーのように舟は進む。

 
 

前世の夢

夢を見た。どこか遠い異国の密林、大きな虎が上にいて、動けない。虎の顔が近づいてきて、ああ、食べられるのだなあとすっかり諦めて、抵抗せずに、静かに目を閉じたら、夢から覚めた。雨雲が朝の光を隠していた。

台風が近づくと空が赤く染まるように、低気圧が近づくと不思議な夢を見る。どこかで見たことがあるイメージだった。法隆寺で見た、玉虫厨子の捨身飼虎図を思い出した。

寝る前にブッダの本を読んでいたから、間接的に記憶が呼ばれたのだと思う。夢であれ、ジャータカ(釈迦の前世)の物語に触れたのは、光栄だと思う。ああ、ここで人生が終わるのだなあと、後悔も未練もなく諦めて、目を閉じた瞬間、意識がスッと背中から首すじの辺りにかけて、上に抜けたときの、あの人生をリセットしたような不思議な感じが、いつまでも残っていた。

夢は目を閉じてから見るのだから、目を閉じて夢から覚めるという経験は、いかにも奇妙だ。目を開けていても、ほんとうはなにも見ていないことがある。網にとらえられない風のように、風景は流れて、水に汚されない蓮のように、永遠に咲く花がある。犀の角のように、ただ独り歩め。