2017/08/04

蓮の花(3)

夕暮れ、蓮を見に行ったら、畑の前に、たまに見かけるおばあちゃんが座っていた。こんにちはと声をかけたら「何本でも持っていき」と言う。たぶんおばあちゃんは蓮畑の持ち主で、何度もこの蓮の花を見に通っていたことに、気づいていたのだと思う。欲しくてたまらなかったので、とても嬉しかった。

じゃあ一本だけ、と礼を言うと「何本でも持ってき」と言う。思いやりに甘えて、咲きかけの蓮の花を、二本いただいた。

花を選んでいるときに、大きな蛇(マムシ)がスッと足元を横切った。あれはきっと神(美)の化身だろうと思う。もしかしたら踏んでしまって、足を噛まれていたのかもしれない。それっきり、一度も見かけない。きっと二度と、姿を見せないだろう。なぜこのタイミングで、なぜ毒蛇だったのか。なんとなくだけど、僕にはわかる。

精霊は偶然を装って、この世に存在の影を落とす。その影を、絶対に踏んではいけない。

見つめることと待つこと、それが美しいものにふさわしい態度である。(ヴェイユ)
 


おばあちゃんの伝言

薪ストーブでトウモロコシを茹でていたら、屋根と煙突の隙間部分がパチパチと発火、すぐに消火して、充分に水をかけたつもりだったけど、種火が残っていたみたいで、寝ているあいだに、じわじわと燃え広がってしまった。

煙突周りに隙間は開けていて、いままでなんともなかったのに、なんで急にこんなことになったのかとか、あれだけ水をかけたのに、なんで種火が残っていたのかとか、ちょっと不思議に思っていたところに、昔この家に住んでいた、おばあちゃんの訃報が届いた。

すぐにああ、おばあちゃんが来たんだなと思った。大丈夫に見えても、この部分は危ないよと、火事が心配になって、向こうに行く前に、ここに立ち寄って、教えてくれたんだと思った。その日のうちに煙突周りの木を切って補強し、熱を持つ煙突周りは、耐火ボードを使うように段取りをした。

おばあちゃんとは、ここに住みはじめた当初は、ずいぶん仲良くさせてもらって、一緒に散歩したり、ほんとうのおばあちゃんのように思っていた。でも一年くらい前から僕の顔を見ても、誰かわからなくなって、それからほとんど外に出なくなって、会えなくなってしまった。

異なる事象を、根拠もなくこじつけていると、周りが見えなくなり、自分を見失う危険性があるのかもしれない。それでも僕は、焼け焦げて穴の開いたこの屋根裏を見ると、申し訳ない気持ちで、おばあちゃんを思い出す。あの細い腕や、苦労した若い頃の話、曲がった背中。そういう記憶が、宇宙の穴から溢れだす。

世界は不思議に満ちていて、偶然を利用して、本人にしかわからないように、語りかけてくる存在もある。タイミングや偶然を利用してしか、コンタクトすることができないような存在が、ほんとうはいまの暮らしや安全を、支えてくれているのかもしれない。人間はなにも知らない。生きていることそのものが奇跡で、世界が不思議に満ち溢れていることも、つい忘れてしまう。

心配かけてごめんな、寄ってくれてありがとう。火のもとにはじゅうぶんに注意するから、安心して成仏してください。

 

蓮の花(2)

不思議な夢を見た。感動して涙を流していた。とても大切なことを教えてもらった気がするのだけど、どうしても内容を思い出せない。三日前も同じ夢を見て泣いていた。

生命が何度も生まれ変わり、フラクタルに展開している、スパイラルで動的なイメージだけが、ぼんやり残っている。泣いてしまうってほとんどないから、夢でなにがあったんだろうと不思議に思ってた。

それから蓮の花を見に行った。陽射しの強い昼下がりだった。なんとなく蓮の下(地下世界)が気になって観察してたら、金色の鯉が出てきてびっくり。いままで数え切れないほど通ったけど、鯉がいたのには気づかなかった。花ばかりに気を取られて、本質的なことを見過ごしているような気がした。

人間は見たいものを見てしまう。つまり人間は人間というフレームからは逃れられない。でも本質的なものは、フレームの外からやってくる。今日はじめて姿を見せてくれた金色の鯉は、普段は制御されている知覚の門を、解放させた夢の化身に違いない。本質的なものは、本人にしかわからないようなタイミングを利用して、魂を揺さぶる。


 

蓮の花(1)

洗濯場に紋白蝶が、光を求めて羽ばたいていた。

外から入ってくるような隙間はないので、大根(精霊)の葉についていた青虫が、自然に羽化したのだろう。まるで生まれたばかりの妖精のような、小さくてもキラキラした風景がそこにあった。

それから用事を済ませて帰宅すると、また洗濯場に紋白蝶が。今朝は確かに一匹しかいなかったから、もう一匹青虫がいて留守中に羽化したか、成虫が隠れていたのだろう。どちらにしても不思議なタイミングで、なにか意味のあることのように思えてくる。

ここ最近は、憑かれたように蓮の花を見に行っている。雨が降るのでスケッチもできない。摘んで持って帰りたい衝動をグッとこらえて、落ちた花びらだけを拾って帰る。蝶は散る花に似ている。きっと花の精霊だろう。蓮の花の構造は、曼荼羅によく似ている。曼荼羅から飛び出して、蝶に生まれ変わった花びらは、きっとなにかを伝えようとしている、神の化身なのだろう。

FAKE

森達也監督のFAKE(ディレクターズカット版)を観た。自宅にはテレビがないので、HDに録画してもらったものを別宅で観ていたのだけど、カタルシスを迎えるエンドロールが流れたときに、窓辺に野良猫がスッと現れた。細くて綺麗で軽やかな野良猫だった。観た人にしか伝わらないと思うけど、絶妙なそのタイミングには驚いた。

ほぼ密室で時が流れているこの映画の地平を広げているのは、いっけん無関係な奥さんと猫だと思う。彼が自責の念に駆られて、奥さんに別れてほしいと切り出したことを、監督に聞かれて振り返るシーンがある。あの場面でフレームのなかに、動揺してまごまごした奥さんのリアリティが突然入ってきて、心を動かされた人は多いと思う。

心が動くのは、本質的なことを知覚したからで、本質的なことは、現象世界と同じ方法では知覚できない。だから突然、フレームの外から完璧なタイミングで庭に入ってきた野良猫は、映像を横切る猫と同一であり、時空を超えた本質的な世界を、いま知覚したのだと僕は理解ができた。

Nスぺで彼の特集をぼんやり観てたときは、全聾ではないけど、重度の難聴だろうなあと思ってた。テレビの言葉はもともと真に受けていないし、監督のいうように、聞こえる聞こえないは誰にもわからない。だからゴーストライターが出てきても、だまされたとは思わなかった。それより印象的だったのは、映像から伝わってくる、ひどく暗い闇のようなものだった(その闇に比べて、音楽はすっきりしているなあという違和感もあった)。その闇は原爆(被爆)からきているのかと当時は思っていたけど、騒動後に振り返ってみると、あの頃たぶん、彼は自分の影に押しつぶされていたんだと思う(その影は、偶然を装って本編に出てくる)。だから虚像が崩れてからの方が、人生はどん底だけど、健康的に見える。実際耳鳴りはおさまったのだし、奥さんとのきずなも深まって、嘘がバレてよかったなあと思う。発表する場がなくても、音楽は作れる。

ドキュメンタリーは嘘をつくという短編で、はじめて知った森達也という監督は、いつも出来事(物事)を内側から撮ろうとする。

『物にじかに触れる、そしてじかに触れることによって、一挙にその物の心を、外側からではなく内側から、つかむこと、それが「物のあはれ」を知ることであり、それこそが一切の事物の唯一の正しい認識方法である』井筒俊彦「意識と本質」より抜粋

監督こそがfakeであるという自覚を持つ監督は、ほんとうはたぶんとても素直に、俗世界から本質的なこと(もののあはれ)をすくいとろうとしているだけなのだろう。

宇宙からの帰還

立花隆の「宇宙からの帰還」という本を読んだ。

宇宙飛行士たちのそれぞれの体験談が、とても興味深かった。月の上に下りた飛行士の一人は、直接的な実感として、すぐそばに神の存在を感じていたらしい。自分と神との距離がまったくない、即ち啓示としての神の導きを受けていたという。

地球にいても、すぐそばに神を感じることはある。森の中を歩いたり、大樹に近づくと、なにかに触れる。もしそのなにかを神と言うなら、自分と神の間には、距離がない。森の中や大樹に神が宿っているとも言えるけど、実感としては内的な経験なので、それは出会いであり、距離というのはほとんど感じない。

夜のジョギングコースで、月の灯りさえ届かない暗闇がある。自分の身体さえ見えない暗闇にいて、襲ってくる不安を越えると、自分も暗闇の一部になったような気持ちになって、意識が超越する。宇宙空間のように無音ではないけれど、残された心は、空間や距離を越えた永遠の広がりを実感している。

「宇宙空間に出れば、虚無は真の暗闇として、存在は光として即物的に認識できる。存在と無、生命と死、無限と有限、宇宙の秩序と調和といった抽象観念が抽象的にではなくて、即物的に感覚的に理解できる」エド・ミッチェル(宇宙飛行士)

宇宙飛行士のインタビューを読んでいて、空(くう)のことを話しているなあと思っていた。この人たちは宇宙船や宇宙服ごしに、空(くう)を実感したんだなあと思った。

僕は月に行きたいと思ったことはないし、人間が住めるのは地球だけだと思ってる。野原を歩いているだけでも、宇宙を理解することはできると思う。

数日前、人目を避けた早朝に、イチョウの大樹をスケッチに行った。大樹の根は禍々しくて、ここには鬼がいるなあと思った。スケッチした後、その場所を離れて大樹の全景を見たら、その鬼を可愛らしい形をした無数の葉が、皮膚のように包んでいて、大きなモノノケのように見えた。

ふと思った。なぜあんなに鬼を見つめていたのに、自分には鬼(魔)が入らなかったのだろうかと。禍々しくて不気味なモノを見つめていても、逆にこちらはスッキリしている。たぶん大樹は、この世界に満ちている鬼(魔)を、吸い取ってくれているんだなと思った。それが実感としての、畏怖だろうと直感した。

それから宇宙飛行士の本を読んで、ああそうかと納得した。地球は意識の国で、ひとつの生命体としての神々を、森羅万象に秘めている。言い換えると、宇宙飛行士が即物的に感じた神は、具体的にそばにいる。色即是空、だから大樹は、疑問を与えて、沈黙で答える。

最近は、ある町に定期的に通っている。はじめて訪れる土地にも、神がかった場所がある。創造的孤独を抱えていると、距離は関係なく、そういう場所に繋がる。その繋がりは内的なものだけど、無限な広がりがある。暗黒に耳をすませば、宇宙飛行士と同じような経験をすることができる。

精霊のクライアント

帰宅途中、軽トラに乗った黒い犬とすれ違った。しばらくして、白い犬が全速力で走ってきた。また捨て犬かなあと思っていた。主人を探して疾走しているような、全身全霊の熱い気持ちがこちらに伝わってきて、急に目頭が熱くなった。

その日の午後、犬の散歩していたら、前から来た軽トラが、プップッとクラクションを鳴らしてきた。
‪振り向いた軽トラの荷台には、白と黒の犬が乗っていた。さきほどの白い犬だった。ああ、さっきは軽トラを追いかけていたんだなあとわかって、心底ホッとした。白い犬は疲れているけど、どこか穏やかな顔で、こちらを見ていた。それだけの話だけど、なぜ目頭が熱くなったのか、とか、なぜ知り合いでもない軽トラの人が、クラクションを鳴らして知らせてくれたのかとか、いろいろ考えていると、不思議な気持ちになった。‬

言葉を使えない動物は、テレパシーと呼ぶしかないような方法で、世界と交流している。植物もそうだろうと思う。もちろん人間も、同じだろうと思う。

よくわからないけど、すごく気になることがある。それはとても個人的なことだけど、意味のある偶然に満たされている。言い換えると、シンクロニシティが起きていて、時間や空間が消えている状態。ただの偶然ではなくて、そこに意味がある。

まだ制作中の絵がたくさんあるのに、竜王と呼ばれている大樹を描いてしまう。たぶん竜王が、テレパシーを使って、シンクロニシティの海から、発注しているのだと思う。精霊がクライアントの場合、断わることができないし、報酬は描く喜びのみ、でもその報酬は、100%純粋に、自分に返ってくる。



 

生命の糸

ブリリアントブルーの油絵具を買いに、街の画材屋へ。いつも親切にしてくれる店のお父さんが、まさにその色のTシャツを着ていた。クラクラする太陽に誘われて、中央公園に足を伸ばした。連休明けの公園は、夢の跡のような静けさで、授業をサボって抜け出したあの頃と、たしかに構図は同じなのだけど、ありふれた自由が、なにも起こらない風景に滲んでいく色調を、あの頃よりは印象的に描いていた。

平日の昼過ぎにふらふらしていると、まるで自分が糸の切れた凧のように思えて、自由と引き換えに不安を抱えてたものだけど、あの頃となにも変わらない、木々や木漏れ日や太陽を浴びていると、その光が魂の陰影を映すので、社会からは切り離されたように感じていても、生命の糸は繋がっていることがよくわかる。

驚くほど人のいない、なにも起こらない風景なのに、目が離せなくなるのは、けして立ち入ることのできない、巨大な秘密が、そこに隠れているからだと思う。私たちはぼんやり、その秘密を見ている。

2017/04/29

不思議に満ちあふれているこの世界

神光寺にて。まるで演奏会に来たような、甘い香りと熊蜂のワルツ。ここののぼり藤はほんとうに綺麗なんだけど、霊性が高いモノノケのようにも思えてしまう。
 
自分の意志ではなくて、急に誘われてここに来たんだけど、たまたま青と赤の絵を描いていて、藤の色はちょうどその間にあるから、ふたつの色が重なったような気持ちになった。
 
ふと思い出したことがある。数年前、ある不思議な体験をした。撮った覚えのない写真が、カメラに映っていた。そのことは、すっかり更新するのを忘れていたブログに書いてあった。

「気になる出来事」http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2012/09/blog-post_19.html

実際この体験をした現場は、神光寺の近くだった。たぶん藤の花が教えてくれたんだろう。時間や空間を超える存在があることを、この世が不思議に満ちあふれていることを。

 

花と鴬

ずいぶん前に、東京でお世話になっていた人に、自宅のパーティーに誘っていただいた。そのころは気の利いたプレゼントを買うお金もなくて、空き瓶に入れた花の絵を描いて、持っていった。名の知れた人がたくさんいて、緊張してしまい、絵を渡すタイミングを失って、こっそり部屋の隅に置いた。

パーティーが終わりかけたころ、その人は花の絵に気がついた。固まってじっと見ていたので、声をかけるのを躊躇していたけど、思いきって「僕が持ってきました」と背中に声をかけると、ちょっと吃驚したような顔をして、振り向くと「この絵、ちょっとヤバイよね」と言って、逃げるように離れてしまった。なにがヤバイのかは、そのときはよくわからなかったけど、いまはわかる。なにかいけないことをしてしまったような気がして、すごく恥ずかしくなって、誰にも見つからないように、その絵を鞄にしまった。

本人しか覚えていないような話だし、そのことが原因ではないけれど、東京にいるのがつらくなってきたのは、たぶんそのころからだったように思う。

それから何年たっただろうか。

また同じような花の絵を描いている。誰にも送ることのできない、ヤバイ絵を。気の利いた花瓶にも入れてもらえない、気の毒な花は、描いている間に、しおれて落ちてしまう。なにか自分のせいのようにも、思えてくる。でもそれで描けなくなるほどの繊細さは、自分にはない。

目には見えないけど、花は動いている。でも動くなとは、言えるはずがない。本体から切り離されて、エネルギーの流れが変わってしまった花は、しおれるのも早い。花から奪った時間は、自分の中に流れてくる。その時間が、魂のなかに微睡んでいて、自分を生かしてくれている。

綺麗な花の絵は、うまく描けない。花を汚しているような、気持ちにさえなることがある。自虐ではなくて、たぶん自分のなかに、花のようなタンベラマン(気質)が、欠けているからだと思う。後ろめたいからこそ、見えてくるのは、そこにある花ではなくて、そこにあった時間(思い出)だろうか。

鳥が歌うように絵を描きたいと言ってたのは、モネだったろうか。ちょっとかっこよすぎる台詞だけど、本心だと思う。もしも小鳥が、自分が歌っている理由を、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだと、ヴァレリーは言った。本人も気づいていないような巣箱に、大切ななにかが隠れている。

うちのまわりに来る小鳥のなかに、鳴くのが下手なウグイスがいた。ケッチョ、ケッチョと、ぎこちないけど、なんだか可愛いくて、心に残ってる。小鳥はみんなに喜んでほしくて、歌っているわけではないだろうと思う。歌うことそのものが、小鳥にとって生きることだった。

あのウグイスは、何処にいったのだろうか。もし歌がうまくなって、ほんとうはすぐそばにいるのに、他のウグイスと区別がつかなくて、わからなくなってしまったとしたら、それはそれでよかったなあとは思うけど、すこしだけ寂しい。


 

日本の春

雨が続いているせいか、不思議な夢を見る。昨夜は夢で結縁勘定を受けた。お坊さんに案内された、地下の暗いお堂で、目隠しをして、後ろに花を投げると、空中で花が散った。曼荼羅の上には、昨日の桜のように、白い花弁が散らばっていた。

この時期に山を越えると、道中で桜が降ってくる。初雪のときめきが、溢れるように蘇る。記憶と現実に、切り離されていたはずの風景が、もののあはれを知って、ひとつになる。雲のうえに隠れていた冬の花、日本の春には雪が降る。



メビウスの帯

樹齢千年の大楠へ。場所は頭に入っていたけど、ずいぶん迷ってしまった。

想像以上の霊性だった。誰もいない孤高の風景を、脳裏に描いていたけど、子どもたちが遊んでいた。老女が根を周りながら、なにやら念仏を唱えていた。こんにちはと声をかけてから、すこし離れてスケッチをしていたら、足音もなく、老女が近づいてきた。

すれ違っただけなのに、白蛇のような、絡みつく視線を感じた。この大樹の、守人だろうと思う。老女が去ると、変身したように、赤子を抱いた女性が現れた。生と死を抱いたような、安らかで不思議な時間だった。

羅針盤が惑うのか、大切な場所に辿り着くときは、いつも迷っているような気がする。わかりにくくて、簡単には辿りつけないように、結界がかかっている。でもその結界をくぐると、一気に世界が変わる。

テオドール・ルソーや、クールベのフラジェの樫の木の絵を、思い出していた。広い野原に、ポツンと突き出した千年樹は、絵でしか伝えられないような、独特の質感を持っている。

向こうからやってきた、風景と呼ばれているものと、こちらに微睡んでいる、魂と呼ばれているものは、メビウスの帯のように、ひとひねりに繋がって、完結している。

 

なにかがあるから表現が始まる

峯長瀬の大ケヤキに。廃屋の掃除をしているらしく、大ケヤキのそばに女の人がいた。何度も通ったけど、この場所で人間に会ったのははじめて(ほんとうに人間だったのだろうか?)。ちょっと集中できなかったのと、空が曇ってきたので、素描を中断してカメラを向けたら、まるでカーテンのように、雲がぱあっと散って、太陽の光が射しこんできた。

それからはずっと曇り空で、帰宅してすぐに雨が降り始めた。天気の機微になにげない行動がシンクロ(同調)すると、なにかに導かれているような、不思議な気持ちになる。実際出かける予定はなかったし、朝から路面が濡れていて、雨のリスクが高かった。それでも呼ばれたら出かける。意識はいつも無意識を追いかけている。たまたまと言われればそれまでの話に、自分では気づけない存在の影がある。

なにもないところから表現が始まるのではなくて、なにかがあるから表現が始まるのだろうと思う。違う言語で精霊に語りかけられているような、手が届かないもどかしい気持ち、わかってもらえないだろうなと、諦めてしまいそうな、他の人からは見えない暗い場所に、神々は宿る。

数日前、メダカの水槽の水を入れ換えていたとき、小さな一匹を、誤って外に流してしまった。探したけど、見つけることができなかった。悲しくて泣いてしまうような純粋さはもうないけど、気づかなかったことにするような鈍感さもないので、しばらくは棘が刺さったような気持ちになった。

こういう場所に、性霊(霊性)が宿る。その棘も、時間が経てば、自然に抜けてしまう。生きているから。他の人には見えない、でも大きな意味で繋がっている。そういう大宇宙のような構造を、小さな心が持っている。

 

宇宙の書

「すべての見えるものは見えないものに、聴こえるものは聴こえないものに、感じられるものは感じられないものに付着している。おそらく考えられるものは考えられないものに付着していよう」ノヴァーリス

薪割りをしていると、ツルっと表皮がむけることがある。その皮に虫食いの模様があると、手紙を受けとったような嬉しい気持ちになる。その模様に、意味なんてないのかもしれない。でもなにか本質が隠れているような、宇宙の暗号を見つけたようなときめきがある。

なんの意味もないような自然の模様に、隠された深淵がある。芸術にコミットした人なら、わかると思う。突き詰めると芸術家は、ここを目指していて、自然と人間の間で、揺らめいている。草木が見ていた夢の欠けらを、ほんとうはひとつなのに、離れてしまったものを、拾い集めるように。


粉雪の森

樹々や草花には申し訳ないけど、年に数日しかないので、雪が積もると嬉しくてしかたない。雪は景色を劇的に変えてしまう。凍りつく樹々に絡みつく雪の純白が、内側に宿る霊性を引き立てている。自然は厳しいほど美しい。

家の前は谷になっているので、吹雪いてくると、一度は落ちた雪が、ふたたび風に乗って舞い上がる。ふわふわと落ちる雪と、重力に逆らう雪を同時に見ていると、見ているこちらが無重力になって、宇宙空間に微睡んでいるような夢心地になる。

雪の森を歩いていると、ときどきゴソッと砕けた粉雪が落ちてくる。淡い光に照らされて舞う粉雪は、ダイアモンドのように煌めいていて、それはただの自然現象なのだけど、全てが計算された、天上の悪戯のような、精霊の存在をすぐそばに感じて、ときめいてしまう。

なにげないことに美を感じたり、自然現象にしみじみとするのは、たぶん地球で、人間だけだと思う。なんでそういう機能が、人間に与えられたかを、自分の頭で、深く深く考えていると、やがて雪が溶けるように、自然と道が開けてくる。

 
 
 

魂の影

ひどく体調を崩していたカムイが、やっと回復してくれて、ホッとした。空とカムイは元気があり過ぎて、手に負えないところがあるのだけど、元気がないよりはずっといい。

特にカムイは自分にべったりなので、身代わりに近づいてきた病(邪気)を、引き受けてくれた自分の影のように思えてしかたない。彼らはたまたま犬と呼ばれているだけの、なにかだと思ってる。宮沢賢治のガドルフの百合や、タルコフスキーの映画に出てくるような、物語を横切る、安らかな黒い影。ペットの話ならしたくないけれど、魂のことなら話したい。

実感として、動物に人間の言葉は通じない。でも想いは伝わっている。人間よりも感度が高いので、どれだけ激しく暴れても、無造作に置いてる絵を傷つけたことは、いままで一度もない。草や木や花も同じだろうと思う。人間の言葉は持っていない。でもそれぞれの言葉を持っている。

ある夜、赤い橋の手前で、車にひかれた子犬を見つけた。藍染めの着物で包んで、弔った。それから突然迷いこんできた、二匹の捨て犬。きっとそのへんに咲いている小さな花にも、理由があるのだろうと思う。人間の都合で物事を見ていると、違う回路の言葉は汲み取れない。

いつだったか、長くゆるいカーブで、ニコニコと手を振ってくれる、お婆さんがいた。森のなかで、風もないのに、揺れている草を見ていると、名前も知らないその人のことを、思い出すことがある。風の音が聞こえる、吹きさらしの、あのゆるいカーブには、いまもなお、汲み取れないままの言葉が、流れている。

生命の轍

薪を割っていたら、ナスカの地上絵のような模様が出現した。太陽のような、クモのような。珍しくはないけれど、直前まで剣山の聖なる岩を素描していたこともあって、古代の地層に触れたような不思議な気がした。

ナスカの地上絵って、鳥の目で描かれたものだと思う。人間って、ふたつの目がある。外側の目と、内側の目。内なる目は、鳥のように全体を見通したり、夢のように心を泳ぐことができる。木の中にいた虫は、その暗闇を内なる目で照らし、古代の夢を泳いでいたのだろう。だから地上絵とリンクした。

こんぴらさんで見た、若冲の花丸図には、個々の花や葉に、虫食いの穴やシミが描かれていた。内なる目で美を追及した若冲にとっては、夢を通すその穴が不可欠だった。画家が通したその細い糸は、太古の時間と今ここにある未来を織りなして、ただ綺麗なだけの花に、ありのままの生命を宿した。

虫に感情や意思はないのかもしれないけど、生命がある。シンプルに生きている虫の轍や、自然の織りなす芸術は、ときに人間の眠っていた感情を呼び起こす。内なる目は時間の宇宙を泳ぎ、生命の輝きに呼応している。外側の目と内側の目が重なる場所に、理由のない美しさや驚きがある。

 

太古の記憶

ずいぶん前に自分で作った家具を、薪にしようと庭で輪切りに切っていたら、強烈な香りが漂って、驚いた。しばらくして、それがクスノキだとわかったのは、たまたま描いていた、大楠の木炭画の前に置いたときだった。よく似ているなあと思って、模様を調べたら、やっぱりクスノキだった。

楠のこの独特の香りは、古くから天然の 防腐剤として利用されたり、強心剤としても使用されていたため、それらの用途としてはほとんど用いられなくなった現在でも、「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」を比喩的にカンフル剤と例えて呼ぶことがあるらしい。「臭し(くすし)」、「薬(樟脳)の木」が、「クス」の語源だと言われている。

「駄目になりかけた物事を復活させるために使用される手段」

たしかになにかが、復活するような香りだ。眠っていたなにかが、むくっと立ち上がる

切った覚えはないので、たぶん拾ったか、もらった木だと思う。この小さなクスノキと大きなクスノキの出会いは、本人も気づいていないような、無意識の世界で進行した。もう香りはほとんどしなくなってしまったけど、木のなかには記憶が眠っている。

木や石は、深く眠っている。瞑想をしていて、なにかを考えている。そのなにかが、無意識に働きかけている。

嗅覚は五感のなかで、唯一大脳新皮質を経由せずに、記憶や感情を処理する部位にダイレクトに接続しているらしい。たしかに匂いを感じるときと、なにかをフワっと思い出すときの感じは、よく似ている。

でも嗅覚が思い出す記憶は、限定された自伝的要素だけだろうか。個人的な時間を超えて、終わりのない旅を、逆走しているような気持ちになることがある。

人間は見たいように物事を見る。そんな不自由な人間に対して、ただ其処に在るはずの自然が、手を使わずに自分を動かしているような気がする。覚えていない思い出が眠っている、無意識の海へ。

楠の香りは夢のように、太古の記憶を呼び起こす。

 

木を植えた人

2016年最後の夜、ジャン・ジオノの木を植えた人を読んだ。
 
「この人と一緒にいると、心が落ちつく」
 
呼吸をするように燃える薪の炎が、木を植えた男のイメージと重なった。
 
「人間は破壊するばかりの存在というわけでもなく、神に似た働きもできるのだ」
 
ジャン・ジオノの木を植えた人は、戦争の影響をまったく受けなかった。彼が実在するかしないかは、問題ではないだろう。ジャン・ジオノの木を植えた人は、自分の心の中にいる。
 
明けて2017年、初詣は宇佐八幡神社に、そのまま明王寺に行って、大楠と桜の縁を結んだ。まるで花道のように、道中でいくつものケセランパサランを拾った。明王寺で引いたおみくじには
 
「わがおもう 港も近く なりにけり ふくや追手の かぜのまにまに」
 
とある。風に守られているようで、ホッとする。

神社の鳥居の下に落ちていた、白く輝く小さな綿毛。季節が変わる頃に、この美しい羽根は、桜の花に生まれ変わるだろう。

世間の流れとは別に、自分の中に流れがある。その風に乗れば、何処までも飛んでいける。その風は何処から吹いているのだろうか。

世間の流れに合わせなくても、内なる大海に帆を立てれば、ワグナーのように舟は進む。

 
 

前世の夢

夢を見た。どこか遠い異国の密林、大きな虎が上にいて、動けない。虎の顔が近づいてきて、ああ、食べられるのだなあとすっかり諦めて、抵抗せずに、静かに目を閉じたら、夢から覚めた。雨雲が朝の光を隠していた。

台風が近づくと空が赤く染まるように、低気圧が近づくと不思議な夢を見る。どこかで見たことがあるイメージだった。法隆寺で見た、玉虫厨子の捨身飼虎図を思い出した。

寝る前にブッダの本を読んでいたから、間接的に記憶が呼ばれたのだと思う。夢であれ、ジャータカ(釈迦の前世)の物語に触れたのは、光栄だと思う。ああ、ここで人生が終わるのだなあと、後悔も未練もなく諦めて、目を閉じた瞬間、意識がスッと背中から首すじの辺りにかけて、上に抜けたときの、あの人生をリセットしたような不思議な感じが、いつまでも残っていた。

夢は目を閉じてから見るのだから、目を閉じて夢から覚めるという経験は、いかにも奇妙だ。目を開けていても、ほんとうはなにも見ていないことがある。網にとらえられない風のように、風景は流れて、水に汚されない蓮のように、永遠に咲く花がある。犀の角のように、ただ独り歩め。