2014/06/25

見つめるもの、見つめられるもの

空が空を見ている。

空(犬)はシャイなので、ふだんはそばにいないのだけど、突然トコトコ歩いてきて、じっーーと上目遣いで見つめてくる。ふだんはシャイなのに、この場合は絶対に目をそらさない。だから、あ、散歩か、ごはんかな、とわかる。そして行動する。犬は言葉を使えないけど、念動力(Telekinesis)が使える。意思の力だけで、物体(私)を動かしている。

この力の発動は、対象(私)との目に見えない関係において成り立つ。(私)が念に気づかなければ、力は生まれていない。念は思考を喚起させる。犬が見つめているな、と、ここまでは誰にでも受信できる。その後の思考力が、現象を誘い出す。それは犬の力でもあるし、同時に(私)の力でもある。この関係を「約束」と呼ぶことにする。捨て犬と私には、出逢ったときにこの約束が成立している。わかりあえなくても、その約束という場のなかで、流通する力がある。約束だけでは力は生まれないけど、約束という場で働く思考の自由は、エネルギーを外的世界に変位させる。

言葉によって規定されてしまった世界は、言葉を使えない。だから常に念を送っていて、約束が結ばれて、思考によってエネルギーが生まれるのを待っている状態だと言える(色即是空)。近すぎて見えないけど、心とからだも約束をしている(空即是色)。


 数日後、ちょっとしたアクシデントで左下眼瞼を挫滅、涙小管が断裂したので、車に乗せてもらって、徳島県立中央病院、深夜のERへ。翌日を待って緊急オペ、一晩入院して、昨日帰宅。ER、縫合、手術台。はじめての経験が一度にやってきた。涙小管に糸を通す処理が難しいらしく、三人がかりで二時間の手術。局所麻酔で左目だから、精神的にきつかった。ホワイトアウトのような二時間を過ごしたあと、大部屋の病室で、窓の外の眉山を見ていた。まさか入院させられるとは思っていなかったので、なにも持っていなかったけど、なにかする気もしなかった。どこからかテレビの声が聞こえてきた。内容はどうでもよくて、音楽を聞いているような気がしていた。
 
大病院のような異空に突然ほおりこまれると、自分がなにものかなど、どうでもよくなってくる。世界と寸断されたような気がしていて、それで残された右目で、山ばかり見ていた。山はなにも言わないけど、心を落ち着かせてくれた。山の下で移動する車や人が、蟻の営みのように見えた。山は不動だった。そのまま泥のように眠った。目が覚めると、左目の視界が回復していた。両目が使えるだけで、遠近法が立ちあがる。山がぐぐっと近づいてきて、森に抱かれているような気がした。自分にだけは嘘をつくなよ、と言われているような気がした。正直に生きろよと、耳元で囁かれたような気がしていた。

左目に涙がたまる。

ERの人に左下眼瞼を縫うのはすぐにでもできるけど、切れた涙小管がふさがってしまい、左目からだけ勝手に涙が出るよと言われて、入院がどうしてもいやだったので、別にそれでもいいので縫ってくださいと言ったけど、まだ若いからと断られた。振り返ると、医師の言うとおりにしてよかった。いまは糸が入っていて、涙が出口を失っているので、悲しくもないのに、左目に涙がたまる。私の意志とは関係なくたまる涙の意味とは、「私」が悲しみを見ているのではなくて、悲しみの方が「私」を見ているからだと思う。左目は人知を超えるもの、大いなる存在(神即自然)の声を聞く右脳と直結している。アクシデントにはそういう意味がある。

悲しみが私を見つめている opampogyakyena shinoshinonkarintsi
悲しみが私をじっと見つめている ogakyena kabako shinoshinonkarintsi
 (マチゲンガ語) バルガス・リョサ「密林の語り部」より

悲しくさせるものを見て流す涙は、こちらの意思が関与している。泣きたくて泣いている。そういうものではなくて、「私」が関与せずに、たまる涙がある。遠くの山を見ていて、なんだかよくわからないのに、ふと泣けてくる。これは年をとったからではなくて、世界の感じ方が変わったからだと思う。言い換えると、子どものころに持っていた内なる自然を取り戻したから。自分に素直になると、大いなる意思の方から、私にむかって響きかけてくれる。古典芸能から読み取れるように、太古の人は、この声を聞く力を持っていた。大いなる意思に導かれていれば、「私」など必要がなかった。私の声(私が私に命令する)を持つようになってから、大いなる声と混同して、奢り、自分もその一部である自然を支配しようとして、堕落した。混乱を立て直すには、まずはありのままの自然に対する敬意から、すべてをはじめないといけないのだと思う。


また空が空を見つめている。
空が空をじっと見つめている。
涙がたまっているように見えたのは、気のせいだろうか。

2014/06/15

必然の糸

天気がいい。屋根の上にふとんを干せる日は、それだけでうれしい。太陽の光を吸ってふわふわになると、雲のうえに乗っているような心地が得られる。ささいなことなんだけど、こういうことに感慨を受けるようになってきた。

年をとったからというよりは、世界の感じ方が変わってきたからだと思う。近すぎて見えなかったこと、世間には見向きもされないような、当たり前で単純なことに、意識が向くようになっていた。以前はあまりそうではなかったから、変化を見つめずにはいられない。リアリティだと思う。なにが原因で燃えているのかわからないような火事を安全な場所で眺めるよりも、自分で薪を手配して、着火して、一瞬として同じ形なく燃えあがる炎を、煙が目に染みたり、水が抜ける音が聞こえたり、火の粉が飛んでくるような具体性を通して、内なる世界との関係においての、現象との距離を確かめたいという思いが、いつのまにか芽生えていたのだと思う。

自分が変わる(変わらざるをえない)節目というものがある。幼少のころ、誰にも言えないようなこと、出逢いや別れ、痛みや哀しみ、環境の変化。いろんな要因が重なっていて、ああ、たぶんあのころだよなと、人生が交響曲だとしたら、それぞれの変調のタイミングを思い出せる。ただ振り返ると、あれはなんだったんだろうと不思議に思うことはある。

2011年の3月、思いきってアトリエを大阪から徳島の神山に移した。11日後に大震災、原発事故が起きた。そのときにはうまく把握できなかったけど、極私的な変調と、自然の現象だけではない、ただならない出来事がリンクしていた。世界の感じ方という内的世界と、変わらざるを得ないという外的世界の状況が、折り重なって存在していた。人間の意志をも支配している必然の糸があるとしたら、その糸を「私」はどう編んでいくのかという哲学が必要だった。

世界と私はけして切り離せない関係なのだから、自分の本性の根底に降りていくときに、世界の感じ方(愛し方)も変わっていくのは、ごく自然なことなのだと思う。内なる目で外的世界を見つめるとき、覚悟を決めている創造主の気配に出逢えることがある。それは幻覚ではなくて、内部に映し出される宇宙の構造だと思う。現実に起こることは、きっと内なる育みを投影している。




2014/06/05


密林の絵を描き進めている。こっそり教えてもらった屋久島のガジュマルの森で、整備されていない野蛮な蜘蛛の巣のような場所。特になんでもない構図の取材写真の一枚が光って、どうしても描かなければならない気がしているので、描いている。誰になにを言われようが、内なる声だけには逆らえないので、自分でもよくわからないままに手を動かしている。だから不安も大きい。

モチーフに迷うこともないし、絵筆を動かしているときも葛藤はないのだけど、手を止めて、ふと自分の絵を眺めるときに、いつも暗礁に乗りあげる。未熟さによる絶望は、意志の力でかすかな希望へと昇華できるのだけど、「なぜ描くのか」「なにをしているのか」「なんのために」という巨大な壁は、高すぎて登れそうもない。

『よく知られているように、間違いというものは、自分の仕事よりも他人の仕事の中に見つけやすいものだ。絵を描くときには、平らな鏡を使って、そこに自分の作品を映してみるとよい。すると、絵が左右逆に映し出される。そうすれば、誰かほかの画家によって描かれているように見え、じかに自分の絵を見ているときよりも、その欠点がよく見えるものだ』

ふとダヴィンチの言葉を思い出して、鏡を持ってきて、背中から絵を見ていた。欠点はよく見えるけど、壁の正体はわからない。そのまま関心はカムイの方に向かっていた。犬は自分をどう見ているのだろうかと、顔の前に鏡を立ててみた。

カムイは退屈そうに、鏡に映る我が姿にはまったく興味を示さなかった。しかし鏡ごしに映る自分を見ていた。目が合ったときに、はっとした。見られるものが、見ているものを観察していた。カムイにとっての最大の関心は、生命線である飼い主。どのような姿をしているかなどに興味を持つのは、自然を切り離し、野性を失って、その代償に「私」を獲得してしまった人間だけなのだろう。当然といえば当然なのだけど、目から鱗が落ちた。左右逆転の世界から、黒い犬に見つめられていた。

悩んで学んで、三十を過ぎてから油絵をはじめた。スタートが遅かったのは幸いだった。技術を覚えるたびに、確かな充実があった。押しつけられた貧困は我慢ならないけど、自ら引きこんだ貧しさは豊かだった。その豊かさのなかで、目覚めていく感覚があった。夢ではないなにかが現れた。仏僧は色のついた砂で曼荼羅を描き、完成したら吹き消す。不毛のように見えるけど、その儀式は、一人の人間の限界を、限ることができない方向に広げてくれている。夢ではないなにかとは、たぶんその方向に向かって伸びている、影のようなものだと思う。

人が手段を探すのは、不確かな領域に確実性(手応え)を与えたいからだと思う。たとえば路傍の石でさえ、内なる力で結ばれれば、霊性を帯びる。物質的な価値は、その人の意識を通して変容(メタモルフォーゼ)する。科学では測定できないその魔法を確かめたいからこそ、手を動かしているのだろうと思う。ダヴィンチはこんな言葉を残してくれている。

絵画とは、あらゆる素晴らしい事物の創造主を知るための手段である。