2015/09/23

無名

ジョギングコースに「無名」が倒れていた。顔見知りだった。いつも樹に登ってこちらを伺っていて、電線も渡ることができる器用なやつだった。もう二度と動かなかった。

はじめて「無名」に出逢ったのは真夜中の杉の樹だった。ヘッドライトに反射する二つの眼が、杉の樹の上から興奮する二匹の犬を見下ろしていた。名前がわからなかったので「無名」と命名して、そのままそう呼んでいた。毎夜のジョギングで月に一度か二度くらいは「無名」に遭遇した。そんなときはなんとなく嬉しくて、太古の狩猟の記憶が残っているのか、幸運(luck)のようなものを感じることができた。お不動さんのそばだったし、ひきずって道の横によけてくれていたから成仏できたような気はするけど、もう「無名」に逢うことができない寂寥は残った。

うちは山里だけど国道沿いなので、特に連休になるとこういう場面に遭遇することは多い。飛び出したかもしれないので誰かを責めるつもりはないし、心優しい人ぶりたいわけでも、ナイーブ(感傷的)になってるわけでもないけど、信号もなくて気持ちいいのかもしらんけど、動物も避けられないようなスピードで山道を走るなよと自戒を込めて思う。

こういう話をすると狩猟や飛行機(鳥の事故)などの例えをだしたり、中国では犬を食べているとか、もっと深刻な社会問題があるだろうなどと鼻で笑う人がいるが、それは筋違い。世の中で騒がれる問題と個人的な問題は根っこの部分で繋がっている。捕食でも、しかたのない駆除でもない、世界に見放されたようなこういう場面は、誰も救われない。だから声を拾いたくなるし、もう「無名」に逢うことができないという小さいけど確かなリアリティは、万人の知識や常識や数字のごまかしで解決しない。自分事だから。

渋滞学者、西成活裕さんの研究によると、渋滞をなくす方法はじつにシンプル。車間距離を開ける。ゆずりあう。詰めない。ようするに、相手を思いやる気持ちであり、心の余裕。ある意味ありきたりでよく聞く言葉だけど、机上の精神論ではなくて、実験現場から導かれた事実だから重みが違う。渋滞は人間の集団心理が創り出している状態であり、事実、蟻の行列は渋滞しない。

では渋滞とは逆の場面ではどうだろうか。混んでいなければ、「まわりに誰もいない」のだろうか。

気持ちがよくて見晴らしがいいなら、のんびりいけばいいと思う。スピードを追求したいならサーキットを走ればいい。僕自身は法定速度は守ってない?(というか、見てない)けど、自分の感覚で人間や動物もよけられないようなスピードは出さないし、速度超過で捕まったこともない。そんなに急いでまで辿り着きたい場所なんて、どこにもない。落ち着きがなくてせわしない人は、相手の気持ちをくみとる能力が高いのだろう。アンテナが高すぎて、気苦労も多いのだろうと思う。そういう人と無名の寂寥(もののあはれ)を共有できればなあと思う。

2015/09/15

精霊の森②


「犀の角のようにただ独り歩け」釈尊


屋外だと陽光が移り変わるので、一枚の画布に眼で見たまま、正確に自然を描くことはできない。朝の光と昼の光で印象が変わっているのに、その差異を埋めようとするから、色が不自然に混在していて、タッチも荒くなる。でも綺麗に描けていなくても、リアリティはあるので自分では納得ができる。個性を消すには、写真のように描かなければと思っていたのだけど、実際には人は機械ではないので、写真のように正確には描けない。それでも自分に嘘はつきたくないので、できるだけ見たままの色を乗せていると、一枚の画布に自分が体験した時間(色)が積み重なって、混在する。

いい絵ってなんだろうと思う。自然はもうそのままで美しい。わざわざ描かなくても、いいじゃないかと思う。人に褒められたいから描いているだけなら、もっと上手い人にまかせて辞めてしまいたい。でも辞められないのは、なぜだろうといつも思う。モチベーションの在処が、よくわからないまま浮遊している。

たとえば森に陽射しが射しこんでくる瞬間は、確かに美しい。みんなにいいね!って言ってもらえるだろう。でも光も射しこんでいない、誰にも相手にされていない圧倒的に暗い時間があるから、その木洩れ陽に美しさが宿る。

自然はなにも言わない。でも心を澄ましていると、沈黙の声が聞こえてくる。上手く描くことも大事だけど、ままならなくても自分にしかできないことを、やるべきだと言う。そのままならなさに向かって進めと言う。


2015/09/12

主は来ませり


グレゴリオ聖歌やミサ曲をよく聴くようになった。バッハもそうだけど、自然霊の歌という気がする。身体にすっと入ってきて、邪気を祓ってくれる。古楽になると宗教の違いをあまり感じさせない。こういう音楽が高野山で流れていても、違和感はないと思う。

クリスチャンではないけれど、保育園がキリスト教だったので、懐かしい感じがする。毎日歌った賛美歌をよく覚えている。キリストのこともシュワキマセリという意味もわからなかったけど、あの保育園にはいい思い出が詰まっている。なにかに見守られているような気配を、いつも感じていたのだと思う。

なんだかよくわからなくても、身守ってくれているような気配が場にあると、安心する。カミサマでも仏様でも親でも友達でも樹でも花でもいいのだと思う。人に言えないようなことや、つらいことがあっても、そういう存在に見守られていれば、やっていける。
 
保育園で宗教を学んだ記憶はない。でもシュワキマセリという念仏や、賛美歌のメロディや、祭壇の十字架や、ノアの箱舟のような遊具はよく覚えている。よく覚えているのはそういうもので、調べれば書いてあるような万人の理屈ではなかった。小中高は我慢ばかりで、あまりいい思い出がない。あったかもしれないけど、どの思い出もなんとなく寂しい。そういうものかもしれないけど、見守られているような気配を感じさせるなにかが場にあったら、少しは違ったのかもしれない。学校なんて古くさいものははやくなくなって、寺子屋とかになればいいのに。

お寺の鐘がポーンと鳴ったり、からすが夕焼けに向かって飛んだり、桜が咲いたり、大きな樹の根っこが怖かったり、蟻の行列を観察したり、カエルが古池に飛びこんだり。そんなことだけで"もののあはれ"を感じられるのは、身体のなかに宇宙をあるからだと思う。その宇宙をお天道様が見守っている。

2015/09/11

心象スケッチ


修羅は樹林に交響し
陥りくらむ天の椀から
黒い木の群落が延び
その枝はかなしくしげり
すべて二重の風景を
喪神の森の梢から
ひらめいてとびたつからす


宮沢賢治「春と修羅」より

散歩していて、小さな白い蛾が目の前を横切ったんだけど、それが海を渡る白鳥に見えて、後ろ髪を引かれるような想いで振り返ったけど、そのときにはもう、追いついたのはもちろんただの白い蛾で、それでも残像が尾を引いていた。あれは二重の風景で、自然の方から、こちらに向かって、なにかがやってきた証だろうと思った。

たとえば海を渡る白鳥を見たいと思って、海に行って白鳥を見たとしても、それはこちらから自然を見ているだけで、もしもそこに感動があったとしたら、たぶんそれまでの努力と、その白鳥の風景を通して、その人は違う景色を見ているのだろうと思う。見えているものと、見えないもの。此岸と彼岸。風景は相互に重ならないと、奥行が生まれない。

ある日森で背中に矢が刺さった夢を見た。突き刺さっているけど、自分が透明なので痛くない。
前日に森の急斜面で、軽く転落したときのイメージ編集だと思う。背中から落ちた場所が羽毛布団のような葉の茂みで、かすり傷ひとつなかった。森に守られたような気がして感謝したけど、その逆も起こり得たはずだから。

樹に結んでいたロープが、ほどけてしまった。もしロープではなくて、蔦とか、枝や草に掴まって斜面を降りていたら、もっと慎重になっていたので、転落したりしなかったろう。切れても仕方ないと思っている命綱と、切れるはずがないと思いこんでいる命綱は、強さが違う。

あのときロープがほどけた瞬間と、落ちたときの背中で感じた森の愛情は、心象スケッチとして記憶に留まっている。このイメージを肉体を離れた意識が編集しようとするのは、考えてみれば当然のことで、夢で放たれた矢は、まるで喪神の森の梢からひらめいてとびたつからすのように、二重の風景を貫いた。

森から落ちた帰り道、畑に三毛猫が座っていた。最近ウロウロしている野良猫なのだけど、遠くから見ているだけで、すぐに逃げてしまう。姿をちゃんと見たのは、その日が初めてだった。よく見ると目つきが悪くて、数年前に東光寺で戯れていた、あの写楽の猫によく似ている。ああ、生まれ変わりなのだなと直感した。カメラを持ってくるまで待っててくれて、写真を撮ったら離れていった。あれから姿を見ていない。

時空間がバラバラで、極私的な心象スケッチなんだけど、ここ数日の不思議が、数珠のように繋がった気がした。他人にはうまく伝わらないような他愛のないことでも、心に残るのは理由がある。そのときはよくわからなくても、なんとなく見えてくる宇宙の輪郭がある。