2016/07/09

土砂崩れ


陽射しが強かったので瀧に向かったが、登りはじめると雲がかり、急に薄暗くなった。道中で謎の背骨を拾ったり、大きな青大将が横切った。思い返すとそれが前兆だった。水が出ていて身体が濡れてきたので、そろそろ帰ろうと思ったら、発砲音のような、なにか弾けるような音がして、川向こうの崖が、土煙を上げて崩れた。

身の危険を感じて、慌てないで山を下りた。落石や土砂が清流を汚して、泥のような川になっていた。もしも対岸ではなくて、こちらの崖が崩れていたらと思うと、ぞっとした。道中でこう思った。誰かが守ってくれたんだなと。

山を下りるとまた晴れてきた。陽光がもたらしてくれる、理由のない安らぎに身を委ねながら、あれはなんだったろうと振り返っていた。目の前で土砂が崩れる確立は、雪崩に遭遇する確立と同じくらいだろうか。

今こうやって生きているのは、宇宙に生かされているから。自分一人では、朝起きることも、呼吸をすることもままならない。人間が内的霊性を失って、生物界の頂点のような顔をして、外的世界を都合よく解釈していると、いつか痛い目に遭うだろう。

土砂崩れがトラウマになってしまったのか、それとも暑さで朦朧としているだけのか、後日の瀧への道中で、妙に繊細になって、変性意識状態になっている自分に気がついた。さっきから誰かがついてきているような気がするし、大きな赤い蝶が横切り、緑色の物体が空中に浮かんでいる。

そういう気がするというだけなのだけど、見えていないとは言い切れないし、空想を越えたリアリティが迫る。山を下りると普段通りになるので、場のエネルギーや天気が自分の状態を変えている。山の神気に触れていると、次元がひとつ増えたような気がしてくる。言い換えると、自分が自分(自由)を見ている。

瀧壺が急に薄暗くなる。浮遊する飛沫のなかに、雨粒が交じっている。ゾッとするような神気を感じて山を下りた。家に帰ると激しい雨、二匹の犬が雷鳴に怯えて、暗い場所を探して震えている。

神気と霊気(inspiration)はよく似ている。充満している万物の気配に、ある条件が重なって霊気を帯び、放電した霊気が根元に近づくと神気になる。 自然だけではなく、芸術作品にも神気を帯びているものがある。極端に強いものに触れると鳥肌が立つ。無意識に組み込まれているチューナーが、宇宙との出逢いを受信している。

人間(大人)は安全な場所にさえいれば雷鳴を怖がらない。自然の科学的な仕組みを把握して、対処方法を心がけて距離を作っている。身を守るために、なんだかわからないものに距離を置いて武装しているうちに、死を恐れ、同じ人間同士でさえ恐れるようになってしまった。

道路に獣が倒れていた。草むらに運んだ。何回運んでも、慣れることはない。車にはねられたハクビシンの体毛と、瀧壺に落ちる木漏れ陽は、同じ太陽の色だった。

人間も自然の一部なのだから、畏れや愛は心のなかにあるはず。こんなはずじゃなかっただろ?と、誰かに問いかけられているような気がする。