2016/11/28

永遠の花

そろそろ寒太郎がやって来るというのに、明王寺のしだれ桜を描きはじめてしまった。おそらく大楠が呼んだのだと思う。お互いを素描してよくわかったけど、宇佐八幡神社の大楠と明王寺のしだれ桜は、タンベラマン(気質)がよく似ている。花が咲くと一気に印象が変わるけど、今の時期の桜の古木を見ていると、それはよくわかる。樹々にはそれぞれの性格があり、気質がある。性格が違っていても、気質が似ていると、惹かれあう。

樹々は人間のようには動けないけど、想いは持っている。明王寺のしだれ桜は、春にだけ、大楠に手紙を送る。白い花弁に乗せた想いを、風が受けとり、運んでくれる。人間はその想いの破片を見ている。花は散らないと、その想いは届かない。

人間が目で見ている破片は、それだけでは想いを成さない。散らばった破片を、丹念に拾い集めているうちに、いつのまにか孤立していた断片が、見えない世界の全体に吸収されていく。その変化は音楽によく似ている。喜びに溢れていたり、どこかもの哀しい。

哀しいけれど救いはある。残酷だけど愛に溢れている。言葉のないはずの旋律に、話しかけられているように感じられるのはそのせいで、動物のようには動けない樹々や草木や花は、人間を通して、その想いを託している。虫や動物が無自覚に種を運ぶように、人間は秘密の手紙を託された、風のようなものなのかもしれない。

雨上がりの明王寺、葉が落ち切ったしだれ桜の古木は、禍々しいほどの静寂に包まれている。横に伸びすぎて、棒で支えられた両手は、磔にされたキリストのような雰囲気がある。なんとなくひいたおみくじには「波のおと 嵐のおとも しずまりて 日かげ のどけき 大海の原」と書かれている。帰り道の、宇佐八幡神社の大楠の横で、小さな子猫が歩いてきた。とぼとぼ歩くトラ猫は、後ろから来た軽トラを通せんぼしていて、困ったなあという顔のおじさんと目があって、お互いに笑った。子猫はこちらを見て、ニャッと吠えた。ときどき見かけるあの猫は、きっとなにかの使者だろう。

いろいろな大樹を見てまわったけど、桜の妖気は抜きんでて強い。古の歌人や画家が、のめりこんでしまう気持ちは、よくわかる。何百年と生きてきた大樹のほとんどは、話しかけてもはぐらかされるというのか、人間なんて眼中にないよ、という飄々としたところがあるのだけど、桜は絡みつくというのか、後ろ髪を引かれてしまう。

明王寺はイーゼルを立てるような環境ではないので、あらかじめ取っていた素描を頼りにして、桜の絵を描いている。ときどき現場に印象を確かめに行くと、枯木には満開の花が咲いている(ように見える)。見えているから、わからなくなることがあるように、見えないからこそ、はっきりしてくることがある。

美しいものは、誘惑する。暗くて深くて、底のない河に。表面に見えている、社会とか経済とか、そういう流れとは別に、時間を超えて存在している、大きくて深い河がある。暗すぎて見えないその河に、ひとひらの花びらが流れている。枯木は厳しい冬を迎えて、夢を見ている。その夢には、永遠の花が咲いている。