2013/07/15

カムイ


雷雨のさなか、ヒグラシの大合唱が響いてきた。まるで天空に鳴く、ワッカ・ワシ・カムイ(水のカムイ)。

遠雷が響きはじめると、空(犬)が極端におびえはじめる。あれは動物ならではの、研ぎ澄まされた感受性で、神威(カムイ)を感じているのだと思う。

【カムイ】(kamuy, 神威、神居)は、アイヌ語で神格を有する高位の霊的存在のこと。

犬が雷鳴や地響きにおびえるのは、その音の正体がよくわからないからなのだろう。吠える対象を失い、おそるべき強大な暗力の存在だけを感じて、その支配力から逃れようと、だからパニックになる。これは人間でもよくわかる。脅威に対して、原因を探り、分析を繰り返し、安定をはかる。雷のことを知らない赤ちゃんは、雷ではなく、轟きに泣く。現代科学は雷がどういうシステムで発生して、なぜ起こるのか、その知識を、万人で共有している。だから犬のように混乱はしないのだけど、世界はいつだって混乱している。

時計を分解しても、時間のことはわからないように、メカニズムを知ることと、本質を知ることはまるで違う。暑い日に打ち水をしたときに、なぜ空中に虹が発生するのか。その仕組みを知ることはできけど、そのときの虹との関係のなかで生まれている、心の動きを説明できないのなら、その手法で虹というものの正体を知ることはできないと思う。

人間とは根源的に、時間的存在であるとしたら、カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。時間をかけて、時間に許されたものの御影(みえい)ではないだろうか。人間の手で作られたものでも、何千年、何百年と受け継がれてきたものには、カムイが宿っている。そうでないものは、崩壊しているのだから。



追記 2014.3.9

ある日、首輪のついた黒い犬を見かけた。うろうろしている背中がとてもさみしそうで、あれは捨て犬ではないだろうかと、ずっと気になっていた。保護しようと思ったけど、夜はどこかにいなくなる。冷たい雨の夜だった。ふと強烈に思い出した。いまどこで、なにをしているのだろうか。おなかが空いてはいないだろうかと。

犬は言葉を使わない。即ち、概念のない世界に生きている。彼らはわたしたちを、どういうふうに見ているのだろうか。どう見られているのだろうか。わたしたちは言葉から生まれて、つねに概念に囚われている。動物は毎日、新しい太陽を見ている。人間は夜がすぎれば、朝が訪れることを知っている。夜が終われば朝が来る。だけどそれだけで、太陽を知っていると言えるだろうか。はじめて太陽を見るような、あの感動はどこにいるのだろうか。わたしたちの目は、なにも見ていないし、なにも知らないのだと思う。この雨に震える犬は、きっとわたしたちを、世界から見つめている。

翌日、黒い犬を保護した。カムイと名付けた。

カムイはまるく、自分を包みこんで眠っていた。冷たい雨の夜、自分はこの姿を幻視した。カムイを保護して何人かに、そんなに拾ってばっかりいたら、そのうち家が捨て犬だらけになるよ、と言われた。それを冗談と受け止める余裕はあるけど、すこしさみしい気持ちになってしまった。世界中のかわいそうな状況を救うことはできないし、そのような積極的な仏心が、自分に備わっているとも思えない。ただ、出逢ってしまい、宿ってしまう、心象世界での約束というものがある。そこにたいして、自分をごまかしたり、いいわけを探したりということは、自分にはできない。

ようするに、自分を守りたいのだと思う。死守したい真空があり、その裂け目に潜んでいる神秘が、天命を握っているのだと理解している。ひとりの人生には限りがあるのだから、縁があれば、迷わずひきこめばいいのだと思う。たかが捨て犬が、わたしたちの三次元空間に、新しい座標軸をひいてくれることがある。カムイとは、時間的制約から解き放たれた幻。


『俺は、すべての神秘を発(あば)こう、宗教の神秘を、死を、出生を、未来を、過去を、世の創成を、虚無を。幻は俺の掌中にある』アルチュール・ランボー「地獄の季節」

『あすこはさっき曖昧な犬の居たとこだ』宮沢賢治「ガドルフの百合」


追記 2014.3.26

カムイ(犬)の飼い主が見つかりそうにないので、うちで飼うことにした。

公共機関でもネットでもオープンにしたし、新聞(アドネット)にも載せた。コンビニにもずっとポスターを貼らせてもらっていたし、猟友会にも探してもらったから、捨てられたのは確定だと思う。

手に負えなくなったら、捨てればいいと思っているんだろうな。誰かが面倒みてくれるだろうと、勝手に思っている。捨てられたものの気持ちや、後のことなんて、考えられないのだろうか。人間(自分)は。
よくある話だし、自己愛を重ねたり、感傷的な気持ちに溺れて、酔っているつもりはないけど、空やカムイは、探してもらえない悲しみ、疎外の反美学を背負っている。言い換えれば、孤高。それでも空(くう)とカムイ(神威)は、人間を恨んだり、憎んだりしていない。

カムイは噛み癖がひどい。

見ただけでは安心できないので、噛むことによって、その歯ごたえで世界を知り、確かめようとする。甘噛みだけど、牙がささるのでけっこう痛い。これはどうにかしなければと思って、いい方法を知って、鹿の角を与えてみたら、角の形におびえていた。目から鱗。斬新だった。おもしろいので、手に持って揺らしたら、角に向かってワンワン吠えている。いまはもう慣れてガジガジ噛んでいるけど、はじめて見る形そのものに、なにかを感じていたんだろうと思う。レイチェル・カーソンなら、センス・オブ・ワンダーと呼んだろう。

概念があったら、こんなことはありえない。でもまだ純白な子どものころなら、人間でもありえる。空も鹿の背骨の形を怖がっていた。モノだから、噛みついたりしないから大丈夫だよ、という理屈は、動物には通らない。人間が、成長するに従って太くなるパイプ(回路)とは、違う回路で世界を感じているから。



再追記 2014.3.26

鹿の角が一晩でこんなになってしまった。カムイと鹿の角はよほど相性がいいらしい。もっと角を手に入れないと。でも鹿の角のような、形そのものに神気が宿っているものって、探すと見つからない。ケセランパサランもそう。出逢いはいつもセレンディピティ。




話の角度が変わるけど、上の写真は夕方に撮ったもの。下の写真は朝に撮ったもの。まったく同じ場所。カメラのことはあまり詳しくないので、オートフォーカス。ほんのすこし露出過多の、いつも同じに設定にして、フラッシュが焚けないようにしてある。

朝と夕で、これだけ色が違う。

もちろん写真が目に映ったそのままの色ではないとしても、普段の目は時間をともなっているので、光の波長の違いが、よくわからない。こうやって見て、はっとする。裏を返せば、こんなふうに確認しないと、はっとできない。人間が時間だから。

カムイは(自分の神話のなかでは)時間的制約から放たれた存在なのだけど、人間は暗室という外部装置(カメラオブスクーラ)によって、はじめて自分の存在を確認できる。

モネの連作を思い出していた。

ルーアン大聖堂は、光によって存在感を変える。見るタイミングによって、見え方が変わる。モネの無意識は、このことを丁寧に伝えずにはいられなかった。人は見たいように、世界を見ている。だけどほんのすこし角度を変えれば、見え方は広がる。多面的に世界を見て、やっと物事が俯瞰できる。そこでやっとスタート地点、ほんとうの豊かさに出逢う旅が始まるのだと思う。

色というのはほんとうに不思議で、人間の思考では底が見えないような奥深さがある。その色にどういう意味があるかというよりも、むしろ、なぜそのように見えているかを考えたいと思う。意味を超える神秘への理解は、日々の生活に哲学の種をもたらしてくれるから。

2013/07/06

我心

突然やってきた犬(空)が、川ではしゃいでいるのを見ていると、それだけで自分まで解放されたような、無私の気持ちになる。たぶんそれは、自分と捨て犬との接点が、曖昧になっているからだと思う。拾ったのか、拾われたのか、飼っているのか、飼われているのか、捨てたのか、捨てられたのか、西行が「いかにかすべき我心」と悩み続けた我心(わがこころ)が、いったいこの世界のどこにあるのか、よくわからなくなる。

だけどいまこの川を流れている水や、雨粒は、まぎれもなく、あのとき東日本を襲った水であり、これから原子炉を冷やす水であり、あのとき飲んだ水であり、これから飲む水。そのことさえ忘れなければ、犬との戯れの接点においても、はしゃいではいられない人たちの心と、死者の魂を抱きしめることができる。その肉体を超越した抱擁が、さまよえる、いかにかすべき我心の、ベクトルではないだろうか。
自分と戯れるくらいなら、犬と戯れて、自分と戦う。