2015/08/03

川と遠雷


「実在の在り様をイマージュとして捉えること、イマージュこそが実在の真の在り様だと考えることこそ、哲学にほとんど暴力的ともいえる哲学性と可能性を与えるのです」ベルクソン




暑い日は頻繁に川で泳いで身体を冷やすんだけど、毎回付き合わせてる犬たちは、水を嫌がって退屈そうにしてる。一人で行こうとすると抗議吠えするのだから、泳げばよいのに。

夕方、突然オロオロしはじめたと思ったら、空が暗くなって遠雷が聴こえた。人間よりも感受性が高く、感覚が突き出している。

今日はカメラ(防水)を持っていった。いつも感じている水の流れと岩の関係をフレームにおさめたかったのだけど、既に自分の中に在る印象が強かったので、うまくおさまらなかった。こうなると描く以外に表現する方法はなくなってくる。絵と写真の違いって、こういうことかなと思った。

目の中に像(イマージュ)があって、撮るより先に映ってしまっている風景がある。その像を現実にすり合わせることができるのが写真家の才能だと思う。だからものすごい写真家さんは感覚が突き出ていて、通常の感覚では辿りつかないような場所を察する。まるで遠雷を予知する獣のように。

クールベの絵を見て、セザンヌは彼は目の中に像を持っていると言ったらしい。その像とは直覚された印象のフレームであって、絵筆を取ることは、彼にとっての追憶の旅であり、狩人としての武器だったろう。

目は見えている世界だけを見ているわけではなくて、見えていないものまでも感受している。思い出がありありと蘇るのはそのせいで、刻まれた記憶は次元を超えて、ありふれた風景からも滲みでて、独特のリアリティを発動する。

(なんで映らないのだろうなあ)と、もどかしく思えたのは幸運で、水の内在的な煌めきや岩の不動心が、カメラという道具を透過して心に突き刺さっていたから。このもどかしさが宝物。きっといつか現れる像が、その日を夢見て目の奥で微睡んでいると思いたい。