2013/02/24

ガニング・ロックス


ワイエスの『ガニング・ロックス』gunning rocksという作品。タイトルのガニング・ロックスは男の名前かなと誰しもが思うが、そうではなく、メイン州のワイエスの家の沖合にある人を寄せ付けない岩礁、島の名前。

男の名前はウォルターアンダーソン。粗野で無口で人付き合いが苦手な漁師。ワイエスはこのタイトルの習作の段階では一枚目は海辺の風景を描き、二枚目の習作は海辺に向かって背中を向けるウォルター・アンダーソンが突然登場して、彼の素描を経て、最終的には肖像画として完成させてしまう。タイトルは変えていない。なぜならワイエスにとっては、人を近づけない危険な岩礁ガニング・ロックスは、この孤高な男の横顔に相違ないから。

「素晴らしいものを見つけると私は、それをある別の思い出に直ちに結びつけてしまう。私の眼の前に存在する場面は、他の主題の広大な世界に向かって開くひとつの窓でしかないのである。絵を超越したものを私は目指しているのだ。もしそうでなかったら、すべてはあまりにも簡単だ」
 
「私の作品を身辺の風物を描いた描写主義だという人びとがいる。私はそういう人びとをその作品が描かれた場所へ案内することにしている。すると彼らは決まって失望する。彼らの想像していたような風景はどこにもないからだ」
 
アンドリュー・ワイエス

実際、一枚目の海辺の習作もガニング・ロックスではなかったそうだ。ワイエスの凄みはその匠(たくみ)にあるのだけど、その腕を使って表現しようとした世界、手を伸ばそうとしたものの遠みに僕は興味がある。ワイエスのリアリティは目の前にあるものを目の前にあるように描くことではなく、目の前にあるものを通して喚起されていく、合わせ鏡のような彼の内なる世界の影と光のこと、その写実。それは、それを感じたワイエスにしか、ほんとうはわからないはず。だけどちゃんと伝わってくるのは、彼の深い眼差しと、人知をこえた術(すべ)があるからで、換言すれば、深い眼差しによって、術(すべ)が人知を超えるからだと思う。




2013/02/23

五輪塔

昨日は丈六寺に。静かで人の気配がなく、異時空を見立てるように道の脇に並んだ、苔むした無数の墓、巨大な五輪塔がじつに美しく、石にじっーと見つめられているようで、それがなんとも心地よく、また見られているだけではなくて、声なき声を聞いているような、耳から魂が透明になっていくような、そんな厳かな気持ちになった。奥にある撮影禁止の秘仏、巨大な聖観音坐像の無の視線は圧倒的で、沈黙より静かというのか。いささかおおげさなのだけど、天(てん)のけわいを感じたような気持ちに。とくに心に残ったのは苔むした五輪塔に刻まれた「空 風 火 水 地」。なにも言えなくなるような説得力があった。

今朝、気になったので詳しく調べてみたら、日本で最初に考案された五輪塔の墓は、空海のアイディアとわかった。密教の五大体を表すもので、宇宙の根本を象徴するといわれている。一般には先祖の供養塔として用いられ、日本では平安中期からあるとのこと。知らなかった。五輪塔の型には基本があり、空は宝珠の型、風は半月の型、火は三角の型、水は円の型、地は方型。この型(form)があるからこそ、美しいのだと思う。個人的には空と風、水と地に挟まれてツンとつきだした「火」が、全体の微妙なバランスを司っているような気がした。この型がなく、てんでバラバラな形で文字だけなら、心には残らなかったと思う。型は同じでも、大小さまざま、苔のつき具合、その色や、石の朽ち方、風化の尺度がそれぞれ違っていて、そのすべての個性は、統一されている型のおかげだと思う。

自由は「自らを由(よし)とする」と書く。ここで使われる由とは、いわれ、わけ、由緒のことだと思う。自由は欲するままに行動することではなく、自分の価値観を元に行動すること、自らの拠り所を自分自身に置くこと。自分(人間)という型があるから、その元になる価値観や拠り所がある。人間という型(form)からは、人間は断じて抜け出せない。だから美を感じる心があり、美によって人間という存在を超えた視線の主(ぬし)
を感じさせてくれるのだと思う。個性とは自分からは見えない佇まい。出そうと思えば思うほど、なくなっていくもので、本人にはよくわからない生き様のことだと思う。五輪塔は、そういう存在の不確かさやあやうさ、幻性までも含めて、『今、見ているモノは、きみ自身の立ち姿であり、世界の有り様。すなわち、自分を見つめて、その拠り所を探し、ほんとうの自由を獲得せよ』と、今に伝えてくれているような気がする。




2013/02/16

踏みつけられた草

2013年に入ってからソローのウォールデン(森の生活)を読みすすめている。それと最近手に入れたアンドリューワイエスの画集。この二冊はいまの僕にとっての霊源であり、玉手箱。それで昨日、ふと気づいたことがある。それはどちらも生粋のアメリカ人ということ。僕はアメリカという国家には言いたいことはあるのだけど、もちろんアメリカ人(人間ということ)を憎んではいるわけではない。これは当たり前のこと。でもそういう当たり前でシンプルなことが、複雑怪奇な国家構造、型にはまった大人社会から見すごされているような気がする。そんなふうに忘れそうになる大切なことを、ふたつの名著は、作品そのものの力で、違う角度から教えてくれた。

この時期の針葉樹の色に、心を引かれている。秋ほど高揚もしていないし、夏ほど朗らかじゃないし、冬と春にはさまれて、目立たぬように土色をしている。あの、焦がれ色。いままでなんとなく感じていたけど、なんとなくでしかなかったものが、ああこの色のことだったのかあ、という、大きな発見があった。針葉樹の焦がれ色に気づけたのは、ワイエスの色彩のおかげ。それから森で味わう孤独に味わいを与えてくれたのは、ソローの言葉。自分ではうまく把握できなかった気持ちや、見えないものに、過去から走り続けてきて、今にバトンを渡す誠実で勇敢な作品たちは、『きみ、いいいんだよ。それを信じていいのだよ』と、光を当ててくれる。人間は人間に対して、ギフトを贈り続けるのだなあと、あらためて思う。自分をごまかしたりなぐさめたりするだけのものではなく、ほんとうにすごい作品には、そういう時空を突破する力がある。自分を超えたおおきなもの、その全体のひとつの破片のような、大切な時間がある。だからものすごい作品によって、表現に関わるひとが絶望したり、人生が変わったり、自分が壊れたりすることには、かけがえのない救いがあると思う。バラバラに砕け散るのは、表面のメッキなので、そういうものは、はやいうちに砕いておいたほうがいいのかもしれない。

ソローはまず、湖のそばに自力で小屋を建てた。自然と語らい、歩くという身体のリズム、散歩を通して思慮を深め、自給自足で生活をして、そこから社会に、国家に、虚飾のない生の言葉で、不服従の狼煙(のろし)をあげた。ソローは二年二ヶ月のあいだ、ひとりきりの時間の沼のなかに自分を沈めた。どこからか響いてくる、自然との調和に耳をすまし、それを信じて、まるで楽譜に音符を連ねるように、言葉を残した。その後、文明社会に戻り、モーツァルトのように勇敢に作品を発表した。彼のまるでひとりごとのような人生の問いかけは、密教のような広がりがある。

ワイエスは神経衰弱で虚弱体質。学校に行くことすらできず、父の画業を手伝うことによって技が磨かれ、父もまた、自分を凌駕する息子の才能を悟り、その才能を遺言を手渡すように引き出した。ワイエス自身も病気によって死を彷徨い、はやくして父を事故で失い、心さえ彷徨う。空いた穴を埋めようとしたのだと思う。その穴の深さが、愛の深さなのだろうか。



写真は1951年作『踏みつけられた草』というテンペラ画。ワイエス自身はこの作品に対して「私の自画像である」と発言している。自分自身の足元を描いているので、だからこれは自画像であるという説明的な意味あいと、踏みつけられた草こそ、自分であり、それをしらずしらずに踏みつけている存在もまた、自分であるという宇宙的な広がりを含んだ発言だと僕は思う。だからその小さな一歩が、小さな日常のひとこまが、人間そのものの存在を端的に現してしまっている。このときワイエスは肺の大手術直後の千鳥足。一度は心臓が止まっていたらしい。本人はこう続けている。「だから、これは非常に主観的で、危険で、かつ不気味な作品なのである。私の好きな作品のひとつである」