2022/06/08

森と海

昨夜は川の前に蛍の大群が。思考は奪われ、ただぼぉーっと明滅に見惚れてしまった。蛍はなぜ、なんとも言えないような、人をこんな気持ちにさせるのだろうか。

ドローイングブックを読み終えてしばらく、少し酔ったように頭がぼぉーっとしたという感想を頂いて、おもしろいなと思った。ぼぉーっとしてしまうのは脳が休んでいるわけではなく、むしろ無意識の領域が活発に働いている証拠で、閃きや霊感が降りてくるのもこの瞬間にあるという。

森羅も海羅も中身は作品のみ、一切言葉の説明がない本なので、こんな無愛想で小さな絵本を手にしてくれた人のためにも、すこし言語化してみたいと思う。

森羅/海羅はずいぶん前に出来ていたドローイングブックだったが、背中を押される感覚がなかったのでそのままにして、森と海を繋ぐのは雨なので、梅雨が来るまで寝かしていた。そして6/4の夜、思い出したように蛍が突然たくさん現れて背中を押したので出品した(蛍は梅雨入りのサイン)。

低気圧が近づいてくるこの時期に、ドローイングだけに集中したこの本のコード(暗号)を読みこめる人がいたら、きっと頭がぼぉーっとするだろうなと思う。言語化が苦手な人ほどそうなる。作者ですらそうなのだから、よくわかる。

基本的に自分は樹木や深い森に執着してしまうタイプで、森羅もそこから始まって、何処に行くのか自分でもわからないまま本を作り始めた。気がつくと樹神ガジュマルに導かれていて、ちょっとこれ以上行くとヤバいなという領域まで踏み込んでしまう。だからこそ写真と絵を組み合わせたり、差し紙を入れるという形にして、息つぎが出来るように工夫していた。

そうして森を進んでいると、ふっと予測不能になって、自分でも意外な場所に出た。長い洞窟から抜けたような、本人をワクワクさせてくれる至福の瞬間だった。

一番意外だったのは、海に繋がったことだった。

自分は山や森が好きなタイプの人間で、溺れて死にかけたこともあるせいか、海が怖い。そして女性的な甘いモチーフも描くのが苦手。海、蝶、花というモチーフは無意識の壁があって自分の内側からは湧いてこないから、連れて行ってもらえないと辿り着けない。屋久島や奄美にいた精霊は、虫や動物の身体を借りて、自分の力では辿り着けないような場所にまで、魂を案内してくれた。本を作って一番良かったなと思うのは、この部分だ。

綺麗な蝶を追いかけている子どものように、好きなものを追いかけているうちに指南されて、視野が広がっていく。真剣な遊びが、ライフワークである絵画やプリント作品にまで波紋を広げてくれる。なにより本人が一番驚いたりワクワクして楽しんで作っている。こういう喜びが他の人にも伝わればいいなと思う。

ドローイングだけだとまとまりがなかったので、最後に時系列を壊して未発表を含めた動物たちの絵が来るようにレイアウトを変えた。するとなぜだか本がまとまって、すっと椅子から立ち上がるように自立してくれた。違和感をごまかさずに試行錯誤しているうちに、こちらの肩の力が抜けて、ふっと向こうから作品が立ち上がる。モノづくりをしている人ならこの感覚はわかると思う。


屋久島も奄美(喜界島)も、ここぞという大事な場面で大雨になって、世界の見え方を変えてくれた。森と海を繋ぐ雨、その円環を表す形として、外函と本表紙(外と内)に同じ絵を使って、外には晴れた日の山犬獄の森を、内側には雨に滲んだ山犬獄(森の霊)を選んで敬意を表した。

梅雨というと、じめじめする。カビが生える。洗濯物が乾かないなどと、とかく人には嫌われがちだけど、雨が降ると山は喜ぶ。植物たちは歓喜の手を伸ばし、晴れた日よりも、雨の日の方が森の精霊は饒舌になる。このことを知る人は、空が暗くても明るく輝き、自分を見失わない。外側のリズムよりも、本来の自分の内側にある自然のリズムに合わせて動いていた方が、長い目で見ると物事がうまくいくことを知っている。

成果を求めずに、勇気をもって求め続け、失敗を恐れずに、まっすぐに好きなことを追いかける。結局そんな単純なことが、自分のエネルギーを整えてくれるのだ。

森と海を合わせた小さな絵本は、そんなふうにして出来た。

最後の最後に入ってきた海辺の犬や猫たちは、なにか大切なことを人間に伝えようとしていた。彼らは人に捨てられても人を恨まず、どんな状況の中でも未来に向かって生きていく強い目をしていた。彼らは私であり、私は彼らでもあった。

白い犬は優しくて遠い目で海を見つめていた。




2022/06/06

butterfly effect Ⅱ

5月22日、ちょっと絵の制作が煮詰まっていたので、アドバイスを受けに大樹に逢いに行った。その樹はある神社の御神木で、今まで何度も描いている仲の良い大樹だった。境内の外からその大樹の横を通り過ぎたとき、一匹の黒いアゲハが茂みに羽ばたいていたのを覚えている。


それから神社の鳥居をくぐり、手を合わせてお賽銭を入れたあと、大祓詞を奏上していたら、視界の中を(たぶん)先ほど見た黒い蝶が飛んでいるのに気づいた。祝詞を止めるわけにはいかないのでそのまま読み続けていたら、祝詞が終わるまでずっと身体の周りをぐるぐる回りながら飛んでいて、鳥肌が立った。

時間の感覚はないけど、祝詞の前半で気がついていたので、一分くらいは回っていたと思う(※ 後日、蝶に気づいたあたりからストップウォッチで正確に測ってみたら、読み終えるのに2分21秒かかっていた)。終わるとふっといなくなって、不思議な気持ちに包まれた。

今までにも不思議なことはたくさんあったが、いつもどこかですごく冷めた自分がいて、そいつが『ただの偶然だよね』とか『それってあなたがそう思いたいだけだよね』とか『自分が見たい方向に、あらゆる現実を再構築して、物語を紡いでいるだけだよね』とか言って、いい意味で客観的に不思議な出来事を俯瞰してくれていて、過剰な思い込みや妄信を排除してくれるのだけど、今回はその冷めた自分も消し飛ぶようなレベルだった。

犬や猫なら、まあ、顔を覚えていたのかもしれないなあとか、餌をくれそうだと思っているんだろうなあ、とか、いろいろと考えることができる。でも一匹の蝶である。巣を守ろうとする蜂のように、蝶が人を追いかける理由はないだろうし、いつもならただ本能で、危険を感じて逃げるだけ。それがわざわざかなりの距離を追いかけてきて、あんなに長く身体の周りを飛び続けていたなんて。

きっと信じてもらえないだろうけど、自分でも信じられないような不思議なことって、ほんとうにある。

それからしばらく大樹と沈黙を語り合ってから、そろそろ帰ろうとしたとき、なぜだか『もうすこしここにいてくれ』という力を空間に感じて、境内(結界)から出られなかった。催眠術にかかったように身体が動かない。

たぶん蝶は自分で動いていたわけではなく、空間を支配していたこの力(大いなる意志)によって動かされていたのだろう。

その日の夜から描いたのは、今までとはまるで違う雰囲気の絵だった。


よほどその日の体験が心の中を占めていたのだろう。でもそれだけではないと思う。たぶん自分は描くことを通して、自分が信じている世界を伝えたいのだ

作者は器であって、表現しているのは信じているその世界。自分を表現することよりも、大いなる自然がなにを表現しようとしているのか。その探求の方が楽しい。

「画家はその身体を世界に貸すことによって、世界を絵に変える。この化体を理解するためには、働いている現実の身体、つまり空間の一切れであったり、機能の束であったりするのではなく、視覚と運動との織り糸であるような身体を取り戻さなくてはならない」
メルロ=ポンティ