2017/04/29

花と鴬

ずいぶん前に、東京でお世話になっていた人に、自宅のパーティーに誘っていただいた。そのころは気の利いたプレゼントを買うお金もなくて、空き瓶に入れた花の絵を描いて、持っていった。名の知れた人がたくさんいて、緊張してしまい、絵を渡すタイミングを失って、こっそり部屋の隅に置いた。

パーティーが終わりかけたころ、その人は花の絵に気がついた。固まってじっと見ていたので、声をかけるのを躊躇していたけど、思いきって「僕が持ってきました」と背中に声をかけると、ちょっと吃驚したような顔をして、振り向くと「この絵、ちょっとヤバイよね」と言って、逃げるように離れてしまった。なにがヤバイのかは、そのときはよくわからなかったけど、いまはわかる。なにかいけないことをしてしまったような気がして、すごく恥ずかしくなって、誰にも見つからないように、その絵を鞄にしまった。

本人しか覚えていないような話だし、そのことが原因ではないけれど、東京にいるのがつらくなってきたのは、たぶんそのころからだったように思う。

それから何年たっただろうか。

また同じような花の絵を描いている。誰にも送ることのできない、ヤバイ絵を。気の利いた花瓶にも入れてもらえない、気の毒な花は、描いている間に、しおれて落ちてしまう。なにか自分のせいのようにも、思えてくる。でもそれで描けなくなるほどの繊細さは、自分にはない。

目には見えないけど、花は動いている。でも動くなとは、言えるはずがない。本体から切り離されて、エネルギーの流れが変わってしまった花は、しおれるのも早い。花から奪った時間は、自分の中に流れてくる。その時間が、魂のなかに微睡んでいて、自分を生かしてくれている。

綺麗な花の絵は、うまく描けない。花を汚しているような、気持ちにさえなることがある。自虐ではなくて、たぶん自分のなかに、花のようなタンベラマン(気質)が、欠けているからだと思う。後ろめたいからこそ、見えてくるのは、そこにある花ではなくて、そこにあった時間(思い出)だろうか。

鳥が歌うように絵を描きたいと言ってたのは、モネだったろうか。ちょっとかっこよすぎる台詞だけど、本心だと思う。もしも小鳥が、自分が歌っている理由を、正確に言うことができるとしたら、彼は歌わないはずだと、ヴァレリーは言った。本人も気づいていないような巣箱に、大切ななにかが隠れている。

うちのまわりに来る小鳥のなかに、鳴くのが下手なウグイスがいた。ケッチョ、ケッチョと、ぎこちないけど、なんだか可愛いくて、心に残ってる。小鳥はみんなに喜んでほしくて、歌っているわけではないだろうと思う。歌うことそのものが、小鳥にとって生きることだった。

あのウグイスは、何処にいったのだろうか。もし歌がうまくなって、ほんとうはすぐそばにいるのに、他のウグイスと区別がつかなくて、わからなくなってしまったとしたら、それはそれでよかったなあとは思うけど、すこしだけ寂しい。


 

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