2013/06/03

法隆寺

奈良の法隆寺と興福寺に行ってきた。雨の法隆寺を期待していたのだけど、カラっと晴れて、空には龍が通りすぎたような羽衣の雲が浮いていた。期待を裏切ってくれる天空は爽快だ。

特別開扉されている南円堂、北円堂に入ってすぐに無著(西行)と目が合って、背筋になにか電気のようなものが走って、髪の毛が逆立ったような気がした。世親と無著はもう、生きている人より生気がある。ああいう当時そのままの奇跡的な空間に身を置くと、関わった人たちの魂まで感じられるのが嬉しい。法隆寺は聖徳太子が建てたのではなくて、大工さんが建てたのだから。それは太子が一番近くに感じていたと思う。

通信や交通手段のなかった飛鳥人よりも、現代人の方が、はるかに多く、古き仏たちを体験していると思う。千年先まで届くように考えて作られたのだから、それはもう、当然のことだろう。祈りの矢は、ちゃんと届いているということを、飛鳥の大工に伝えたいという、タイムマシンでも作ってみたいような、もどかしい気持ちがある。

ただただ惹かれているだけで、仏像も仏画も、詳しいわけじゃないし、神社と寺を間違えるほどの不作法がある。では古き仏たちのなにに惹かれているかと自分に尋ねてみると、手放しに昔を賛美して、現実逃避したいわけではないではなく、仏たちの、その答えのない無限の眼差しにあると思う。言葉にならないような、どうにももどかしくて矛盾したこの気持ちを、憤怒の表情で、なぐさめるような優しい眼差しで、冷たく突き放し、無言で諭すような遠い視線で、その言うに言われぬ、言葉に成り立つ前の、起源のような不安定にエネルギーの満ち満ちたこの気持ちを、代弁してくれているように感じているのだろう。自分のかわりに傷を負ったように朽ち果てていく像(イメージ)は、罪を背負って自然に還ろうとしているようにも見える。汗をかきながら、美術館に展示されている有名な作品ではなくても、無名な石仏は至るところにある。その風化に、人間が、当たり前のように自然に還っていく姿を、鏡のように重ねているのだろう。

311からカタツムリの速度で進めている仏の素描が、四冊目に入った。一冊目は色即是空、二冊目は空即是色、三冊目は色不異空、というタイトルをそれぞれにつけている。これから描きはじめる四冊目の空不異色は、救世観音からはじめようと思っている。
 


 

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