2014/02/23

語り部

樹齢50年くらいの杉やヒノキを倒している。樹が倒れるときは、敬虔な気持ちになり、自然に手を合わせてしまう。一方で、倒れるときの音や、森の響きが、ものすごく気持ちいい。揺るぎない快感がある。

樹は話すことができない。

だからこちらの心で、感じとるしかない。最後の樹の声は、聞こえるというよりも、透明な風(エネルギー)が、一気に肉体を突き抜けていくという感じだ。森が裂けて、その裂け目から、透明なエネルギーが放出する。記憶だと思う。倒れるそのときに、自分は樹の記憶を全身に浴びている。

薪の確保のために山にはいるのだけど、たぶん理由は後付け。とにかく山にはいりたいから、無理矢理に現実的なことをすり合わせて、呼ばれた自分に理由づけをしているだけだと思っている。もしも薪が確保できていても、きっと違う理由を探しただろう。

スギとヒノキの人工林でも、自分より長い年月を生きているので、語り部としての存在感と、自分の時間軸をねじらせる磁場はある。山は外から見れば整然としていても、何十年も人の手がはいらなければ、無視されていた樹下世界は混沌とする。人を寄せ付けず、破綻して、自由に、暴力的。それなのに、なにもかも包みこむようなおおらかさや優しさがある。お隣の樋口のじいちゃんから、好きにしていいと言うことでお借りしているこの山の樹を、もう何本も倒している。陽あたりを考えて間伐しているつもりなので、罪悪感はないのだけど、いつも樹の声は感じていた。

数日前、樹が倒れる瞬間に『倒してくれて、ありがとう』と言っているような気がした。自分の手で生を閉じた罪と、思ってもみなかった感謝の声がないまぜになって、中和されて居場所を失ったような、不思議な気持ちになった。この樹が植えられたときの、戦後まもないころの日本の植林ブームの時空に、現在の魂が一瞬触れて、樹の時間(記憶)を一気に追体験したのだと思う。そんな気がしただけで、証明することはできないのだけど、現場でなんらかのエネルギーの交流があり、密約されて、自分という存在に憑依して言語化したのだから、それはまさに、語り部の声だと思う。
                             ★

今日は天気がよくて、オオイヌノフグリが咲いていた。川辺にはネコヤナギが、かわいらしげにふくらんでいた。大日如来。太陽はすごいなと感心した。植物は人間ではなく、天の気に応じている。それでいて、わたしたちに希望や潤い、やすらかさを与えてくれている。そのようなおおらかな無限の回路にむかって、知覚の扉を開いたときに、人間は語り部(話す人)に出逢えるのかもしれない。

《大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ》と彼は言った。《もし人間が苛々せずに、静かに生きていたら、瞑想し、考える余裕ができる》そうすれば、人間は運命と出逢うだろう。
(バルガス・リョサ「密林の語り部」より)


2014/02/08

沈黙


 
高野山には圧倒的な沈黙がある。その沈黙の力が、即ち祈り。1200年の結界なのだと思う。




『語り得ぬものについては、沈黙せざるをえない』 ウィトゲンシュタイン




2014/02/02

川の音が特別に聞こえる場所を知っている。ときどきそこに行って、川の音を聴く。その地点では、川の音の波動力がとても強く、全方向から聞こえてきて、超立体的。はじめてここに立ったときは、いい場所を見つけたなと、感動した。なんでもない茶畑の奥なのだけど、自分にとっては天空の音楽堂であり、超自然を感じいるために用意された瞑想空間だ。川はつねに音を発していて、やむことがない。慣れてくると、川の音が聞こえているだけで、ああ、川があるな、という、なにもののおわします存在に、包まれるような安心と畏れを、立体的に身にまとうことができる。その安心が、静寂にシフトする瞬間というものがある。轟音なのに、うるさくない。泥の河なのに、透明になってしまう。音が音として自分に、同期(リンク)する。自分が自然だからこそ、リンクしてしまう現象なのだと思う。川の轟きが大きいほど、静けさ(クレパス)は深くなる。意識が音に入っていくような洞窟の気配、なにものかに向かって、解けて(ほどけて)いくようなメタモルフォーゼ。川の持つ、まるで金太郎飴のような、やむことがなく、誰にでも開かれている永続性は、時間感覚を相殺してくれる真空であり、永遠回帰の扉なのだと思う。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。「方丈記」

時間感覚を失いつつあるとき、その音を軸として、川が自分に向かってくるのか、自分が川に向かっているのか、よくわからなくなる。川は花とはちがって、見つめていても、見つめられているという気はしない。目に見えて動き、流れているからだと思う。植物も生きて動いている。だけども人間の目では追えないほど、ゆったりとした速度だ。

川のなかに、ひとひらの椿や桜の花びらが、流れていたらどうだろう。そこになにを、想うだろうか。浅い感傷心ではなくて、永遠に見つめられたまま、それでいて流されていくという哀しみと、勇気や底力がそこにある。川はその永続性をもって、人間の力では知ることはできないなにかを伝達しているのだと思う。