2012/05/29

空也上人

日本には岩下哲士という天才画家がいる。http://www.kdd1.com/a-tosaltuka123.html


上の写真はてっちゃん(岩下哲士)の描いた空也上人。これなんかは実物を超えているかのようなリアリティがある。てっちゃんの魅力は子どものような天真爛漫さと言われることがあるが、それはちょっと正確ではないと僕は思う。耳障りがよすぎて、本質をはぐらかしている。子どもの絵も、もちろんおもしろいものがあるのだけど、外世界(対象)とうまく化合できないし内世界が充実していないので、味(うまみ)が発生しない。天真爛漫だけでは、料理として成立しないのだ。しかしながら外世界と噛み合いをはじめる5歳くらいからでも、そのころには漫画やアニメのタッチにいやおうなく影響を受けてしまうので、ありきたりなものになってしまい、心に深く刻まれるような迫力がなくなってしまう。

てっちゃんの魅力は、天真爛漫に同居している、毒。狂気と言い換えてもいいかもしれない。この狂気とは創造神。本来ありのままの自然のなかに宿っている仏性であり、畏れ(おそれ)のこと。だからこの毒は、薬になる。料理に例えるなら、本来の自然の味を最大限に引き立てる門外不出の隠し味といえようか。

狂気は無意識に揺さぶりをかける。狂気とは、区分を拒み、自と他を曖昧にする反社会的作用があり、だから自分のなかにある社会的要素が、危険と判断して、距離を置こうとする。換言すれば、自我を傷つけ、信じている価値観を壊すもの。でもそういうものから距離を置き、排除していったから、現代感覚はあらゆるものに存在している畏れに対して、感度が鈍くなっていったのではないのか。自然はコントロールができない恐ろしいもの。だからこそ、敬い、恵みに感謝する気持ちが当たり前に芽生える。本能はそれを知っているのに、洗脳の靄で、出口を見失っている。

「立場が変われば、あなたは考えを変える」「あなたの正しいと思っていることは、間違っている」「そのことを受け入れたうえで、あなたはどうするか」。てっちゃんの描く空也上人の目は、そんなふうに人知を超えた場所から、問いかけているように僕には見える。てっちゃんはそのハンデと引き替えに、万物の声を翻訳している。

2012/05/17

その息を感ぜよ


陽射しが強い日には、メダカの水槽の水草から気泡が出てくるのがよくわかる。植物の呼吸、光合成は、水の中だからこそ、私たちに見える。もちろんそのへんの植物ひとつ、雑草ひとつも、この水草と同じように、ちゃんと呼吸をしているのだけれど、残念ながら人間の目には見えない。クマバチには見えるかもしれないけど。

空気を水のように描く世界観というのは、近代以前にはあったのだろうか。映像で頻繁に使われ始めたのは記憶に新しい。弾丸を避けるなどの娯楽映像から始まって、いまやスポーツなどのハイライトやダンスにまで普及している。驚きがあるのは感応しているからなのだけど、表層で受け取る要素が強いぶん、本質とはかけ離れていくような直感がある。換言すれば、芸としての深みはない。では本質に近いもの、芸として、なにがあるのだろうかと再考した。すると能が浮かんできた。能楽の足の動きは、水中のそれに近いと思う。スピードは劣るが、あの動きは、水中でも空気中でも、あまり変わらないような気がする。空気を粘度のある液体(気と言ってもいいのかも)として、受け流しているように見える。まるで蛇のようなすり足で、水の中を通る。

どういう回路で直結するのかよくわからないのだけど、僕の頭の中は、なぜだか「能」と「蛇」が結びついてしまう。その謎が、今回の水草からぼんやりと解けてきた。蛇は水中でも陸でも、同じ動きをしている。そんな動物はほかにないのではないだろうか。もしかしたら空中でも同じ動きをするのかもしれないし(龍)、呼吸さえできれば、宇宙でも同じ動きをするのかもしれない(ひも理論)。

粘度が違う領域を行き来する=彼岸と此岸を行き来する=時空間を行き来する。

いささか強引なのかもしれないけれど、だからこそ古(いにしえ)の人々に神格化されたのではないだろうか。

能の動きも水から空(くう)に在る。空を川の流れのように舞うその姿、万物の呼吸を映しているからこその演舞。「その息を感ぜよ」という教訓が、その花の奥に滴る蜜として、隠されているのではないだろうか。万物に宿る霊性に気づき、共にあるという実感を抱いて生きよという示唆が、その全体の動きに含まれているからこそ、型を守られて、普遍性(不変性)を獲得して、受け継がれてきたのではないだろうか。


 
 
 

2012/05/06

一心不乱


熊蜂が好きで、よく観察している。飛び方が好きで、調べてみるとおもしろくて、まだレイノルズ数を計算に入れていなかった昔には、航空力学的には飛べるはずのない、ずんぐりむっくりの形なのに、なぜか飛べているということから、不可能を可能にする象徴であり、その飛翔が奇跡とされていた。レイノルズ数というのは空気の粘度のことで、たとえば人間が床の上でいくら平泳ぎしても、ちっとも前に進まないが、水中では粘度があるので進むことができる。飛行機のような大きな形のものには、ほとんど無視できる数値なのだけど、熊蜂のような小さな虫にとっては重要な力学で、そもそも彼らにとって空気はサラサラしたものではなく、水のようにネバネバとまとわりつく存在なのだ。このネバネバした空気。通用されている力学に洗脳されている状態では、想像すらできない。

人間の歴史のなかにも、不可能を可能にしている人がいたり、なんだかよくわからないけど、すごい、ということがある。よくわからないこととは、よくわかっていない方に原因があるのだと思う。不可能を可能にしている人や、グッと来る事象のまわりには、レイノルズ数のような、未知の力学が作用しているのではないだろうか。不可能を可能にしている人の作品や、なんだかわからないけどグッとくる事象のまわりには、通常の力学では計り知れない、別の空間が発生しているのかもしれない。そういう計算式を知らない地点からは、その空間(磁場)で起こる出来事は、奇跡にしか見えないのだけど、じつは観測者も、その空間をどこかで体験していて、だからこそ、呼応して、感応して、思い出している。

                            ★


熊蜂の魅力は、人間をまったく意識していないところにある。近づいてもまったく逃げないし、手でつかんだりしないかぎり、絶対に刺さない。そもそもオスには針すらない。ただただ蜜を集めたり縄張りを守ったりしているだけで、そのずんぐりむっくりの体のせいで、壁にあたったり、網戸なんかには平気でぶつかったりする。そういう一心不乱な姿に惹かれてしまう。愛くるしい

別の空間を創り出してしまうそのエネルギーとは、この一心不乱の気流ではないだろうか。その磁場を唯一流通できる粒子こそが、光より速いのだと仮定すると、観測して、数値に置き換えることは、永遠にできない。だからありのままの自然として、ときには芸術として、銀河の断片として、星屑の理念として、受け継がれているのかもしれない。ことごとく無視されて、まったく相手にはしてくれないけど、熊蜂は、このような深遠なる惑星の法則、その方程式の手がかりを教えてくれる。これから人として学ぶべきことは、分厚い専門書にではなく、ささやかな日常にありのまま、あふれている。




2012/05/01

空海の泉

昨日、樋口のじいさんに剣山の御神水を自慢したら「わざわざそこまでいかんでも、近くに美味しい水がある」と言われた。この地の水が枯れたその昔、下(しも)の方までわざわざ水を取りに行っていたおばあさんを不憫に思った通りかがりの弘法大師様が、神通力でわき出したと言い伝えられている秘水があると言う。

さっそく今朝、そこに行ってきた。歩いて20分ほどで、看板もなにもなく、地元の人にしか絶対にわからないような場所だった。その小さな、苔むした、美しい泉に、心を奪われた。デジャブに似た、ひどく懐かしい気持ちになって、その原因はすぐに解けた。

この泉にとても心象の近い絵を、油絵をはじめた当初に描いていたのだ。僕は泉や瀧を描きながら、油絵の技術を身につけた。最初のモチーフは瀧(たき)と決めていた。技術を学ぶのが目的だったので、構図などおかまいなし、大きなサイズの画布には、わざわざ分割してたくさん描いた。それから森にモチーフが移行したのだけど、今になってまた、他のシリーズと平行して、瀧を描きはじめている。モチーフは展開ではなく、回転している。広がっていくのではなく、輪廻している。

さきほどの懐かしみを忘れないうちにと、今、この文章を書いて、記憶を記録している。
こんなふうに、何周も何周も、繰り返し、懐かしみ、また繰り返し、私というひとつの物体は、ある大きな球体のうえを歩いている蟻の行列の一匹として、存在しているのではないだろうか。懐かしく思うのは当然で、それは既に歩いたことのある道だから。もちろん今生ではなくとも、過去や未来を超越した存在の記憶として、たしかに受け継がれていく風景があるのだと思う。