2014/07/21

神輿渡御

剣山に。神輿を舟にみたてて、標高1955mの山頂まで担ぐ神輿渡御が行われる特別な一日だった。


今年はかつげなかったのだけど、神輿が山を登ったり降りたりするのを見ていて、ヘルツォークのフィツカラルドという映画を思い出していた。巨大な船で山を越えるという映画。CGではなく、本物の船で山を越えている。監督がなにを描きたかったのかは、そのシーンだけで伝わってくる。人間は夢を現実にしようとする。


神輿渡御は人間が主体ではなく、山が主体になっている。夢を現実にする映画ではなくて、現実を夢に変換してくれているリアリティがある。祭りはその象徴であり、交流の美学なのだと思う。自然を越えようとすると、語り得ないバランスによって、越えようとする粒子そのものが、内部破壊されてしまう。大昔の人間はそのことを直観していた。


世界は人間が思うようにはできていないことを、山という存在は大いなる沈黙で教えてくれている。山とは沈黙という構造のピラミッドなのだと思う。


山はただ山と呼ばれているだけであり、山らしく動かずに、ただ言語の限界を輪郭として、そこにある。然はなにも答えてはくれない。だからこそ、すべてを受け入れてくれる。






2014/07/16

石の声



最近、河原でよくこういう石たちを見かける。

置き手紙みたいで、胸がときめく。メッセージを感じてしまう。たしかにそこにいた人のぬくもりがあり、形そのものの神秘性もある。作った人はそこにいなくても、時空が違うだけで、意思は残っている。儚くて、いまにも壊れそうに、あやうい。

天文学的な要素や呪術性はないにしても、表現のルーツって感じがする。たとえ作家が此の世にいなくても、残された作品に意思は残っている。そこにいたぬくもりを、すぐそばに感じることができる。その意思を継ぐものがいる。いつの時代にも必要な意思(魂)なら、何世代にも渡って受け継がれていく。表現ってそういうものだと思う。河原の石碑のように、誰が作ったかとか、ほんとうは関係ないのだと思う。積みあげた石そのものに宿る意思は、自由だと思うから。

たとえばこの石は勝手に立ちあがって、こんなふうになっちゃったんだよって誰かに言われても、その人を愚かだと、笑い飛ばしていいのだろうか。もしかしたらこの石たちは、こんなふうに立ちあがりたくて、その石の声が聞こえる人が、その通りにしてあげたのなら、それは石そのものの念動力(テレキネシス)であり、総和的な自然の表現。人間も自然の一部であることを、立ちあがった石は証明していることになる。
 






2014/07/13

関係性

これからの時期は野菜がぐんぐん育つので、畑の水やりがうれしい。打ち水も楽しみだ。陽光に向かって水をまいていると、虹ができる。

最近東京で大きな虹が出たそうだけど、その虹を見せたのは、なにものなのだろうか。もしも人々が野菜なら、虹を見せてくれたのは、時間の流れが違う見えない存在と言える。人間は野菜の動きを目で追えないのだから。時間の流れが違うもの同士は、相対的にどちらかが見えない存在になりえる。

蟻や野菜が人間を把握できないように、人間にも把握できない存在がある。私たちは、世界をありのまま見ているわけではなく、自分たちが見えるもの、見たいものだけを見ている。それで世界を知ることにはならない。だけど見たくないものを見なければならないという考え方も、すこし違うと思う。見たくないという前提に、フィルターがかかっている。

自分という色メガネを外せば(外そうと試みて、内的世界を注視すれば)、やがて意識が透明になって、関係性だけが見えてくる。社会的束縛を受けない関係性の世界には、見たいものとか、見たくないという価値判断すらつかない原野が広がる。その関係性の糸には、強すぎず、弱すぎず、切れない程度の絶妙な緊張感があって、その緊張とは、畏れだと思う。

本質的な姿には綺麗とか汚いとかないのだから、ペルソナが強い人は拒否反応が出ることもあるとは思うけど、そもそも自然の畏れから沸いてくる力は、恐ろしくても、美しい。暗くても、深い静寂があり、呼吸が深くなり、沈黙に飲みこまれて、言葉を失ってしまう。でも時間はかかっても、どこかに安心する要素があるので、言葉を失った余韻のなかで、新しい自分(自然)を取り戻すことができる。

東アフリカの原住民が、日の出に太陽を崇拝することを知ったユングは、「太陽は神様か?」と聞いたところ、ばかなことを聞くなという顔つきで否定されたという。「太陽が昇るとき、それが神様だ」と老酋長は言った。原住民にとって「神」とは、世界との関係性のことであり、状況だった。

「私」との関係性こそ神だとしたら、畑に水をやるときに、喉が渇いた野菜と、水を与える自分との間に、ふいに出現する虹は、自分にとっての神さまの姿。押しつけられた神ではなくて、そのリアリティに基づいてなら、八百万の神々は、確実に存在している。具体的なリアリティと普遍的なリアリティが一致するところに、接点があるのだと思う。

畑に水をまいていると、元気になる。元気になるというのは、気が元に戻るということだから、乱れていた状態から±0に変位したということ。喉が渇いた野菜にとっては「私」が雲になって、雨を降らせてくれている状態、即ち私は一時的であれ、「天」の状態になる。その関係において、生命力がゼロポイントにて流通するのだと思う。

なにも考えずに水をまいていれば、なにも起こらない。(喉が渇いたのだろうな)と思うからこそ、流線を描いて向こうに落ちる水が、こちらの乾いた心にもしみてくる。潤った葉に寄り添う、その一つの水滴は、私と世界の合わせ鏡であり、社会的束縛を受けない関係性だけを映している。思う力というのは、距離や境界を消してまう。自他が消滅した空間にのみ、魂(仏性)の交流がある。自分が世界に対して、透明になっていく。そのかぎりなき透明さの向こうで、八百万の神々は祝福してくれている。 その祝福のことを、美と呼んでもいいのだと思う。

そろそろ水をあげようかなと思っていたら、雨が降ってくれた。そういうこともある。
 

 
 
 

2014/07/05

影響

ある日、夕刻の空が赤く染まった。いつもは青い相が重なり合う時間帯なので、不思議に思って気になっていたら、今、世界ではイスラム教徒による断食月(ラマダーン)と知った。世界人口の4分の1くらいの人々が宗教的行事を行っている断食月には、そういう不思議な現象が起こってもおかしくないと、NY在住の方に教えてもらった。なるほどと気持ちがおさまった。

天空の不思議に合わせて断食月が設定されているのかもしれないし、断食月に合わせて、天空が不思議を表現してくれているのかもしれない。どちらでもなく、どちらでもあり、人智を超えた領域において、互いに影響しあっている。

天に向かって静謐な時間を共有できる喜びや平安は、あらゆる宗教や人種を超えて繋がっている。影響とはどちらが与えて、どちらが受ける関係というよりも、見えない力を互いに共有する共振増幅作用なのだから、響き合う影の光源とは大日如来であり、アッラーであり、GODであり、太陽であり、どのように考えてもいいのだと思う。現象は宗教を超えた場所から発生しているから。