2013/06/20

輪廻


輪廻と転生について考えていた。輪廻のイメージは信じることができるのに、前世や来世、生まれ変わり、というリアリティで思考すると、とたんに回路がずれるというのか、しっくりこなくなる。これが自分が宗教に、心の底からは踏み込めない理由のひとつになっている。では自分の信じられる輪廻とは。ダヴィンチはこんな言葉を残している。

『手に触れた水は最後に過ぎ去ったもので、これからやってくる最初のものである。現在という時も、同じようなものである』

この言葉は「過去も未来も現在に含まれている」と言うよりは、切実さがある。実際に水は、触れて、見て、匂って、味わって、飲んで、出して。そういう身近なものだから。

【水循環】太陽エネルギーを主因として引き起こされる、地球における継続的な水の循環のこと。固相・液相・気相間で相互に状態を変化させながら、蒸発・降水・地表流・土壌への浸透などを経て、水は地球上を絶えず循環している。from wikipedia

たとえば、今まさにこの瞬間に降っているこの雨の一粒は、卑弥呼が髪を洗った水かもしれないし、これから福島の原子炉に注入される冷却水かもしれない。かもしれないではなくて、検証できないだけで、まさに、そう。検証できないものは、検証できないからこそ、在り続ける存在になりえるわけで、現在に落ちる一滴の水は、過去や未来の記憶を含む、大海を飲みこむ全体の一部なのだから、ダヴィンチの言っていることは、そういうことだと思う。


分の感覚で育っている輪廻のイメージ(像)は、この水循環がもっとも近い。人間の心も、水のようなものだと思う。死者の声を記憶しているし、未来を映し出しているし、たえず形を変えて、相を変えて、循環して、今、この瞬間に在る。太陽のエネルギーや、月の引力、地球の磁場、宇宙の磁場。人間など眼中にない世界の力によって、水も心も、絶えず影響を受け続けて、だからこそ生き生き生き生きて、死に死に死に死んで、循環している。肉体が消滅しても、魂が在るという表現は、一滴の水を考えるだけで、すんなり筋が通る。






2013/06/13

石仏

いい顔のお地蔵さんを見ていると、心ってこもるんだなあと思いますね。
















2013/06/03

法隆寺

奈良の法隆寺と興福寺に行ってきた。雨の法隆寺を期待していたのだけど、カラっと晴れて、空には龍が通りすぎたような羽衣の雲が浮いていた。期待を裏切ってくれる天空は爽快だ。

特別開扉されている南円堂、北円堂に入ってすぐに無著(西行)と目が合って、背筋になにか電気のようなものが走って、髪の毛が逆立ったような気がした。世親と無著はもう、生きている人より生気がある。ああいう当時そのままの奇跡的な空間に身を置くと、関わった人たちの魂まで感じられるのが嬉しい。法隆寺は聖徳太子が建てたのではなくて、大工さんが建てたのだから。それは太子が一番近くに感じていたと思う。

通信や交通手段のなかった飛鳥人よりも、現代人の方が、はるかに多く、古き仏たちを体験していると思う。千年先まで届くように考えて作られたのだから、それはもう、当然のことだろう。祈りの矢は、ちゃんと届いているということを、飛鳥の大工に伝えたいという、タイムマシンでも作ってみたいような、もどかしい気持ちがある。

ただただ惹かれているだけで、仏像も仏画も、詳しいわけじゃないし、神社と寺を間違えるほどの不作法がある。では古き仏たちのなにに惹かれているかと自分に尋ねてみると、手放しに昔を賛美して、現実逃避したいわけではないではなく、仏たちの、その答えのない無限の眼差しにあると思う。言葉にならないような、どうにももどかしくて矛盾したこの気持ちを、憤怒の表情で、なぐさめるような優しい眼差しで、冷たく突き放し、無言で諭すような遠い視線で、その言うに言われぬ、言葉に成り立つ前の、起源のような不安定にエネルギーの満ち満ちたこの気持ちを、代弁してくれているように感じているのだろう。自分のかわりに傷を負ったように朽ち果てていく像(イメージ)は、罪を背負って自然に還ろうとしているようにも見える。汗をかきながら、美術館に展示されている有名な作品ではなくても、無名な石仏は至るところにある。その風化に、人間が、当たり前のように自然に還っていく姿を、鏡のように重ねているのだろう。

311からカタツムリの速度で進めている仏の素描が、四冊目に入った。一冊目は色即是空、二冊目は空即是色、三冊目は色不異空、というタイトルをそれぞれにつけている。これから描きはじめる四冊目の空不異色は、救世観音からはじめようと思っている。