2015/10/20

永久の未完成


『永久の未完成、これ完成である』 宮沢賢治 農民芸術概論綱要より


制作途中の絵を持って、ひさしぶりに森に入ったら、ずいぶん光の印象が違っていた。季節が変わったので、土や葉の雰囲気も変わっていて、全体のニュアンスが以前と違う。どうしようか迷ったのだけど、既に其処にある印象のままに、大幅に色を修正(補正)した。夏と秋の光が混合してしまって、画面も荒く不安定になったのだけど、不思議と違和感はなく、絵が再生したような気がした。

直接目で見て描いてみると、季節で変わる光の印象が、ただ見て感じているだけよりも、身体を通してよくわかる。冬の光もまた違うのだろう。その度に描き直していたら、いつまでも完成しない。だけど、かつて見た光より、いま目の前に受けている印象が強ければ、自然に従うしかない。絵のなかで季節が変わったのは、自分しか知らないけれど、それはそれでいいじゃないか。

この森は原生林ではないけど、銀河を包む透明な意志によって、結界がかかっている。この森に重なったある条件のおかげで、地元の人や旅人を寄せつけないし、簡単には侵入できない。色と光とを通して、この森が誰かに打ち明けようとしている秘密は、ただ表面をコピーしても、他の誰にも伝わらない。

世界の秘密を暴こうとしたり、事物の本質を表現しようとすると、モチーフはすっと逃げていくのだけど、上手く表現できなくてもいいから、色や光を通して、自然が打ち明けようとしていることに、ただ耳をすまして、身体を預けていると、離れて様子を伺っていた自然が、向こうからやってきてくれる。

綺麗な写真を何枚撮っても、この森が色と光を通して、開示しようとしている情報は、誰にも伝わらない気がする。でも描いていると、少なくとも自分には伝わってくる。眼の感覚を通して、自然が自己を現しているのだと思う。