2016/05/17

精霊の森③


森に運ぶことができる最大のサイズのこの絵は、描きはじめてから二年くらい経っているような気がする。初めて屋外で描いた作品なので、思い入れがある。なかなか絵が進まない原因は、自分ではよくわかっている。

季節や時間によって、風景は移り変わる。だから気の向くままに制作していると、画面は常に破綻する。その破綻を修正するのに、同じ時間だけかかる。それを繰り返してるから、完成しない。画布の下には凸凹とした無為な時間が埋もれている。写真には映らない、森と光に向きあった思い出の地層が、足踏みしている色の下に沈んでいる。

アントニオ・ロペス・ガルシアは、グラン・ピアの夏の夜明けの光を描くために、毎日早朝の地下鉄に乗り、わずか2~30分の現場制作を7年間続けた。風景を巻きあげてしまうくらいの、魂の渦を宿したゴッホの力なら、一日でこの森を仕上げただろう。時間の使い方は魂の在り方によって違う。

最近、仲よくなった地元の人に、哀しい出来事を聞いた。その人が子どものころ、生活苦に耐えかねて、森の入口の祠の樹で、首をつった人がいたらしい。そういうことは、昔は珍しくなかったという。ただその人は、制作に通っている森のことまでは知らなかった。低い山の頂上にある祠から、この森に繋がる道は、草がボオボオに生えていて、わかりにくい。もういないけど、はじめてこの道を通ったときには、スズメバチがこの森を守っていて、簡単には近づけなかった。

頂上の小さな祠は、到達点ではなく、ほんとうは通過点。だからその奥に向かって、進んでほしかった。この先の森の美しさに包まれれば、苦しみが消えたかもしれない。この森は人生の終点ではなくて、はじまりも終わりもない場所、至る道は案内もなく、草むらに隠れている。

その話を聞いてから、すこし森に行くのを避けていたのかもしれない。祠の前の、それらしい樹に手を合わせた。樹は哀しそうに、でも微笑みを浮かべた。それから赤いハンモックの前にイーゼルを立てると、気の早いセミが鳴いた。おかえりと迎えられたような気がした。終わらない絵の上に、新しい色が帰ってきた。

2016/05/04

剣の夢




不思議な夢を見た。剣山の山頂の神社から、大きな蛇のような生命体が、石段を壊しながら、うねうねと山を降りている。最後まで姿を見せなかったけど、あれは地中に潜む龍だろうか。

最近は導かれるように図書館で手にとった、アボリジニの本のなかに出てくるドリームタイム(夢見)という言霊に、憑かれている。もちろん夢見とは、寝て見る夢のことを指しているのではなく、もっと広大な時間を現している。

遅読者なので、貸し出し期間を延長して、やっと最後のページまで辿り着いたのだけど、夢見というのは密教のような性質があって、言葉だけでは語り切れない。夢見が集合無意識や神話世界とも言い切れないのは、それらもすべて物語に含まれているような気がするから。宇宙以前にドリームタイムがある。ビックバン直前の、なにもないはずの真空に、はじまりも終わりもない世界があって、私たちの先祖はそこにいて繋がっている。

精霊は大地に根付いている。彼らは描くことを通して、精霊と繋がる。ウングワレーの絵を見たときに感じた強烈な違和感の理由が、いまはよくわかる。近代的な空間とアートの文脈のなかで、繋がりを絶たれてしまった精霊の行方を、いままで探していたのだと思う。そしていままでもいまもこれからも、探し続けていくのだと思う。宇宙の可能性と生命の繋がりを求めて。

アボリジニがなにより大切にしている情緒は、思いやりである。アボリジニにとって思いやりの心とは、倫理を越えたものである。それは環境に寄せる共感や感情移入の集大成ともいうべき感情なのだ。(ロバート・ローラー著「アボリジニの世界」より)

なぜなら、怒りが怒りによって癒されることはなく、怪我が怪我によって癒されることはなく、憎しみが憎しみによって癒されることはないというのが、この世の真理だからである。怒り、怪我、憎しみを癒すことができるのは、ただ愛だけなのだ。(仏教経典「ダンマパダ」より)

P.S

徳島城公園にある竜王さんのクスは、地中から天に向かって飛び出そうとする、龍の腕のような形をしている。樹齢600年のこの大樹は、1934年の室戸台風で、一度倒れてしまった。でも人の一生ほどの長い時間をかけて、這いあがるように、逞しく生きている。何十年ぶりにここに来て、ああそうかと、腑に落ちた。

いつか見たあの夢が、現実にある場所に繋がった。大きな樹の下には、大きな時間がある。剣山から降りてきた大蛇は、地中の暗闇を泳いで、この場所に出た。地上の光を浴びて龍に生まれ変わり、きっと天に還るのだろう。そしていつかまた戻ってくる。夢と現実は繋がって輪廻している。精霊はけして姿を見せずに、風景として暗示されている。