2013/11/24

神即自然



空(犬)が車にひかれた。

幸い命に別状はなく、骨も折れていない様子だ。森で放し飼いで遊ばしていたら、突然まっしぐらに道路に降りてしまった。ぶつかったのは、大量の犬を乗せた謎の軽トラック。その軽トラが近づくと、空のタガが外れるので、妖怪犬車と名付けて、日頃から注意していた車。その妖気を、空は樹林のなかで感じてしまった。離れていても、人間とは感度が違うことを、忘れてしまっていた。人間の尺度で、考えていた。足の速さに追いつかず、走る森のなかで、なにかがぶつかったドンっという低くて鈍い音と、キャンという高い悲鳴だけを聞いた。内心、ああ、死んだな、と思った。あわてて森を降りて、現場に着くと、空はいなかった。そこには空の毛の塊が落ちていた。軽トラのじいさんに聞いたら、ぶつかったあと、下(しも)のほうに走っていったというので、追いかけた。すると家の前にいた。パニックになって、帰省本能で疾走したのだと思う。ほっとした。前足のつけねの皮膚が大胆にベロンとめくれて肉が出ていたが、それほど血は出ていなかった。歩き方も自然に見える。だから病院には行かなかった。手をかけて、自然治癒を見守ろうと思う。夜になって、極端にびっこをひきはじめた。本当の痛みは、影のように。後からジワジワついてくる。しばらくは、脳内の興奮物質で痛みを感じなかったのだろう。人間と同じだなと思った。傷を執拗になめて、いきなり老犬になったように、おとなしくなった。鈍い痛みがあり、本能が安静を強要しているのだと思う。しばらくは、外で遊べないけど、生きてくれてよかったと思う。
 
たかが犬。だから考えたい。

首輪を外した自分の不注意を、棚にあげるつもりはないし、自家中毒になっているつもりもないし、犬に自分を投影しているつもりもないけれど、突然ボロボロのガリガリで家にやってきたこの犬には、生命力に裏打ちされた、強運がある。以前も一度、車の正面に飛び出してしまった。ほんとうにギリギリの急ブレーキをかけてくれたおかげで、助かった。そのとき長縄を引いたときの摩擦で、手のひらが擦れて、血で焼け爛れた。それくらいやんちゃで、でかくて、力が強い。だから捨てられたのだと確信できる。当初はおびえて、他人を噛んだこともある。謝り倒して、許してもらった。慣れないうちは、自分も何度も噛まれた。拾うのが数日遅れたら、保健所で死んだろう。そこも強運だと思う。ヨダレが異常に出る。わがまま。外に出たがる。遊びたがる。女好き。臆病。無駄吠えする。拾い食いをする。ほんとうにめんどくさい性格だけど、それが動物。野性と思う。目に物言わぬ力があり、観察しているだけで、忘れかけたなにかを思い出させる。走り回っている姿を見ているだけで、元気になれる。救ったつもりが、救われているのだ。感傷的になるつもりはないけれど、怪我をさせてしまったことにたいして、胸が締めつけられた。自分だった方が楽だとも思った。人間が創ったもの(道路と車)に、その人間が被害をこおむる。達観すれば筋が通るから、ただの不運。なにも言いたいことはない。だけど、なぜ一匹の犬が、大量の犬を乗せて人間が運転する謎の軽トラックに、ひかれなければならないのだろうかと。過酷な土地、その生活のなかで、生き抜くための捕食、打ち立てられた神話のなかで、犠牲になるのとは違う。突然やってきたこの犬は、人間(自分)、または現代に対して、明確に問題提起をしてくれている。

空(犬)を家のなかに保護したあと、森のなかにカバンをそのままに置いていたので、取りに帰ったら、足元にケセランパサランを、ふたつだけ、見つけた。今年の一月に見つけて以来、いくら探しても、見あたらなかった。それが今日、たまたま見つかった。しかも、ふたつしかなかった。ケセランパサランとは、なんだかよくわからない綺麗な羽根のついた、まるで森の妖精のような種子。この謎の美しい種子は、江戸時代から妖怪と呼ばれていた。空は二度、車という妖怪に吸い寄せられて、二度とも、助かっている。ケセランパサランは、自然の霊。きっと、動物を人間の業から守る妖怪なのだと思う。(ケセランパサラン)http://kazuyasakaki.blogspot.jp/2013/01/blog-post_5.html

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毎晩犬と一緒にジョギングをしているけど、しばらくは一人だ。昨夜の月も、綺麗だった。百年前も百年後も、百万年前も百万年後も、なにも変わらず、きっと同じように、美しいのだと思う。

『神即自然(deus sive natura) 』スピノザ